哲学者って聞くと皆さんはどんな人を浮かべますか?
なんだか堅苦しそうな人?気難しそうな人?難しいこと考えてそうな人?頭よさそうな人?
多分いろんな人がいると思います。最近はSNSでも「哲学やってます」っていうかたたくさんいらっしゃいますね。私もその例にもれませんが。
ただ中には、哲学を自分に都合のいい意見しか取り入れない方法論、つまりは理論武装として使っているだけだったりとか、対話をしようとしても自分に都合のいい形の対話でしか受け入れないと拒絶していたりとか、なんというか「自分が誰かや何かに都合よく与えられたくてたまらなくて哲学やってる」ていうこともいくらかあるようなきがするんですよね。
ようは哲学やることが目的でなくて、哲学が別の何かを得るための手段になっているケースですね。それって哲学の祖であるソクラテスの「善く生きる」とは違うんじゃないかと思うのですよ。
塵のように小さくできることは限られた存在である自分の評価なんぞよりも、共同体として、人の本質的な幸福や在り方を追求して生きる。
それが善く生きるではないでしょうか?
目次
哲学の祖であるソクラテスはどんな人だったんだろう?
「おしゃべり大魔神」だったんじゃ?
ところで、これまでに歴史に名を残している様々な哲学者がいますが、その中で「おしゃべり」だった人ってどれくらいいるのでしょうか?
いろんな人とおしゃべりしてた哲学者ってひょっとしたら「ソクラテス」くらいしかいないんじゃ?と思うのです。
ソクラテスってその「いろんな人を論破して回ったという逸話」で有名な人ではあると思うのですが、別に論破することを目的としていたわけではなく、対話をすることで真に知っている人を探し出すことが目的だった人なんですよ。
とにかくいろんな人に話しかけて、「それは一体どういう意味なんだい?」と質問し続け、突き詰め続けてそんな人を探していた。それを続けていたらいつの間にか相手を論破していて、論破し続けていたらいつの間にか周りから反感を買って厄介払いされて処刑を言い渡されてしまった人だと私は解釈しているんですが、それくらいになるまで彼はとにもかくおしゃべりに明け暮れていた、そんな人だったんじゃないかと思います。まぁそれを、議論と呼んでもなんでもいいのですけど、彼はそれをどんな形であれやっていたと思うのですね。
でもかといって彼は人間としての在り方を強いたりだとか、こうあるべきだとか押し付けたとか、相手に何も押し付けずにただ自分が聞こうときめたことを聞き続けていただけなんじゃないかと思うのです。だって何かを押し付けても、自分の探している真に知っている人なんて見つからないじゃないですか。
ソクラテスの相手になった人はそんな「ただ聞いているだけの、質問をしているだけのソクラテス」を気に入らず「国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた」ともっともらしい理由をつけて、怒りに駆られて彼を牢獄行きにしてしまったわけです。メレトスをはじめとした3人の告発者が、ソクラテスに「痛いところ」を指摘され、ヒステリーを起こしてやってしまった衝動的な行動によるものですね。アテナイ人はその行いを後悔してメレトスを死刑にしたのでした。
いやまて、後悔したからメレトスの死刑にした?いやはや。
まぁとにかく、それも含めてとても愚かなことであったとおもいます。自分が向き合ってこなかった自分の弱いところをたまたま、ただ質問されただけなのにそれで腹を立てて彼の命を奪ったわけですから。別に彼らが劣等感を抱えている事がソクラテスの責任では全くないのにも関わず、彼を責めたという愚かな話だったと思います。
自分にその劣等感があるばかりに、メレトスらの目にはソクラテスが「俺の方が知っているんだぞ」とマウントを取っている、「おまえたちはばかだと侮辱している」と思ったからそうしたのだと思いますが
そもそもソクラテスは別にマウントを取って優越感に浸ってなんかいなかったと思うのですよね。何なら自分のことを何も知らない無知な人間だと思っていたわけで。
彼が問答をし始めたのも、彼の友人が「ソクラテスより賢い人っているの?」と神託所で聞くと、「そんな人はいない」と返ってきて、それを友人から聞いたのがきっかけ。ソクラテスは「そんなばかな」と、その真意を確かめるためにいろんな人に自分より賢い人を探して質問して回ったわけですし。
だから別に高を括って質疑応答してたわけではなかったと思うのですよね。けどどこにもそんな「真に知っている人」はどこにもいなくて、「まじかよ?」という感じだったんじゃないでしょうか?
