目次
「ポジティブ思考」って?
ポジティブ思考とは、自分自身、気持ちを否定しないこと。
自分の考えや価値観といった、頭で考えていることを無理やり肯定するということでも、何か能力があるから自分は優れている、といった、外の根拠を頼りに自分を肯定するというものでなくて、
もっと自然で簡潔ですっきりとした、自分の気持ちに対する率直な無理のない、優しいもの。
それはつまり、外の都合で自分自身を否定して、自分の心、気持ちを殺さず、そのままで自分をいさせていいと許すこと。
今の自分を否定しないで、ただの自分でいていいのだということを自分に許すことなんだ。
自分を否定するから自信がもてない。今の自分を許さないから苦しい。自分の気持ちや心を否定するから生きる気力が失われて生きづらい。
だからそんな苦しいだけのことを全部やめてしまえば気持ちは自然と前を向く。
ポジティブ思考というのは人にとって特別なものでもなんでもなく、自分に無理をして無理やりひねりだすようなものでもないんだ。
ただの自分自身そのもの、自然な自分の姿のことなんだ。
そのままでいいということを、自分に許すこと、許して自然にただいることが、ポジティブ思考の基本なんだ。
「ネガティブ」思考って?
では反対のネガティブ思考は何なのかというと、他人や外の都合を使って自分の気持ち、心を否定、拒絶してしまっていること
自分の心を否定してしまっているから、思考もネガティブになる。
今の自分が嫌いだったり、いてはいけないと思っていたり、自分を消してしまいたと思ってしまっていたり、
そのままの今の自分自身を否定しているから苦しい。それを他人に許してもらわないといけないと思い込んでいるから、受け身になって苦しい思いをして、結果考え方や気持ちがどんどん沈んでいく。生きづらさが増していく。
だからポジティブ思考はいいものだと誰かに言われても拒絶反応が起きる。自分を否定している限り、ポジティブ思考になることはないし、それを受け入れることもできない。
自分の心がどうあるかの違いというだけ
ポジティブ思考、ネガティブ思考は、思考そのものの問題ではなく、自分の心の在り方の問題。
複雑なことでも難しいことでも、無理やりなことでもなくて、単に自分自身をどうあろうとしているか。自分自身そのものでいいと、自分を許しているかどうかというだけだ。
むしろネガティブ思考の心の在り方が自分に無理をしてしまっている姿ですらある。
ネガティブ思考は自分にとってとても不自然な思考だ。自分が自分にとって一番大事なはずなのに、それを他人でわざわざ下げてしまっているわけなんだから。
どうやったらポジティブ思考になれるか?
ネガティブ思考からポジティブ思考になりたいのなら、その方法はとても単純で、自分を否定することをやめること。ただの自分自身でいいと自分を許すこと。自分を他人を使って否定することをやめること。
自分を他人の都合から解放して、「もう従わなくても、守らなくても、無視してもいい」と、それに合わせないで我慢をしない自分を許してあげればいいんだ。
他人や社会から与えられた義務、罪の意識、常識や普通。社会的ステータスなどといった、外の都合に合わないとダメだと思い込んできた自分の思い込みを全部捨てて、
そのすべての都合にもう合わせなくていいのだということを、自分に許す。他人に嫌われたり、愛されなかったり、評価されないという自分を許す。
それで自分に素直になることができる。自分の気持ちに素直になれば、自然とポジティブな思考になる。
素晴らしい記事をありがとうございます。僕は昔のElepanさんと同じ状態で、承認欲求に飢え自己愛や執着に悩まされているので、いつもこのブログに助けられています。
そこで質問なのですが、このブログでたびたび言われている、「自分の自然なあり方を自分で許す」という部分は、国家や他者が自由を保障してくれることを前提としているのではないでしょうか。例えば、小説「1984年」のように行動が逐一監視され、怪しい動きを見せたものは処刑されるような世界では、自分の心を自由にするよりも、他者に怯えながら暮らしたほうが生きられると思うのです。また、親から虐待を受けていて、親の命令の一切を守らないと死ぬことが現実的である場合、Elepanさんが否定している「義務の意識」で自分に鞭をうち行動させなければ生きていけませんよね。
もちろん、そんな生き方をするくらいなら死んだほうがマシだ、と言うならそれまでですが。
