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承認欲求をどうとらえるかは人それぞれ
インターネットで承認欲求について肯定すべき否定すべきかどうかについて調べると、そのどちらの考え方も見つかると思います。どの言い分も根拠があり、メリットやデメリットがあるという感じですよね。
「承認欲求をモチベーションにし、これを維持することでより成長、より上を目指すことができるので承認欲求は必要である」とか
「承認欲求は本能なので捨てることはできない、捨てようとすることなんてできないんだからそんなことをしても効率が悪いだけ、無駄、あきらめろ」とか、
「いや承認欲求なんて抱えてもごみだよ。だってほめられたところでなんにもならないでしょ」
「承認欲求で奴隷のように生きていたら自分の人生のコントロールが効かなくなる。自分で何かを決められない生き方は危険だからよくない」
「ほめられて一喜一憂するなんてみっともない」
などなどたくさんあります。
それらを知って「いったい何が正解なんだ?どっちが正解なんだ?」「承認欲求に対する答えは一つではないの?どっちが本当で、どっちが嘘なの?」と混乱してしまうこともあるのだと思います。
しかし人生には正解も間違いもないというように、人の考えていることにも同じことがいえると思います。つまり、あらゆる人の出す答えは正解でも間違いでもないということです。人間は自身の思い込みの世界で生きているので、何をどう考えようと全てはただの思い込みなんですよね。
仮にもし正解、つまりこの世にただ一つの真実がありそれをを知って生きられるというのなら、みな一様に同じ人生をすでに送っているはずですが、世界はそうはなっていません。考え方も価値観もバラバラです。
しかしなんでこんなにも違うのでしょう?こんなに答えが180度、幾重にも違うのに、どういうわけかみなそれぞれ納得して幸せに生きているのはしっくりこないんじゃないでしょうか。
実はどっちかが嘘なの?それとも全部でたらめなの?余計混乱してきますね。
なぜこのような違いがうまれるのか?
そもそもなぜ違いが生まれるのかをまずは考えてみます。それは個々の気質や生きてきた環境の違い、生まれの違いではないかと思います。
承認欲求を例にして考えてみます。
例えば
・親がそれなり以上に支配的でない
・人間関係も良好、いじめの経験なし。人と関わることに抵抗感がない。
・否定されないため自分の好きなことができた。
・努力すれば報われていた。好きなことで結果を出すこともできた
など他人に対して抱いている期待がそこそこ満たされ、攻撃もされず安心を感じ、努力すればそれなりに成長することができた(それを誰かに認められよくしてもらえた、否定されなかった、金も稼げたなど)という成功体験をえられ、かつ恐怖をいただきにくい環境で生きてきた、ということなのなら承認欲求を肯定的にとらえていく思い込みをしていくと思います。
少し前に嫌われる勇気がブームになりましたが肯定する人にとってはあまり耳心地のいい話ではなかったんじゃないかと思います。「求めることに苦を感じないし楽しくて気持ちがよく、モチベーションにもなっていいことばかりなのにそれを求めて何が悪い?」という風に反発を感じている人もいるんじゃないでしょうか。
しかしもしその真反対の環境で生きてきたらどうなるでしょうか。
・散々親からも他人から否定され、いじめられ、あらゆる他人に打ちのめされ何をしても否定されたりばかにされつづけてきた
・親の価値観をおしつけられ、何かと人生に介入されてきた
・毎日怒鳴られる。飯を抜きにする、家を追い出すと脅されたりした。
・誰かの都合を満たすこと以外何かをすることを許されない。
・人との距離感がわからない。仲良くなり方がいびつで、他人に気に入られることでしか関係できない。
・やりたことがわからない。見つけられない。
・努力しようとしても続かない。モチベーションがない。
・好きなことを見つけたりやろうとすることに罪悪感を感じる。
・こんな自分が幸せになっていいのかと思ってしまう。
私もこんな感じでした。
最も前者であれば承認欲求はなさそうに見えますが…誰かに支配されているという恐怖を抱いていなければ他人に気に入られる理由がないからです。
このような環境で生きてきた結果「誰かに従属していないと自分のようなダメな奴は生きていけない」という奴隷根性が染みつき、他人に許しと救いを期待して恩着せがましく生きる生き方になってしまいました。