「私は自分が無知であることを知っているから私は賢い」というのも、周りは知ったふりをしている人だらけで「自分の無知を認めないうそつきの彼らよりもちょっとだけ自分はましな存在だった」と思っただけの話しで、自らを賢いといったのも欺瞞からではなく、彼の皮肉屋的な性格から考えてただの皮肉だったんじゃないかとすらも思います。
哲学とは「対話」なのでは?
ソクラテスって哲学の祖といわれていますよね。そしてその「祖」である彼はおしゃべりだったわけなんですが、おしゃべりで誰に対しても対話を試みつづけ、「ソクラテスの弁明」に始まるように、そんなおしゃべり好き、討論好き、対話を愛し善き生き方を愛したところがソクラテスがソクラテスたる大きな部分を占めているんじゃないかと思います。彼を記録に残したプラトンもそんなところを尊敬していたんじゃないかと思うのですね。
となれば哲学というのはソクラテスがその時に体現していたものそのもの、つまり「対話」がメインの学問、もしくは対話そのものなのではないかと思うのですよ。
ソクラテス式問答法なんていうのもありますし、自分と対話をすることによって己の無知と向き合い、相手と対話によって相手の知を掘り進め、「自然」と対話することでそれが一体何なのかを理解しようとし、結果科学や数学などの学問すらも生まれた。なんてことなんじゃないかと思います。
対話の対象が自分か相手か、はたまた自然の何かなのか、ようは対象の違いくらいのもので、基本的な形は対話であることは変わらないんじゃないか、と思うのですよね。
だからもし哲学をやっているというのなら、それは対話をやっている、ということになる。対話をベースとして何かをしていることが哲学でしょう。
そして対話とは、言葉を使って対話相手の言葉を引き出すこと、つまり質問をして聞く、あるいは相手の質問に答えるということになり、「なぜそう思うのか」とか「なぜそう感じるのか」と言った、いわゆる物事の本質にせまろうとするクリティカルシンキングをベースにしたものになると思います。
それって時には、当人の劣等感を感じる根本的な理由にも触れるってことなんですよ。自分がそれを何故そう思うのかということについて突き詰めて言ったら、自分がそれを持っている場合嫌でも突き当たるはずです。
だから自分や他人の質問や問答がそれぞれの劣等感に触れても別に不思議じゃないですし、哲学をやっているということはそれは既に想定の範囲内というか、既にやっていることなので、その指摘者が自分だろうが他人だろうが、別に大した違いはないと思うのですよね。
ましてや他者から指摘されたところでヒステリーを起こしたり、ムっとして無視したりする、なんてことはしないんじゃないか、とも思います。もし答えないケースがあるとしたらそんな感情的になる理由ではなく、もっと別の「今ちょっと手が離せなくて時間がないから」というようなものになるのではないでしょうか。
でもそれを自分の劣等感やコンプレックスという負の感情を他人に感づかれたくない、知られたくないと避けていたりとかすることってあるんじゃないかと思うのですよ。
他人からの指摘にとても大きく感情を揺さぶられ、「なんだこいつは」「こいつは何もわかってない」「こんなどこの馬の骨もわからない信用できない奴と会話なんぞするものか」と、何かと他者を見下して権威的な考え方で理由を見つけて自分を正当化してでも対話を避けてしまっていたり。
そんな姿勢なので、必然的に自分の周りには自分に何も指摘も意見も言わないYESマン、都合のいい他人だけで囲わせるだけ、自分の都合のいいことを言う人や自分の都合のいいやり方で「自分にとって都合がいい対話」ができる人だけを周りにおいて、その中で「俺、私わかってる」なんてやりたくなる。
