自分を愛することができるのはこの世で”自分だけ”である





自分を嫌って何が楽しいのか。なぜ他者に愛されたいのか。

自分を嫌いになることは楽しいのでしょうか。自分はなんて醜いのだろう。ダメなのだろうと。そうやって自身を卑下することが、自分が本当にすべきことなのでしょうか。

こう思ってしまうのは、大まかに言えば、人に愛されたいのに愛されないという不満からくるのだと思います。人に愛されなければ、好かれなければ自分には価値がないと考えているからです。

しかしなぜ、他者に愛されたいと思うのでしょう。

それが他者でなくて、自分であっても良いではないですか。他者が自分を愛するのではなくて、自分が自分を愛するでも。しかしこういうと、それは違う。ナルシストだと、ただの自己満じゃないか、それは愛じゃないという人は結構いらっしゃると思います。

では仮に、人は他者に愛されなければそれは愛ではないと仮定したとしましょう。あなたのことを愛してくれる人がいたとします。

※ここでいう「あなた」とは読者さん自身というよりももっと抽象的なあなたをイメージして書いています。決して読者さんを決めつけようとしている意図はないので、そこだけご留意頂ければと思います。



自分は誰かに「愛されている」。本当にそうだと確信をもっていえる?

では本当に、その人が自分のことを愛しているのかどうか、それを一体どうやって証明できるというのでしょうか

仮にその証明する手段があると仮定してみましょう。あなたのことを好きであろう人がいたとします。さて、それが確かなものであるとどうやって証明しましょうか。

相手を見ていればわかるのでしょうか。相手の目や表情、しぐさでわかるのか。しかしこれだけではただの勘違いで終わってしまうでしょう。ろくに言葉も交わさずに相手の気持ちを確かめられると思う人は多くはないでしょうから。

ですから想像に難くなく「いやいや、言葉を交わすのは当然だろう」と、いう人はいるでしょう。

では次に、言葉を交わせば相手がこちらが愛していることを確実に証明できるのでしょうか。「私を愛していますか」と相手に聞いたとします。

さてどうでしょう、相手は「愛してる」と答えてくれるかもしれません。しかし、その真意はどうでしょうか?相手は嘘を付いているかもしれません。どんな理由があるかないかはわかりませんが、もしかしたら。

なるほど、「ちょっとひねくれてるのでは」と。そうかもしれません。人の事をそんな風に疑うなんてどうかしている。ましてやこちらに好意があるという気持ちをそんな風に考えるのはいかがなものか、と。

そうですね、確かに。では、仮に相手は嘘をついていないと「仮定」しましょう。それが確かかどうかを保証する手段はいまはないですから、「仮定」とします。

さらに、相手はあなたのことを愛しているとも仮定します。とても正直な人であるという前提もつけましょう。

では逆にそんな正直な人から「愛していない」と返ってきたら、あなたはどうしますか。同じように信用できますか。すぐに納得しますか。

相手は正直でものであるという前提を先程つけましたから相手の言葉を信用する他ないはずですが、それでも「なぜ愛していないのか」「なぜ?」とその理由を聞こうとするのではないでしょうか。相手が自分にとって大切だったり気になったりしているものであればあるほどに。

若干脱線するかもですが、これはちょっと面白い話です。「愛している」と答えた時は相手は嘘は言っていないとそれ以上聞かずに納得したのに、「愛していない」と答えた時はそれだけで納得せず、その真意を確かめたり、あれこれ考えようとする。どちらも正直な意見であろうことは”自明”なのに。

まぁ、そこら辺の矛盾は一旦置いておくとしましょう。ここは100歩譲って相手もあなたのことを愛していると仮定しましょう。間違いなく相手はあなたのことを愛していると。

では、その相手の愛の程度はどれほどのものでしょうか?また自分の思う愛は、相手の思う愛と同じなのでしょうか?

実は、それほどあなたのことを愛していないかもしれません。他の友達と同じくらいの感覚かもしれない。もちろんその逆も然りでしょう。束縛するレベルであなたにぞっこんかもしれない。

また、愛の形についてですが、これを確かめるのはさらに難しいでしょう。なにせ自分自身もその形を容易に表現できないでしょうから。そんな曖昧なものを相手にも全く同じものを求められるものなのでしょうか。

「いや、相手は間違いなく自分のことを自分の思う形で愛している。だって同じ人間なんだから、多少は違うかもしれないけど、愛の感覚は大体同じはずだろう?」

そうですか。確かにそうかもしれません。全く違うとも言い切れないし、犬猫ならいざしらず、同じ人であるわけですから、むしろ共通していると考えるほうが自然だと思います。

