目次
なんで愛されたいなんだろう
何かを好きになったりすることっていうのはごく自然に誰でもあることなんじゃないかと思います。これが好き、この香りが好き、この景色が好き、この考え方や価値観が好き、この人が好き…
何かを好きになるって自分が何をどう思うか、という次元の話ですよね。自分がどう感じていて、どうしたいか。何かを好きって気持ちはそんな自分の脳が感じることの話だと思います。
一方、「好きになってもらう」というのはこの点で考えるとなんだか違和感があります。相手が自分のことを好きかどうか、ということなんですがこれって自分の脳が感じることではないわけで、他人が自分のことを好きだろうが嫌いだろうが、実質的には何も関係がないことなんですよね。
何かを愛することも同じことがいえると思います。誰かを愛すること。自分の愛する人、愛する何かを思う事。パートナーの誰かだったり、自分の子供だったり、大事にしている何かや習慣、概念だったり、それを考えると気持ちが楽になったり元気が出たりするものだと思います。
でも愛されているかどうかっていうのは、自分の脳で決めてやることではないんですよね。他人が決めて感じる「他人が愛するかどうか」というもの。決めるどころか自分の感じることでも考えることでも全くないわけで、自分が好きかどうかという自身の思考や感覚の次元とは別次元の話です。虚無か何かでも無理やり感じようとしているというか。全く見たことも感じたこともない別の宇宙か何かにあるものを感じようとしているような話ですよね。
なんでそんなものを欲しがっているのか。自分にとっては存在しないものなのに。存在しないものを欲しがるなんてできるはずがないのに。そんなことについて私はずっと考えてました。愛されるというのが一体何なのか、何を愛されることで欲しているのか。そしてそれを知って、いらないとわかったので捨てたんです。
そしたら楽になって、自分から誰かや何かを好きになることができるようになりました。
他人が怖かった。自分に自信がもてなかった。
結論から言うとこれでした。
自分で自分のことを決められない。他人の保証なしに自分から行動を起こすことが怖い。だから自分からではなくて、相手から来てもらいたい。受け身になって相手の出方をうかがいながら、あちらから来てもらうことを待っていたい。
保証されたい。導かれたい。守られたい。そんな欲求でした。
散々待ち焦がれてその末にやっと好かれたり求められたすると、すごくほっとするんですよね。
やっと必要とされた。やっとふりむいてくれた。やった!うれしい!認めてくれた、…。みたいな感じです。まるで今までの自分のいろんな苦労が報われたような気がしてほっとする。
感謝の気持ちに近い感覚でしょうか。こんな自分を好きになってくれてありがとう、というような。そしてその安心と感謝の感情によってその人を好きになるんです。
だから愛されていないと不安、好かれていることが確認できないと不安でしょうがない。自分のことを愛していない人、好きかどうかわからない人を自分から好きになるのはとても怖かったのです。
愛されないと愛してはいけないと感じていた
思えば普段から他人の目を気にしたり、世間の目や常識を気にしてとにかく浮かないように、目立たないように生きていました。(その反面で目立つことに異常なあこがれもありましたが…)
それは知り合いでもないただの通りすがりの人の目すらも常に気になってしまうようなもので、髪型はおかしくないか、顔に何か汚れでもついているんじゃないか。ひょっとしてあの人は自分に気があるんじゃないか。そんなことを考えずにはいられませんでした。
人と相対したときにまず最初に思い浮かぶのはいつも他人が自分をどう思っているのか、見ているのかということばかり。他人の気持ちが一番、他人ファースト。まずは他人が自分をどう思っているかが大事。他人が自分にどんな気持ちをもっているかが大事。
一時期は誰もいない自分の部屋の中でさえ誰かに見られているような感覚があり、常に自分の行動はおかしくないか、ふさわしいかを気にし続けていました。
何をするにも他人が全ての起点になっていたんですよね。すごく縛られている感じでしたし、とても生きづらかったです。
そんな自分を変えたいと思った
「何でいつも他人の気持ちばかり考えてしまうんだろう」
そんな自分に嫌気がさしてそう自分に問いかけるようになりました。ある人生の転機があってから他人のことが全く信じられなくなって自身の人生に絶望し、アドラー心理学を知って自分で自分を変えて自分の苦しみを解決しようと取り組みを始めました。
嫌われること = 死 という思い込み
何度も自分になぜ自分はこんなにも人に好かれたいのか、嫌われたくないのかと問い続けました。その果てに見つけた気持ちの正体は「自分はすべての他人から許されていない」というような罪の意識、劣等感のようなものでした。思い込みといっても感覚的なものに近いもので、様々な自身の日常の中に完全にとけこんでいてなかなか気づくことが出来ないものでした。