しかしその生き方すらも裏切られ続けたために承認欲求を求めてもモチベーションどころか自分を苦しめるだけのものになってしまった。何をするにも他人への従属意識とそれに対して「良い奴隷」になれない無力感、ご主人様たる他者からの叱責、暴力、庇護の喪失を恐れてのコンフリクトが邪魔して集中できず、「どうせ何をやっても無駄なんだ」と何一つ長続きしない何もできない無気力な自分になってしまうだけでした。
私にとって承認欲求、他人はとにかく恐ろしくて苦しいものでしかなく、求めても苦痛にしかならない。だから捨てるしか最初から選択肢はない。
その思い込みの形から切り捨てていく以外道がなく、故にその答えも否定するものになるというわけです。
このように環境や自身の気質の問題によって思い込みの形が変わってくるために違いが生まれ、結果多種多様な価値観、つまり思い込みのバリエーションが生まれていくのです。
積み重ねてきた人生の違い
前者のような環境で育ってきたのであれば、承認欲求があっても求めることに苦痛も感じないのでしょう。いい親がいて、いい友達がいて、いいつてがある。スキルも経験も、その人生の中でごく自然にねじれることなく手にすることができてきた。もちろん苦労がなかったとはいいませんが、その苦労も全ては”下地”次第、環境次第でとらえ方は変わり、そのとらえ方によって人生は大きく変わってきます。
後者のようなものであればまさに手詰まり。何に対しても斜めに物事をみて、他人をうらやみ、憎み、他人に気に入られ、他人を蹴落とし、馬鹿にし、否定することしか考えることができない認知になってしまいます。
他人は味方ではなく恐ろしい敵で、自分を馬鹿にしているのではないか、自分を追い出そうとしているのではないか、そんな被害妄想だけが頭の中に広がっていくこともあるでしょう。そうやって他人を恐れて、歪んだ承認欲求の認知が深く根付いていくわけです。
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このような人生経験の違い、環境の違いによって生まれる認知の違いにより承認欲求の組成に違いが生まれ、向き合い方が異なってくるわけです。
世の中とは端から端まで、最初から最後まで不公平
単に容姿や金の問題にとどまらず、人生そのもの全てまでが不公平であり、不条理である。この世に自分という個として生まれた時点で、自分以外に点在する数多の個とは何もかもが違い、すでに公平さなど破綻しているのですから。
承認欲求=〇〇 は個人の答え
他人にちやほやされることに希望を持つ人生歩んできたのなら承認欲求はモチベで快感であると思う人生になっていくのでしょう。一方、他人から恐怖支配されおびえて生きてきた人生の承認欲求はただのゴミとなります。
個人の数だけ、様々な色を見せるのでしょう。決してまじりあうことも同じ色になることもなく。ただそれぞれが独立し、相容れることもなく存在しているのだと思います。
他人ではなく自分はどうなんだ?という問題
承認欲求とは何か。承認欲求とは悪なのか。善なのか。いいものなのか、わるいものなのか。人生を豊かにしてくれるのか、人生の足を引っ張るのか。
この答えは人によってバラバラです。そしてそのどれも正解でも間違いでもない。
個それぞれのユニークな答えでしかなく、その個単独の人生観において通用する答えであり、他人の答えではない。
故に、いくらどこの誰かがこういっていたから、といって自分の承認欲求に対する答えになることも、それを否定されることもなければ、正当化されることも補償されることもありません。
自分の承認欲求対する答えが”正解”になることもなければ”間違い”になることもないのです。
しいて言うなら、そう思い込んでいるというだけのこと。思い込みは間違いでも正解でもない、単なるロジック、イメージです。
普通だとか異常だとかなんていうのも突き詰めれば個人の主観的な思い込みですし、ただのマジックワード、多数派であるという数の暴力の思い込みを背景としたただのブラフでしかありません。
結局すべて個人の答え。個人の問題。
つまり自分の答え、問題なのです。もし承認欲求を自分が問題扱いするのであれば。
自分の問題は自分だけのもの。他人は関係ないですし、他人はそんなの興味もありません。そもそも興味を持つこと自体ができない。