では、その意見を受け入れ、相手はあなたのことを深く愛している、それもあなたの思う愛の形で、ということを仮定しましょう。

これなら完璧ですね。自分が相手から欲しいと思っている「愛」がそこにあることがわかりました。

やりましたね!ここまでそれがそうであること、仮定としたことが全て真実であることがちゃんと保証できるのであればの話ですが。

…さて、どうしますか?これらの「仮定」を証明しましょうか。でもどうやって?本当は相手がどう思っているのか。何を考えているのか。これをどのように確かめますか。それとも、全て「仮定」のままにそれを真実だと信じ続けますか。

先程まで上げた様々な相手があなたに抱いている”であろう”気持ちなどに対する追求や問いは、すべて相手の頭の中にあると考えられているものです。他人の頭の中を、人は覗くことも理解する術も持ち合わせていません。それでもそれが自分の思う形で存在すると確信をもっていえますか。信じられますか。

もちろんそう「信じるのは自由」です。それは間違いない。しかし、それを信じているがゆえに、それが原因で自身の人生に大きな障害としてそれが立ちはだかっているのだとしたら、それを信じ続けることは果たして価値があるのでしょうかね。



突き詰めていけば突き詰めていくほど、他者から与えられる愛というものほど、不確定で不明瞭なものはないでしょう。他人の考えていることや意識について考えてみればみるほど、それらは確かめようのないものであることがわかってきます。

おそらく、この世にそれを証明できる手段などどこにも存在しないでしょう。少なくとも現代社会の最先端のテクノロジーを使っても、それはわからない。

個人からみた他者の内面は「自分がそう見えていること」「自分がそう感じ取れること」が限界なのです。そこには理解という概念が介在する余地はありません。人は共感の壁を越えられないんです。

言葉や表現による人と人が交わすことのできる情報など、薄っぺらなもの。いくら言葉を交わそうとも、時に体を重ね合わすほどの”密接”な関係を築いたとしても、

いくら物質的距離を縮めたところで、人の心の距離というまるで宇宙がごときさきが見えず、広大なものに比べれば塵程度のものでしかない。

もはや人と人の意識のそれぞれの所在はそれぞれが異なる次元に存在するかのごときであり、肉体という物質的媒介を介して限られた通信だけができるだけの、非情にか細いつながりでしかない。

故に人は言葉によってどれだけ他者から卑下にされようと、逆にどれだけたたえられようと、愛されようと…実際にその距離が埋まることはないのです。

敢えて埋められる距離があると仮定すれば、他者を見た時に他者に投影した自分自身に対する距離感だけでしょう。

人は他者と意識と意識を直接つなげて交信したりとか、交換する術を持ち合わさない。人は自分のことのように相手の意識を感じることなどできはしないのです。

「愛すること」だけが個人にできること

おそらく、人は何かに、誰かに「愛されている」という”客観的事実”はあるかもしれません。しかしそれを”人自身”が確かめる術はなく当事者からすれば、それがどんなに「確か」であるように見えようと、それらは全ては「そう感じ取れる」だけのことなのです。

しかし、人は愛されることはかなわない一方で、実は何かを「愛すること」はできます。人が確実に確信をもってできるのは愛すること、与える行為だけ。

誰かから愛されること、与えられている行為というのは、実際には相手から与えられてはおらず、自分が自分に愛を与えるための間接的理由でしっかないのです。

最終的に自分に愛を与えているのは自分自身にほかなりません。

あいてから愛されている”かのように見える”行為を受け取ったうえで、自分は彼らに愛されているのだという解釈をし、それを担保に、「誰かに愛されている自分」を担保にして自分を自分で愛している。

もう少し直接的な説明をすれば、まず、「愛」を感じているのは自分です。ではその感じている「愛」という感覚は、相手から直接伝わってくるものなのでしょうか。そうではないでしょう。まるで相手の脳と自分の脳同士が常時接続されて、相手の愛を再現する何等かの脳内物質が直接伝わって愛を感じるというプロセスでもない限りは。

どんなに相手に愛されることによって愛を感じているように思えたとしても、実際には人は愛を感じるには自分で愛という感覚を作り出しているわけで、それを発生させるための理由を何に求めているかということでしかないわけです。