そんな風に他人を自分の思い通りにして、支配下において自分の哲学で他人を分からせる、わかってもらうことが哲学だといってやっているケースもそこそこあるかのような気がするのですよね。
他人のやっかみをしているだけ、ただ勝手に相手の頭の中を想像して決めつけてるだけ。相手の話を全然聞こうとしてない、全く他人に向き合おうとしてない。そもそも自分に全然向き合ってない。対話を全くしていない、なんてことを哲学だとしているケース。これってどれくらいあるんでしょうかね。なんとなくそこそこありそうな気がするんですが。
SNS上で哲学をやっているという人を見ても、誰かと対話をしている人っているようにはみえない。既に仲のいい気の知れたもの同士、哲学をやっている人同士で何かを話しているのはそこそこ見かけるのですが。
要は馴れ合いです。でもそんなの対話でも何でもないし何も進歩ないですよ。ただの井戸端会議と変わらないじゃないですか。
対話しない哲学って一体何なのでしょう?するにしても特定の人とだけしかしない。特定の気の知れた人としかやらないっていうのはなんだか対話から逃げていたりする姿勢があったりするんでしょうか。
哲学をやっているという人達からも、そうでない人達からもいろいろ聞いてみたいです。(もしよろしければこちらのコメント欄で。待ってますよ~!)
やはり日本独特の村社会気質からなんでしょうか、不特定多数の人と自由に会話できるSNSの使い方にしても基本的にどこか閉鎖的なんですよ。
よそ者は話しかけてはいけない、話しかけてきても無視、フォロー外は無視。だからいきなり本題からではなくまずは仲良くなってから、注意深く監視してその人が”敵”じゃないとわかってから。なんて面倒なことばかりで、対話の機会を減らす努力ばかりしてるように見えます。礼儀だのクソリプだのなんだのっていいながら対話しない理由づくりに必死なようにも見えます。
むしろ自分の精神世界や理屈にただひきこもっているだけで対話を拒んでいる姿勢が日常的な姿で、対話をするのは何か特別なルールや条件にそってだけ、いや、特別なルール上でしか対話が行われないことによって自分を守ることが目的だったりすることってあるんじゃないかって。
それじゃ、そんな自分の他人に対する恐れや劣等感って死ぬまで付きまとうだけだと思うのですよ。
そんな弱い自分に自分が向き合わない限り対話なんて一生できませんよ。そんな自分に向き合うことやその他人を拒絶していたら、多分一生解決しません。
そもそもただの会話じゃないですか。別にナイフを突き立てられるわけでもなく、お金が盗まれるわけでもなく、家財が盗まれるわけでもなく、家に火が付くわけでもない、自分が死んだり殺されたり奪われたりする可能性なんてほとんどない、ただの会話なのに。
何が怖いのでしょうか?その怖さに向き合うのが怖い?その怖さの正体を知るのが怖い?本気で向き合おうとしていない?
ひょっとして孤独になるのが怖いからなのでしょうか?対話をした結果誰かに自分を否定されて自身の”品位”や”地位”が失われることが怖いから対話が怖い?哲学という名の自らの理論武装が崩されて、弱い自分が丸裸にされることが怖い?自分が無知で知ったかであることが露呈することが怖い?それを認めるのが怖い?それで村八分にされるかもしれないのが怖い?その地位が自分の全てだから?その地位があれば孤独を否定できるから?村八分にされないから?ふむ…
対話を拒絶してるのに哲学してるって言える?