やはり、心を自由にしながらも生きるために表面上は従う姿勢を見せる、というのが現実的な解になるのでしょうか。でもそれって難しいような……考えがまとまってなくて申し訳ないんですが、言いたいことは「Elepanさんが実践している生き方や心のあり方は、どんな時代どんな地域どんな国家体制どんな他者に囲まれたもとでも生きてさえいれば実践可能であり、幸福へと導くものであるか、つまり普遍的であるか」ということです。
自身の心の問題は基本的には外には現れるものではないので、心の問題と外の問題、つまり自身の行動の問題は切り離しは可能だと思います。ようは「フリ」をするということで、もしそのような監視社会のような世界であっても処世術として作法は身に着けつつ、心は常にそのままの自身でいて外をよりどころとしなければできると思います。
ただどれだけフリをしても、他人というのは勝手にこちらのことをその他人自身のとらえ方で解釈するものですから、勝手に勝手なことを考えていると決めつけて罰を与えようとしてくる、ということはあるのだと思いますし、それは避けられないときは避けられない、とも思います。いかに権力や金をもっていてもその下でレジスタンスのような組織が作られるように、自身の外にあるものはどうにもならないことはどうにもならない、とも思います。
ただそれでも自分の心の問題だけは自分で対処が可能である、とも考えます。さらに外の環境についてもう少し突き詰めれば環境を変えようとしたりそこに従うという選択をする以外にもそこから離れるということもできると思います。ただ、こう言った何をどうするかという具体的な行動は結局はそれぞれ個人の都合や環境の範囲でできることや考えられることも限られるので、他人がとやかく言ってもしょうがないとも考えています。
どんな時代でも環境でも通用するかどうか、というと、それも個人次第、環境次第ではないかと思います。というのは、そもそもの心の問題を解決する方法論を知りうる環境にその人がいるかどうか、という点も考慮すればいくらそのような方法論が何かしらの形で保存されていても知ることができなければ実践はできないでしょうし、そもそも本人がそれを必要だと思わなければ、必要だと思える環境の中で生きてこなければそのような方法論はその当人にとっては存在しないのと同義ですので、やはり個人次第である、としか言えないのではないかと思っています。
簡潔に言うと、現実的にも実際的にも自分のことは自分でどうにかするしかない、というのが私の思うところです。というか最初から、本当は人間はみなこれしかやっていないのではないか、とも思います。生まれた環境の中で自分が受けえたことや考え得たことをもとにその個人なりに生きていくということをやっているだけ。それが他者に依存する形であれ、自立した形であれ、その個人なりに生きているだけだと。
最終的な私からの回答としては人類すべてに通用するような普遍的な幸福論というものはどこにも存在せず、世界はそれほど優しくはできていない、むしろ残酷である、しかし今生きている以上、自分なりに今できることをして考えて生きていくだけ、そういうものではないかと思っています。この記事の答えも私なりの答えである、ということですね。
ちょっとまとまりのない文章でわかりづらいかもしれませんが、こんな感じです。
返信ありがとうございます。やっぱり自分の外側の物事はどうしようもできないものもありますよね。人間はできることが限られている、というのは自分にとっては悲しい話ですが……
そうかもしれませんね。外側のことをどうにかすることに「こうでなくてはいけない」という義務感みたいなものまで混じってくると、精神的苦痛につながっていくのかなぁとも思います。
ただ、世界はそんなに自分に都合の良い結果をもたらすようにはできていなくてもただ何かに取り組み続けることはできますし、そうしていると外のことなんて忘れてしまうのですよね。「本当にできること」が一体何なのかを考えながら不要なものを捨てていくと結果ありきの生き方から解放されて楽しめるようにもなっていくんだなということが、私のこれまでの経験上でわかったことでもありました。
多分どこを見るのか、どう見るのか、何のためにそう見るのかということなのかもしれません。何を見て、何を見ないか。なぜそれを見るのか。その見方、その対象を見ることは自分が本当に望んでいる何かなのか。普段何気なく感じている、何かをとらえている自分の無意識について分析し続けて取捨選択と調整を「自分の納得するどこか」にたどり着くまでひたすら試す。
そんな感じなのかもしれないなぁと思っています。