他者に愛されていることによってそれを感じるのであれば、それは自分が愛を発生させるために定義した単なる条件にすぎないということです。

つまり、人は自分に対する愛ですらも、自らによって与えているということになります。

この特徴から、人間の基本機能は「与えること」だけであることがわかります。「与えられる」ことは、機能的に人間には初めから不可能な話なわけです。

いわば人は、肉体という壁によって、本質的な与えられるという行為を遮断されているわけです。

自分で自分を愛することが唯一の「与えられる愛」である

人間は与えることしかできない。ともすれば、誰かに「愛される」ということも、既に書いたように自身を愛するための間接的要因でしかない。

どんなに他者に好かれる人であっても、反対に嫌われる人であってもそれは等しく同じ。自分を愛することができるのは自分だけなのです。

己によって自らに与える愛こそが真の「与えられる愛」であり、それによって自分は真に”愛される”わけです。この事実に気づけば、人は簡単に愛を感じられるようになります。

自分に対する愛を満たすことができるのは、他者ではなく自分自身なのです。自分によって自分を愛で満たすことが純然たる愛の形であり、”愛すること”の基本といえるでしょう。



自己愛という言葉の意味するもの

「自己愛」は、字面通りに捉えれば自分を愛することであり、それは愛の本質を体現しているといえるでしょう。

しかしこの言葉はもっぱら、「他者から愛されている自分を愛する」ということを指す言葉でしょう。それもひどく屈折したタイプの。少なくとも私の感覚ではそのように説明できます。

自己愛は、やはり他者の気持ちという不安定で不確かなものを担保にしているために歪みやすく、もろく、その正体は愛などではなく承認欲です。

哲学:「愛されたい」は「愛」ではなく、「承認欲求」である

しかし愛の本質、メカニズムを知っていれば、そのようなものに頼らなくとも、常に自身を愛で満たすにはどうすればいいかわかるはずです。自分によってのみ自分は真に「愛される」ことを知ってさえいれば。

飾らない自分を愛する

素の自分そのものを愛することができるようになること。いつどのような場所にいても、自分を愛し、満たすことができるようになります。

愛とは無償の存在なのです。複雑な条件を達成する必要など始めからなく、だれもが平等にもっているもの。

よって、もし常に愛を感じていたいのなら、愛を与えるために条件つけてはならないのです。これは幸福の最短条件と同じです。

承認欲求を捨てた先に見つけた純粋な幸福

愛や幸福に条件を定義するから人はその対極にある不幸へとその身を落とすことになるわけです。

他人からの愛を感じないと自分を愛せないと定義しているから、自信を不幸にしてしまうわけです。

例えばアダルトチルドレン。アダルトチルドレンの特徴を指すものの一つに、親から条件付きの愛情を受けて育った、というものがあります。

これは子供が親にとって都合のいい何かをした時だけ褒める、例えばテストでいい成績を取ったときだけ子供のことを認めるなど、特定の条件を満たした時だけ与えるという教育を受けてきたことを意味しますが、

そういう環境で育ったアダルトチルドレンは、愛は条件を達成することによって得られるものであると認識するようになります。

これが生きづらさの本質的な要因の一つであると私は考えています。

愛に条件を付けてはならない。愛は無償でなくてはならない。

自分で自分を愛することに理由をつけてはならない。愛はただ愛として常に自分を満たしていなければならず、それで満たされているからこそ、他者を愛せる。

他者は自身の鏡です。人は他者を見る時、他者の中に自分の姿を見ている。それはつまり、他者を愛するという事は、そこに映った自身を愛するということでもある。

例えば、自らの何かを嫌っているのであれば、他者の何かについても、本当は嫌っている。

逆に自分が他者の何かを嫌っているのであれば、それは他者の姿に見出した自分のある部分を嫌っている。

つまり自分を真に愛することができていなければ、他者を愛することはかなわないということでもあります。

愛は人生を豊かにするための基本能力である

何かを愛すること、自分に愛されることを覚えれば、それは必ず自身の人生を豊かにする。それは金銭的だとか経済的な豊かさではなく、より根源的で人間的な生物としての豊かさであると私は考えます。

自分を愛すれば、それは自分に愛されることになり、愛によって自身を満たすことができ、それは必ず自身の人生を豊かにしてくれるでしょう。

そしてそれを他者に与えることでさらに自分だけでなく他者をも豊にすることもできる。

他者の愛をほしがることもなくなり、陰口も悪口もほとんど気にならなくなるでしょう。なぜなら、自分が自分に愛を与えるため、他者から与えられる愛を必要としなくなるわけですから。