そんな日常的なことに対して生理的に拒絶感を感じてしまう。そんな日常的ななんでもないことに対してすら、安全が保障されてなければできない、SNSにすら書き込めない。質問もできない。コメントもできない。
顔見知りじゃなきゃ何も聞けない。何も質問できない。なんだそりゃ。
そんな中で「哲学をやってます、見たい人だけ見てね、文句も言わないでね」なんて受け身と守りの姿勢で、自分から誰かには絡んでいかないし、虚勢を張ってしまってすらいる。なんなら「だっていきなり話しかけるなんてそれは失礼だから」とかなんとか言い訳をして。「俺はお前の都合に合わせてSNSなんか使っていない」なんてまでヒステリーを起こして理論武装してしまったり。
その「余裕のなさ」は一体どこから?「臆病さ」は一体どこから?
私は鼻から?
その自らの余裕のなさ、臆病さに「自分で自分と向き合って対話し解消するツールが哲学」なんじゃなくて?
もし本当に、世の中の人たちが本当にこんな風にセンシティブで他人を自分ルールで支配したがる人たちだらけだったら、そりゃ誰も気軽に会話なんてしなくなりますよね。誰も誰かのルールなんて知らないんですから。そんなその人特有の個人ルールなんてね。そのルールを知ってから話しかけてこいなんていったら、それをみんながやったら誰も気軽に話しかけることなんかできませんよ。これをもし哲学者と名乗る人、哲学をやっているという人までがやっているのだとしたら…
「私は哲学してます。でも対話はしません。自分の理論と空想だけです。あるいは対話する人は限定します。自分からは誰にも話しかけませんし、指摘もしませんし、質問もしません。問題提起もなにもしません。批判は失礼なことですし人格攻撃なんですから。私の機嫌を損ねる人とは会話しません。何処の馬の骨ともわからないような怪しいと感じた人ともしません。気の知れた人としか会話しません。仲のいい人としか対話しません。自分に敬意を持っている人としか対話しません。自分のやり方の対話に沿う人としか対話しません。私を指摘する人はみんな私を攻撃する【敵】なので無視するか関係切ります(ブロックします)、追い出します。」
随分閉鎖的な世界です。というか哲学以前の問題な気がします。だってこれ完全に日本の村社会気質そのものですもん。村社会気質を理論武装で隠しているだけ。新しい何かが始まりにくくなる、他人の足を引っ張り停滞する気質、日本が停滞している要因の大きな一つですよね。なんなら哲学で真っ先に否定されそうなものです。それに自分が漬かっているかもしれない。哲学と称するそれをやればやるほど、自分の作り上げた思考の虚像の中に引きこもって排他的になっていっているんじゃないでしょうか。
はて、こんなことをソクラテスはやってたんでしょうかね?ソクラテスは村社会気質だったのでしょうか?
いろんな人に話しかけ話を聞き、真に知る人を探し続け対話をし続けたソクラテスがそんな”弱虫”で”ひきこもり”だったのかな。分け隔てなく社交的だったソクラテスならむしろ「なぜそんな姿勢なんだい?(クリロナ)」と聞いて質問責めにしてきそうです。
しまいには君は今幸せかい?、なんて聞かれてしまうかも。はたから見てもとても窮屈で息苦しそうですもんね。こんだけ他人に対して理論武装して、がちがちに鎧で身を固めてりゃ、身動きが取れなくなって苦しいだけじゃないでしょうか。
日本の哲学者 = ただソクラテスに憧れているだけの井の中の蛙?
