「察しの文化」って疲れる!これからの「話す、聞く文化」





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自分と同じ思考や文化をもっていることが前提にあって成立する文化

集団主義的文化のもとに個人を並列化して全体主義化された前提があった少し前の日本だったら察しの文化はうまく機能して、実際それでうまくいっていた。

しかし昨今では、働き方改革やSNSなどをはじめとして、社会全体で個人を尊重しようとする動きが始まっている。

さらにSNSという様々なごく普通の一般の人が自由に発信できる場所が設けられて、昔に比べて自分が思っているよりも他人というのは自分と違うということに気づく機会も増えてきた。日本でさえ本当に世の中には実はいろんな人がいて、いろんな価値観や考え方があって、その中には自分では全く共感できなかったり、価値があるとは思えないようなことを信じていた李、やっていたりする人もいることがわかる。

自分が持っている価値観が”一番”なんてことは実は全然なくて、多くの価値観の中の一つにすぎないということ。そんな現実に気づきやすくなってきた。

自分と他人が違うということが世の中で少しずつ前提になりつつある今の世の中で、今後この文化はどんどんうまく機能しなくなっていくのではないかと思う。

これまでは会話せずとも阿吽の呼吸で合わせることができていたことが、、個人の価値観の違いの見える化、自身の価値観を尊重するという多様化によって個人の価値観がばらつき始めたために、合いづらくなくなってきた。

相手に自分と同じ価値観や考え方を期待しても裏切られたり、自分と違う他人に不信感や不快感を感じて疲れてしまったり、相手に自分の理解を求めても何かとストレスを感じる機会も増えてきた。

価値観のばらつきによって察すること自体が難しくなりつあり、それで気疲れしてしまったり、息苦しさを感じたりすることが多くなってきたのではないか。察しようとしても空振り、ただの察し損になって自分に他人に気を使うという余計なストレスだけがたまっていくだけになってはいないか。

相手の気持ちを察して生きても、もはやストレスがたまることの方が多くなりつつある。そんな社会になりつつあるのではないか。

だったらこれからの多様化の時代を楽しく気持よく生きていくためにも、この察しの文化は変わった方がいいんじゃないだろうか。

人は他人のことを本当は理解できてない

そもそも、人に人の気持ちを理解することはできない。だから誰かと同じになんて最初からそもそもなれないし、求めてもそんな人がいることもわからない。

なんとなく相手の気持ちを察っしたり、同じであるかのように見えたりすることはあっても、それは悪魔でそう見えているだけの話し

人間は五感でしか世界をとらえていないから。その五感では他人の頭の中を感知することは一切できないから。

人は他人を自分の鏡にして、そこに映った自分自身のことを考えることくらいしかできない。結局は自分自身であって、人は生涯最初から最後まで自分のことしか理解できる人はいない。

他人の考えていることを考えているつもりでも、実際には自分自身が考えていることを考えているだけ。

他人の内面そのものを、人は考えるどころか、知覚すらできない。

察しの文化は、これまでの集団主義的価値観に基づいた徹底した”刷り込み”によって価値観や思想がある程度均等化されていたから、“たまたまうまくいっていただけ”だ。

「察する」のではなく、「聞く」

相手の気持ちを察するのをきっかけにすることは問題ない。でもそこからあることないこと“深読み”するのは疲れるし、精神をすり減らしながらこちらの時間が食われていくだけ。

あることないこと考えてしまって、変に期待してしまって後で裏切られたりイライラしたり苦しくなったり、いいことなんて何もない。

だってそんなの全部タダの妄想でしかないから。

だからまずは言葉にして聞く。

そしてその言葉で聞いたことがすべて。

ネットでもリアルでも同じ。ネットでなら「書かれていること」が全て。リアルならそれに加えて「言ったこと」が全て。

それ以上のことを深読みしようとしたところで、ただの妄想でしかない。

聞いた方がずっと早い。聞いた方がずっと楽。聞いた方がいろんな面倒が減るんだ。

妄想でストレスをためる必要もないし、期待して相手からの反応を待ち続けなくてもいい。勘違いも少なくなって無駄な仕事も行動も人間関係も減らせる。

浮いた時間と気力と労力をほかのことに使うができる。

何よりも気楽だ。ストレスフリー。

察してもらうことをあきらめる

相手に”察してもらおう”とすることをあきらめるた方が今後は楽だと思う。

相手は自分の気持ちなんて理解できない。だからいくら察してもらおうと期待しても、ただそれに焦がれるだけで叶わず疲弊するだけ。

それでも例えば、お互い本気で理解されようと期待し続けたら、お互い擦り切れるまで続けてしまうだけだ。

あきらめると書いたけど、実際は「察してもらいたい」というのは、「察しなきゃいけない」からやっているということもある。

察するというのはどちらかというと、自分が察したいと心から思ってやっている側面もあるかもしれないけど、周りの目が気になるからといった消極的な動機、つまり「周りにさせられている」「やらされている」という義務感からやっているところもある。

やりたくてやっていることというより、やらされているといった方が近い。

そんなただ疲れるだけで、自分の純粋な意思でやりたいと思っていることでもないのだとしたら、そんなことはもうやめていいじゃないか。

自分のことは自分でやればいいだけ。他人も他人のことは他人自身でやればいいだけだ。

だから自分の気持ちを他人に察してもらうなんてことは必要ない。自分も他人の気持ちを察しなんきゃいけないなんて思わなくていい。

相手にしてほしいことがあるなら自分の口で、言葉ではっきりと意思を伝えればいいだけのことだ。

その方が気持ち的にもずっと楽だ。自分の思っていることを表現するっていうのは何よりそれだけでも発散になるし、そうやって行動すれば事ももっと早く進むようになる。

仕事の生産性もあがって、早く家に帰れるようになったり、人付き合いもさっぱりとして、率直な付き合いが増えていく。

自分の意志で行動すれば、無駄なことなんて嫌でも減るんだ。それを他人にやらされているから、自分のやりたくないことばかりがたまっていって、無駄だと思っていてもやらされていること画ばかりが増えていってしまう。

察しの文化を捨てればQoLが上がる

ハイコンテクストな日本の文化「わかってくれるだろう」「いたわってくれるだろう」「これだけやったんだから相手もお返しをしてくれるだろう」

という他者への期待の気持ち、見返りの期待を捨て、

自らの要求を明確にして相手に言葉で伝えること。自分の気持ちを表現して発散していく。行動していく。取り決めていく。進めていく。関係を作る。

待つ(他人に期待する)のをやめて行動する(自分でやる)ことに変えていく。

察しの文化を捨てるということは、これまでいたるところでやってきた無駄で疲れることをやめていくことができるということでもある。

つまり、全体的に生産性があがる。Qolがあがって幸福を感じられる時間が増える。

一人一人が自分で幸せに。それは一人一人がそれぞれの自分自身の幸せのために自分で生きるということだから。

だから他人に何かを圧倒的多数の意見で強要される考え方は捨てていこう。

他人にも自分にも強要することをやめて、一人一人自由になっていこう。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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