結局のところ、幸福も愛も、全ては自分の認識次第だ。自分がそれらをどうとらえているかという話でしかありません。

しかし愛や幸福は、人の精神面における原動力でもあります。いえ、むしろこれこそが人の根源的な原動力。これがなければ人は行動できなくなってしまうでしょう。その症状がおそらくうつ病などに始まる精神疾患などに該当するのではないかと思います。

もちろん肉体的健康を保つために食事管理や運動も必要ではありますが、それは生命維持のためです。意欲、やる気、気力など、精神面における部分は健康的な精神にこそ宿るものです。

精神面の健康は、ゆがみのない純粋な原動力からなりたつもの。そして健康であるからこそ人は健やかに行動し、生きていくことができるのです。

愛を学ぶには時間がかかる

「他者からの与えられる愛」を「愛」であると認識してきた人にとって、「自分で何かを愛すること」を「愛」を実践しようとしたら、おそらく最初は純粋にありのままの自分を愛することに抵抗を感じたり、自分が何かを自発的に愛すること自体に、どこか罪の意識を感じたりすることもあると思います。やり方も手探りで進めていくことになると思います。

人は習慣的な生き物であるため、習慣を変えるためには継続してそれを正していくことに努め続ける必要があります。自身の認知の仕方は、その度に気づいて、繰り返し修正し続けていく必要があるのです。

しばらくは自分を純粋に愛する自分と、他人に愛されていることによってのみ自分を愛しようとする自分との鍔迫り合いが続くでしょう。

しかし、自身の純粋な自分に対する愛をサポートし、そちらを優位にするように勤めれば、やがて昔の自分は自分の中きら消えていくと思います。

人は突然変化することはなく、徐々に少しづつ、それこそ、自分では変化していることに気づかないレべルです。しかし継続して続けていけば、

いつか過去の自分を振り返ったとき「そういえば昔はこんなことでなやんでいたんだっけ」と、今の自分を懐かしく思える日がきます。

愛されることが愛であると考えていた頃と、愛することが愛であると考えている今とでは、まるで愛に対する考え方も変わってきます

少なくとも、愛云々で悩むことはなくなるでしょう。その時には、何に愛を与えようか楽しく忙しくしている自分しかいないでしょうから。

語り:他人の意識なんて無視していいよ

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約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

MBTI : ENTP

1 個のコメント

  • コメント失礼します。
    最近たまたまこちらのサイトを拝見して少し記事を読ませて頂き、
    Elepanさんの感性やおっしゃってる言葉が、今の僕の心境にだいぶ響きました。
    ふいにコメントしたくなり書かせて頂いてます。

    周りの人には共感して欲しいし、自分の頑張りや存在を認めてほしいという感覚は誰でも持っていると思いますが、それが行き過ぎると自縄自縛というか、
    自分の行動も心も不自由になって来ると思います。
    周りに好かれる人間になろう、周りとうまくやっていかなければと、
    心理的に、
    周りの人の方が立場が上で、いつもそこにお伺いを立ててから自分の行動を決めるという、
    主体性を十分に持てない、ビクビクした状態で生きている状態になります。
    でも究極のところ、
    人は自分自身のことだけに興味があり(親の子供に対する愛情は別かもしれませんが)、他人のことはどうでもいいと考えているんだ、と今は思っています。
    周りの人から冷たい扱いや言葉を受けるとへこんでしまうけど、
    周りの人はずっと僕のことを頭に置いて生きているはずないし、数分後には僕の存在すら忘れてるかもしれません。
    周りの人からの承認というそんな移り気な不安定な砂を土台にして、自分という家を建てようなんて無謀なことはしてはいけないんだろうなと思います。
    記事の中にあった「与えることしかできない」というようなニュアンスは、心理学の本や心の本を少し拝読してる最近の僕にはしっくりきました。
    他者から承認されてることを条件にして、自分を愛するという2段階を踏むのは、やはり脆弱なんだろうなと改めて感じました。
    外見だったり能力だったりが良くって、他者からの具体的な承認を経ず、いきなり自分に愛を与えることが簡単にできる状態であればいいんですがね。
    周りから御飯を食べさせてもらえなければ生きていけない弱い状態の幼少期に何か、わがままを通せずお伺いを立てなければならなかったような経験があると、
    周りからの承認に過度にセンシティブな人間になってしまうのかなとも、本を読んだりして想像してます。
    僕も周りの人からどう思われてるかがすごく気にしてしまう人間なので、この記事はとても興味深い内容でした。
    なんかまとまりのない文章になりましたが、これも共感を求め承認を求めてるんだと思います。精神的に幼いからだと思います。
    拙い文章で失礼しました。

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