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本能ではなく、後天的に身に着けたもの
承認欲求とは、生まれ持って持っているものなんかじゃない。
実際には学習によって身につけたものなんだ。
「褒められることはいいことだ」
「誰かに認められたら嬉しい、けなされたら苦しい。」
そういったことに気づいて、そう思い込んで身に着けてきたもの。
自身の認知が絡んでいるもの。そして認知とは学習によってのみ得られるもの。〇〇は〇〇だ、というものは、自分で考えて記憶することで得られるものだから。。
もし仮にそれが生まれ持ったものであれば、生まれた瞬間からこれを獲得していなければならない。
そんな赤ん坊はそれを最初から知っているかというと、生まれたたての赤ん坊にできることなんてただ泣くことだけで、それ以外に何も知らない。
赤ん坊は名誉も恥も知らない。
誰も何も教えなければ平気な顔して全裸の姿で公衆の面前に晒すことができるのが何よりの証拠。
誰かの承認などという概念なんて、人は最初から知りもしないんだ。全ては成長していく中で後天的にみにつけた”ある教育”を受けた結果でしかない。
子供の頃に”習得”した
承認欲求は幼い頃から長い時間をかけて獲得したもの。
それはその頃の殆どの時間を費やした親から受けた教育と、小、中学校の義務教育生活によるところが大きな影響を与えていると思われる。
日本の義務教育の世界では、人の価値が成績ですべてが決まるというような世界観になっている。
それも、学校側から一方的に与えられたカリキュラムにそって、一方的な学び方、解き方、やり方のみを許可された中で学習をし、
その中でいい成績の人は優秀、素晴らしい。悪い成績の人は勉強ができない、頭が悪い、などというように、以下に他人から与えられた課題を他人が期待した通りにこなしたかがすべてというように教育される。
校則によって服装や髪型を制限したりもして、個人の価値観を押さえつけて教育をすることも大きい。
学校が提唱する優秀な生徒という偶像を基準に、ふるいにかけられるような人生を歩まされて成長する。
そこからあふれてしまうか、その線に沿うか。それで二分されて、勝ち組だとか負け組だなんて概念すら生まれてしまった。
自分がいいと思ったことではなく、学校という組織が与えた人間のモデル像を、「いい人間」として見据え、代わりに自分自身そのものを否定してしまうんだ。
そういう中で承認欲求はつくられていく。
「他人が称賛するものがいいもの。」「他人がダメだというものは悪いもの」
自分じゃない誰かが喜ぶ誰か。誰かの都合を満たすために生きる、自分じゃない誰かになること
それがいいことだと、価値があることだと。
そういう思考のベースが形つくられていく
長い時間をかけて”調教”されたもの
学校から受ける”教育”
義務教育は小学校から中学校まで、実に9年という長い期間をもつ。
そんな中で自分の意志に関わらず、何かをする生活をすることになる。
自分のやりたいか、やりたくないという意思に関わらず、ほぼ強制的に上から与えられた課題を、上が決めたやり方で決められた時間で、決められたり通りにやらされ続ける日々を送る。
そんなやり方、人生の過ごし方を、多感で無知な時期の少年少女たちを対象にして、じっくりと、それもそれが日常と言ってもいいレベルの時間を使って行うものだから、その効果たるや歴然だ。
彼らは他に何も知らないのだから。他に比較できる学びの在り方、人生の在り方という情報など、何ももっていない。
そんな中で一方的に「これしか許さない」という選択肢のなさすぎる教育を押し付けられる。
大人に比べれば、何も知らない子供は簡単に思い込ませることができる。だから子供のころにその教育を受ければ、それが普通だと簡単に思い込んでしまうんだ。
学びに対する歪みができあがる
他にどんな形の生き方があるのか、学び方があるのか、そういう機会を知ることなく、型にはめられた形の「与えられ、強制される教育」をほどこされる。
子は親を選べないということと同じ。親が子供にとってすべてであることと同じように、多くの子供達はそれを学ぶことのすべてだと思いこむ。そして大抵の人が、学ぶことに対してネガティブな感情をいだき、大人へとなっていく。
親から受ける”教育”
親と過ごす時間は長い。学校よりもずっと長い時間、一緒にすごす。
そんな親がもし強権的で親の権力を存分に振るうタイプだったとしたら?
子供を下にみて、自分は常に正しく子供を従わせる権利を持っているような風に捉えている親だったら?
褒められるようなことをすると褒める。
でもそうでないことをすると叱る。
場合によっては家を追い出すとか、飯を抜きにするとか行って脅してくる。
そうやって親のさじ加減でこちらの意向の一切を遮断して、誘導する。
親の都合を満たすために子供を脅迫して調教する。
そうすることで、子供の意志を親の言うことを聞く以外に選択できなくする。刷り込む。
そんな環境で生きていると、その子供は自然と「誰かに褒められることをやらないとダメなんだ」と思い込むようになっていってしまう。
褒めるが”毒”になることも
ある人と個人的に話をしたのだけれど、その人は、両親や周りが常に褒めてくれる環境だった。
一見よさげな環境なのだけれど、その人曰く「いつも褒められることをしないといけないと考えてしまう」と感じて生きづらいといっていた。
これは、褒められることで成功を感じてきた人も同様の問題を抱えるケースが有るということ。
学生の頃は”神童”扱いだった人が、社会に出てからはうまくいかず、一気に落ちぶれてしまった、という話も聞く。
やり方はどうあれ、常に他人の目を考慮して生きなきゃいけないと思い込むことになってしまえば、それはどうあろうと苦痛に変わってしまうのだろう。
褒めようがけなそうが、褒められることがいいことだと思い込んでしまえば同じなんだ。
褒められないことは良くないことだと思い込むことになるんだから。
他人を恐怖の対象としてみるように
やがてそんな意識にずっと自らを晒し続けていると、他人に対する恐怖が無意識に刻まれていく。
義務教育と親からの賞罰教育によって他人にしたがうことが当たり前になってしまうと、他人に常に従わないといけない義務の意識がつきまとい、自身を抑圧して支配する他人を畏怖するようになっていくのだ。
親、教師、学校、社会。
そんな他人たちを恐怖の対象としてみるようになる。その人たちに好かれないと生きていけないと思い込んでしまう。
それが他人に対する認知のベースとなっていく。
だからそんな他人たちにやれと言われたことをやる。怖いから。
だからそんな他人の言うことに跪く。他人の目に平伏す。怖いから。
嫌われないように。好かれるように。褒められるために。怖いから。
「ちゃんということを聞けば、危害は加えられない。」
「そうすれば自分は彼らのもとで危害を加えられることなく、安全に生きていける」
このようにして承認欲求はどんどん大きくなっていく。
まとめ
承認欲求はこのように長い時間をかけて作られていった、思考形態で、本能でもなんでもない。ただの自分の思考の使い方の一種、生き方の一形態である
承認欲求のトリガーは他人に対する恐怖という刷り込み。
そしてその恐怖を打ち消すために他人の「赦し」を求める生き方。
これをくるくると回しながら日々を生き続ける、そんな生き方なんだ。
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