自分の思い込みから外には出られないので。他人の思い込みに触れることは人にできることではないからです。
「”自分”はどうなんだ?”自分”にとって承認欲求とはいったいなんなんだ?」
仮に承認欲求を問題としてとらえるのであれば、こういう話になってくるのだと思います。
他人ではなく自分。他人の承認欲求をあれこれ言うのは無粋というか的が外れているのです。自分の中にある承認欲求の定義、つまり思い込みは自分にしか通用しないのですから。
なら考えるは自分でしょう。
「承認欲求は”自分”の足を引っ張っているのか。それとも助けになっているのか。」
主語を自分にして、自分に向き合い、解消していく。自分しか自分の思い込みに対処することはできません。他人もしかりで、他人は他人自身で自身の問題に対処するほかない。
物的な援助を除けば、心の問題は自分自身が解決するほかない。
弱い自分に向き合えるのは自分だけ。自分の精神的苦痛を乗り越えられるのは自分だけ。
ようは、すべては良くも悪くも自分次第でしかない、ということですね。
おまけ:承認欲求を捨てる過程で見えてくるもの。
別記事にしようと思いましたが、あとがきとして。
承認欲求を捨てた場合一体どうなったのか。実体験を踏まえて描いてみたいと思います。
まず第一に感じるのは孤独。承認欲求に駆られて生きていた私はそれまでずっと何かが怖くて気が気じゃない毎日を送っていたわけですが、その正体は孤独に対する恐れであったように思います。
誰かに認知されていないと不安で仕方がない生活を無意識に送っていたのです。
誰かの支配を捨てた世界とは、誰にも見られない世界なんです。誰にも認知されず、誰にも囲われず、守ってもらうこともなく、ただ一人の自分がいるだけの世界。そういう世界観になります。
それを直視して受け入れるのは、なかなかに大変でした。すごく苦しいものではあったのですが、かといって承認欲求で生きても地獄なのはわかっていたので、受け入れるほかなかったのでした。
そして受け入れられていくとさらに見えてくるものがありました。
それは、人生には何の後ろ盾もないという事。誰も何も保証できず、他人への期待もただの信仰であったのなら、自分を守ってくれるものなど最初からなかったのだということがわかってきます。
そしてそのさらに先に見えてくるものが。それは…
自分は確実にいつか死ぬということ。
「自分は必ず死ぬのだ」ということ。
どう生きようが、何をしようが、やり遂げようが、何れ死ぬ。
ずっとガーディアンを求めていたのは、この死から逃れたかったからなのでしょう。死から逃れたい。永遠に生きていたい。それも平和に、すべてがうまくいくご都合主義全開の与えられ放題の人生を。それが本気で手に入ると思っていたわけで、かつそれを他人ができるのだと思い込んでいた。
まさに、他人=神だったわけです。
しかしいくら親や他人に認められたから寿命が延びるわけでもない。もちろん不死身になんてなれない。先のことなんて誰にも分らず、いつ死ぬかどうかもわからず、いくら人に認められようが誰もどうすることもできない。
他人は神じゃない。ただの人間。私と何ら変わらない、無知な動物だったわけです。
いづれ死ぬ運命であることは変わりません。
承認欲求を満たすことは救済でもなんでもなく、ただのコンプレックスだった。ただの個人的な都合だった。自身の脳内にある認知の問題でしかなかった。
そして死んだらすべてゼロ、終わり。宇宙の終焉だといってもいいでしょう。自分という意識がなくなれば世界を一切感じ取ることはできなくなるわけで、それは個人の世界から見たら完全に世界の終わりなわけです。
死後の世界や生まれ変わりというものがあるという宗教観もありますが、それも単に信仰ですし、信仰でもやはり現実は変えられない。
何を信じていようが、死ぬ瞬間は必ず来るんですよ。
そんな自信の死について向き合えば向き合うほど、「自分は死なない、死ぬわけがない」というような漠然とした万能感を伴っていた無意識が嘘みたいに消えていきます。それをいかにこれまで他人に期待して保証してもらおうとしてきたのだという事も。それを受けて今の人生をどう生きるかがリアルな課題になってきます。
自分は必ず死ぬ。
でもそれでいい。自分は今の自分で死んでいいのだと。
自身の死という逃れようのない現実に対する向き合い方が人生の基盤を作るのかもしれないですね。
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