アマチュアでもプロでも(哲学にそんな”権威”なんてあるの?)がもし、そんな哲学をしていたとしたら、それは哲学、つまりソクラテスという「スター」に憧れていて、その輝きが自分もほしいだけで、哲学をやりたい、つまり”ソクラテスみたいなことをしたい”、とは思っていないんじゃないか、と思うのですよね。
哲学と自分が名前を付けただけの別の何かがやりたいのであって、要は哲学はただのラベルにすぎず自分のやっているその何かをもっともらしく、“かっこよくするため”の免罪符、装飾、見せかけとして使うことが目的なんじゃないか、と思うわけです。
他人に対する見て見てアピール、認めてアピールが目的でしかないのではないか、ということですよ。哲学してる俺すごい私すごい、俺崇高私崇高。俺が正しいんだ、だから俺を認めろ、なんて言う自らの承認欲求に縛られている井の中の蛙、村社会という小さな集落でヒエラルキーのトップになろうとしてみんなからちやほやされる存在になろうとしている蛙なのでは、と。それがインターネットを介したところで、SNSに村の場所を変えただけの話しになっているのではと。
哲学ってそんな独りよがりなものではなくて、もっと共同体的なイメージのあるものだと思うのですがね。ヨーロッパの超国家主義の考え方に近いというか。自分個人の正しさの証明のためなんて誰のためにもならないのものなんかではなく、人の普遍的かつ根本的な幸福の追求、実現。コスモポリタニズム的な幸福の追求なんじゃないのかって。
自分は世界の構成員のほんの一つ、チリのごとき小さな存在に過ぎない。それを自覚しているなら、そんなちっぽけな自分が誰かにどう見られていようが、べつにどうでもいいことではないでしょうか。そんな自分の体裁なんかよりも、自分が所属する共同体をよりよくするためにただ自分のできることすることができるんじゃないか、と思うのですよ。
で、それをするために相手が何を求めているのか、人の幸せに必要なものの本質ってなんなのか、それを知るための基本的なスキルとして自分に対して、他人に対して、万物に対して「対話をする」という姿勢がまずあることは必須だと思うのですよね。
でもその対話をすることが実は怖いのであれば、まず自分のそんな内面と向き合って対話することの方が先である感じがします。
もしそれを否定するのだとしたらそれはつまり哲学を、つまりソクラテスを支持していながらその内心ではソクラテスに中指を立てて否定しているというすげー矛盾を抱えているわけですよ。
なんなら歴史上の人物すらもそういうところがあるようにもみえます。例えばニーチェはツァラトゥストラという本に代表されるような、対話というよりは自分の精神世界の構築と超人思想というものを哲学と呼んでいた人にみえますし、実際彼は人間関係で苦労していてあまりうまくいっていなかったようです。
プラトンも対話というよりは知識体系を構築して整理することがメインの人にみえます。彼ら自身がソクラテスみたいなことはやっているようには見えません。
どちらかというと、自分自身が構築した理論を皆も実践すべきなんだと一方的に押し付けている感じです。
あれ、じゃぁプラトンはソクラテスに腹の底で中指を立てていたということに…
彼にあこがれながらも彼みたいにはなりたくないという自己矛盾をかかえていたのか?
…ふむ。さて気を取り直して、ソクラテスのようなことをやっていたのって、私が思いつく限りは歴史上の哲学者ではディオゲネスくらい。彼も周りにあれこれ質問したり指摘したりと忙しくしていた人ですが、その形がとても“ユニーク”で彼の様々な奇行もあって変人として扱われていました。
プラトンからは「狂ったソクラテス」呼ばわりされてますし、確かに彼は極端なタイプではあったかもしれませんが、やっていることはソクラテス的であったとおもうのですよ。にもかかわらずそういう扱いだったのですから(哲人政治をするべきだとまでいっていたプラトンがそんな扱いにしたわけで)、やはりソクラテス的であるというのは少数派だったのではないでしょうか。
もう哲学は哲学じゃなくなったのかも
むしろ下手すれば哲学はずっと昔からすでに、ソクラテスやディオゲネスが死んだ時点ですでに違うものになっていて、終わっていたのかもしれません。もはや現代では「私哲学をやってます」といって「あぁ私もやってるよ!」って言ってたから話してみたら「それ哲学なんか?」なんてすれちがうことはもう日常茶飯事なのかもしれません。
いえ、元から日常茶飯事ですね。この世に自分と同じ人間はいませんし。
多分もう表面上で見えるものですら、哲学という言葉だけでは説明しきれないくらいに哲学は多様化した形になっているような気がしますね。まぁ考えてみれば、哲学の歴史自体が長いものですし、なんならキリスト教よりも長いんですからね。キリスト教もたくさんの分派に分かれてますし、何ならその元になったユダヤ教からいくつもの分派や宗教が生まれているわけですから、哲学だけが一つの在り方でとどまり続けること自体人間という主観の不完全な生き物には無理だったのかもしれませんね。
そもそも哲学であるからといって、じゃぁ絶対こうでなければならないのか、と言われればそんなことはないかもしれないとも考えられますし。哲学なんてのは結局突き詰めればただの哲学という名前にすぎず、記号にすぎないわけで。
だったらもうやっぱりただのラベルなんだから、自分の考えていることなら哲学って呼んでも別にいいじゃんなんて思えます。
はて、となると、そもそも哲学って一体何だよって話にもなってきますね。なんでもありなら哲学という言葉でくくる理由は一体なんなのでしょうか?
