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他人の言っていることではなく、自分で考えて答えを出すこと
自分で考えるというのは、誰かが言っていたことをただ借りてきてわかったつもりになるということではない。
どこかの偉人が言っていたことをコピペしてわかった気になるわけでもなければ、ある哲学者が書いた書物を読んで哲学を理解した、と思い込むことでもない。
自分が今まで生きてきてきた中で経験してきたこと、見てきたこと。
それは一体なんだったのか。それを考え、かみ砕き、自分がそれについて本当に知っていることは何だったのか、逆に何を本当は知らなかったのか、そんなことを振り返り、分析しながら明らかにしていくこと。
「この世は素晴らしい」「この世は残酷だ」もしそう思っているのなら、一体自分は何を素晴らしいと思っていて、何を残酷だと思っているのか。
この世とは具体的に何を指しているのか。自分はこの世の何を知っていて、なにが素晴らしくて、何が残酷なのか
そももそも、素晴らしいとは何なのか?残酷とは何なのか?一体何を指した、どんな行為、どんな現象を指すものなのか?
曖昧なイメージになっている自分が思っている何かの解像度を上げて、それを鮮明にしていくことで、本当に自分が知っていることがわかってくる。
その中には、それがただの自分の妄想、思い込みでしかなかったということがわかることもあるし、ではこれはこういうことだったんじゃないかと、既知の事実と別の既知の事実がつながって新しい発見の糸口が見つかることもある。
それが自分で考えるということ。哲学するということなんだと私は思う。
自分の哲学 = 自分の人生を元に思考する
人間は自分以外の思考の存在を知らないし、感じられない。
人は他人のことを理解することはできない。人の脳は誰かの脳と接続されているわけでもなく、接続する機能も持たない以上、他人の脳の中で起こっていることを感じたりそれをもとに考えたりすることはできない。
他人の中で起きていること。感情、思考、感覚といったものを、人間は一切感じ取れず、知覚すらできない。
つまり、人にとって「思考する」「考える」という行為は自分の脳だけでやることであり、他人という”思考の参考資料”というのは、それがあるようで実はなく、実質的には常に自分一人だけで考え事をしているだけということになる。
その参考資料というのも、他人が言葉として出力したものくらいだ。会話、文章などなど…
しかしそれも全部記号でしかない。厳密にはその言葉自体に意味が”ある”わけじゃないから。(それについては上記の記事にまとめているのでご興味があればどうぞ)。
そしてさらに、人は自分の知っているものを元にしか思考することができない。
人は無から有を生み出せない。それはモノの話しだけではなく、思考も含まれる。
人は見たことも触ったことも嗅いだことない、5感で感じたことが一切ないようなものについて説明することができないし、想像もできないから、それについて思考すらもできない。人は既知のものについてしか思考する術をもt内
例えば「色」ときいて、思いつく限りの色、つまり「すでに見たことがある色」を思い浮かべることはできるだろうが、「全く見たことのない色」を人間は思い浮かべることはできない。
この世に宇宙の果てというものがあるんじゃないかといわれているが、誰もその姿を知らない。存在するかどうかすらも。それはやはり見たことがないからであり、果てがあるのではないかというその仮定も、「地球には果てがあるのかないのか」などのすでに観測済みの現物の何かをもとにして発展した仮定でしかない。
既知のものをもとに考えを発展させることはできても、既知でなければ発展もくそもない。そこには何もない。0なんだ。
所謂「アイデアは既存の要素の組み合わせだ」というのは、人間の限界を唱えた言葉でもあるといえる。
つまり人にとって考えることができる何かというのは、これまでに自分自身が生きてきた人生の中で自身の脳で感じ、思考し、記録してきた何かたちだけなんだ。
だから哲学をするというのは自分で考えること意味する。それも自分が知っているものに対して考えるだけ。自分の5感で感じて記録してきた何かについて孤独に考えるだけだ。それしかできない。
しかしこの「哲学の定義」すら、これは筆者である私に思う何かに過ぎない。
つまり私が言っている哲学の定義だって、本当にこれが哲学なのかどうかなんてことは断定なんてできない。
なぜなら、そもそも前提としての「脳の機能」について、私はどこまで知っているのだろうか。自分以外の人間の脳のことについて自分は何も知らず、ソースがすべて自分の脳の中で起きていることをベースにしたものだけなのだから、他人の脳を調べて、感じてそれを言えてるわけでも何でもない。ましてやそれが可能であったとしてお70億人全員の脳に対してそれを行うなんて言うのはどう考えても無理だd。
そんな中で気づいた、考え付いた「哲学=〇〇である」という何かが、全人類に共通する定義だ、というようなことを、確定的なエビデンスをもとに出すことなんてできやしない。
人は他人のことを理解できない、というのは実は私自身の思い込みにすぎず、私自身の限界にすぎず、例えば人の脳波か何かを直接感じ取る能力を持つ人がこの世に実はいて、それを自身の脳で再現することができるような機能を持つ人がいたとしても、私はそれを感じ取ることができないのだからいるともいないとも証明する手段を持たない。
結局私は自分のことしかわからない。そういう意味では、他人の頭の中というのは宇宙の果てのような、あるいはそれよりもずっと遠くにある謎であるとすら言うこともできるかもしれない。
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