そしてそう感じるようになった原因は私の幼少期の頃にありました。
母親にから「人前で恥ずかしくないようにしなさい!」といつも口酸っぱく言われていました。人前でも家でもとにかく他人にどうみられるか、普通かどうかというような基準でいつも注意されて精神的に追い込まれるような日々を送っていました。時には一切の食事をとらせないという制裁すらもされたり何度も家を追い出すと脅されたりもしましたね。母親だけでなく、父親は機嫌次第でいつキレるかわからない不安定な人でしたから、必死に親の目をうかがう日々でした。そのような環境の中で生きるために無意識にみにつけた、「他人にとって常にその目にかなう人間でいなければ生きていけない」という幼少期のころからの生き残りのための決死の思い込みだったんですね。
私の親は所謂毒親。この他人に対する一連の思い込みは、そういった親からの教育、精神支配の中で思い込んできたものでした。思えば散々様々ないじめにあってきたのも、この思い込みが影響しているとも思っています。いじめられないように自分を小さくし、怒られないようにおとなしくしてうじうじとするわけですが、これがいじめをしたい人の心をくすぐるんですよね。いじめてくださいと言っているようなものだったのでしょう。
いじめられても他人を傷つけてはいけない、暴力はだめだといわれてましたから手も出せずずっといじめられ続けてました。
嫌われること = 死ぬことという極端なイメージを伴ってしまっていた自分にとっては、その他者に反抗することなんてありえないことでやり返すこともできずいつまでたってもいじめはなくなりませんでしたね。
そのような経験を経て好かれることに対する異常な執着ができたんだと思います。なにがなんでもいじめられたくなくて、だから好かれること、嫌われないことはマスト。物心つく頃にはそのために必死に自分を追い込むようなことをやっていました。一種のPTSD的なものだったんじゃないかと今は思いますが、それが病的な承認欲求の正体でもありました。
誰かと一緒にいても苦しんでいる自分が居たことに気づいた
振り返ると、自分が好きだと思っている人と一緒にいてもどこか苦しい感覚を感じていたことに気づきました。しかしやはり日常化していたのでその感覚が普通だと思いこんでいました。しかし一旦普通かどうかというフィルターを外し、自分がどう感じていたかどうかだけを考えてみると、そこには確かに不安や精神的苦痛があったことに気づいたんですね。
その原因も同じようなものでした。いつも”取り繕った自分”でいなければならないと自分に強制していたからです。人に好かれるのはマストですからそりゃ必死でした。人の目を気にしない瞬間はほぼなかったと思います。
でも今思うと本当はもっと楽でいたかったし、気にしたくなんかなかったんですよね。もっと気ままに自分の好きなことを言いたかった。自分からやってみたいことを提案して思いっきり楽しんでみたかった。でもそれはできませんでした。相手の考えていることをいつも意識して、気を使ってから発言や行動を考える。それに対する完璧主義的な思考にも陥っていて、しらみつぶしに相手に不快な思いをさせないために何をするにも悪いことばかりが浮かぶ。だから一切自分から行動することができなくなっていたのですよね。
だから時々自分でもよくわからないタイミングで突然強烈な恐怖や不安感が押し寄せてきて、そんな状態から解放されたいと思って一気に人間関係をすべて切りたくなる、リセットしたくなる衝動にもかられることも何度もありました。
ストレスから散財に走ったり、大量に食べ物を食べたりといった、どこか自己破壊的にたまったストレスをしてしまうこともありました。
まるでそんな自分に対する嘘、相手に対する嘘をついている自分を罰するみたいに。他人にも自分自信にも嘘をたくさんついて、それがどんどん蓄積していって、ある日キャパを超えて爆発して…その繰り返しでした。
愛してくれる人に精神的に依存してしていたことに気づけた
自分を愛してくれてる人はこの世で数少ない「自分を許してくれた人」。周りで数えるほどしかいない自分を許してくれている彼ら彼女らは、本当にとても貴重で、安心することができる唯一の安全地帯。だからその人が自分から離れてしまうことが怖くてたまらなかったんですね。それ以外の人は自分を許していないと思っているわけですから。気が知れていない人は未知の脅威で、だからその未知の脅威たちから自分を守ってほしくて、退避先である彼ら彼女ら強く依存してしまっていたわけです。だからなおさらなんとしても嫌われないために相手の好みそうな誰かを演じ続けました。
一人になる寂しさ、誰にも許されていない自分になる苦痛、その恐怖に比べたらずっとましだと思っていたからですね。
愛されたい = 許されたい だった