となれば既に哲学という言葉は「陳腐化」しているような気もしますね。ソクラテスはもうとっくにないし、彼のような姿勢や在り方を追従する人なんてほとんどいないのですから。既に「俺は哲学してるから」というその“ラベルの効力”は、自分のやっていることは素晴らしいんだ、高等なんだっていう「対外的なお札の効力」としてはもうほとんど通用しないってことなんじゃないでしょうか。
そもそもこの記事が全然哲学じゃないし
そしてこの意味するところはこの記事は全然哲学してないってことになるんですよね。だって哲学は対話であるとするなら、それは自分か他者か、ほかの何かと対話をしているような形式になっていなければいけないですから。
でもここにはどこにも対話者が存在しないわけです。生身の対話者が。あるのはただの推測と憶測、そして決めつけだけ。「日本の哲学者」という、私が勝手にたったの数十人程度をみて平均化したイメージ、空想の登場人物にすぎないもの。現実の誰かではないわけですからね。特定のだれをいっているわけじゃない、特定の誰かと対話なんか全然してない。漠然とした、自分が目にした哲学をやっている人を平均化した勝手なイメージ、虚像にすぎないわけです。
だから何かを批判するだけだったり、何かを言及するだけの何かっていうのは大抵哲学とは言えないのですよ。そこに「会話」「対話」がなければ哲学なんてものはどこにもありません。
結局こんなのは、さっき言っていた「妄想」どまりに過ぎないのですよ。対話でないのなら、それはすべて哲学ではない妄想なわけです。
やれやれ、ソクラテスに中指を立てて知ったかを決めているのは私であったというオチですよ。まったくたちが悪い。
理論武装して引きこもってる場合じゃないんだよ。哲学やりたいなら生身の人間個人と対話しろや、ってんだよ!
───
自分が自分の反省する以外ない
というわけで以上、「自戒」でした。こんな”大層なえらそうなこと”を書いておきながらお前…!
結局は人が他人や何かに思う何かってのは、全部自分に対する反省点でしかありませんものね。
その方向は結局のところ、全部自分に向いているのです。
他人は自分の鏡でしかありませんから。他人に何かを言うってのは、つまり鏡に向かって何かをいっているような状況とほとんど変わらないんです。他人に自分が感じるあらゆる違和感や整然としないところや不満なんていうのは突き詰めるとみんなそんな鏡にうつった自分の問題なわけです。
この世にはいろんな他人という自分の鏡がいるだけ。どこまでいっても他人に見出したその内面はすべて自分の片割れにすぎない。
だから常に変えられるのは自分だけなのですよ。誰かや外の何かに見出した反省は、自分の反省でしかない以上、自分に対して行う以外にはありません。それを他人のせいや他人の問題だと思い込めば、それは確実に他人に対する果たされることのない期待や歪みとして残り、解決されない認知の歪みとして自らに落とし込まれて行ってしまうだけなんです。
自分が目を背けた弱さ。自分の弱さから逃げて何かのせいや何かの問題にした弱さがあるなら「今」向き合う。
これ以外にはないでしょう。そして向き合わなかった自分や誰かと対話を再開していく以外ないでしょう。
というわけで、気軽に興味を持ったことを自分や誰かと、何かと会話していこうということです。自分が思うコスモポリタリズムのために。
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