そんな自分の愛されたいという気持ちを分析していたくことで、「愛されたい」は”愛”を求めてるものではないという風に思うようになりました。
本当に求めていたのはただの安心。他人の気持ちなんて実はどうでもよかったのです。
両親にずっと求めてきた許しがその根本。幼いころに両親と主従関係のような人間関係を構築していて、その延長線上に他者と付き合っていた。私があの家で生きていくために身に着けた処世術をそのまま他者との関係性としてしまっていただけでした。
他者の都合に合わせる必要はないということ、他者は正しいことを知っているわけではない自分と同じ人間だったということ。親もただの人間で、親は親の主観の世界観で勝手に私のことを決め付けてきただけだったということ。
自分が見ていた奴隷(自分)と支配者(他者)の世界観はこの世の真実ではなく、そのような環境の中で生きてきた自分が思い込んで作り上げてきた主観の世界であったということに気づいたんですね。
こうして自身の今までの人生を分析してこれまでの自分の世界観はとてつもなくゆがんでいたということがよくわかりました。
だからそれは変えていいもの、捨てていいものだったんだと。誰の許しも誰の愛もなくてよかった。自分で自由に何かを好きになったり嫌いになったりしてよかった。それに気づくことができました。
好きな人だと思っていた人のことを本当は好きじゃなかったことに気づいた
「自分を好きになってくれたからこの人が好き」
でももし、相手が自分を好きでなかったら。もし相手からのアクションが一切なかったとしたら?それでもその人を好きになったか。
今の自分でははっきり言えます。好きになっていなかったと。今の私は他人の気持ちは既にどうでもよくなりこれまでの人間関係のことも同時にどうでもよくなりました。
「気にすること」でしか関心をもってなかったのでそれをベースにしたつながりの関係は全て不要になりました。そしてそれしかなかったので誰も友人と呼べる人がいなくなったんです。これまでの過去をたどっても一人も友人だと思える人は今の自分にはいませんでした。
そのおかげで友人はゼロになってしまいましたが、それは今まで自分が自分で人を好きになったことがなかったことを意味していることでもありました。自分のしたいことを何一つもっていなかったから、人を好きになる目的も何も持っていなかったので当然といえば当然でした。
これまで自分が思っていた人に対する関心、人間関係はゆがみそのものでしかなかった。自分の本心ではない。したい、欲しいという欲求からではなかった。人を好きになることを自分に強制していたような気もします。人を好きでないことはおかしい、普通じゃない、普通じゃないと生きていけないという強迫的意識が自分が何かを好きになることすら縛りとして強制していました。
で、孤独になると最初はさみしいかと思っていたんですが実際のところ平気、というか孤独ってすごく楽なんですよね。だって孤独って他人を気にしていない一人で気楽にしている状態なのでとても気楽ですし、リラックスできるからです。
恐れていたのは孤独ではなく孤立でした。気にすることで孤立しないように気を張っていたのです。やはりこれも過去の自分の世界観が作り上げていた恐怖でしかなかったんです。
「愛されたい」は「愛」ではなかった
愛とは自分が何かに感じる気持ちのこと。自分のしたい、欲しいという能動的な欲求由来のもの。
愛されたいという欲求は他人に許されたいという欲求が湾曲し、愛という小奇麗な言葉で仕立て上げられていたごまかしでしかなかった。
他人からの愛は存在しなかったし、必要もなかった。ただ自分で作り出した他人を使った不安の種でしかなかった。愛することを求めることはしんどいもので、気持ちのよいものではなかったことに気づきました。
愛される必要はない。自分が愛するものを愛していいんです。
他人の都合を自分の都合で求めるのは他人に対する縛りで、自分に対する縛りでもある。好きという気持ちは誰かを縛るものでも、自分を縛るものでも支配されることなんかでも誰かに許可されるものでもなくて、その瞬間に自分がただ自分で感じるだけのもの、ごく単純な自分だけの感情、感覚だった。
自分で好きな時に好きなタイミングで自分の気持ちに自然に答えた「自分の表現」だったんです。
読んでいて泣きました。そして長年の親の支配や、愛についての答えが見つかった気がしました。この記事を読んでみて良かったです。私は今まで、恐れや不安から愛されることを望んでいたように思えます。でも、その思い込みから解き放たれた気がします。これからは純粋な気持ちで、人と接することができるような気がします。ありがとうございます。
素晴らしい記事ですね。
感動しました。
まさに私のことが書いてありました。
行動に主体性が無いし、論理的では無い。
面白くもなんとも無くとも話し相手に作り笑いをしてしまったり、寂しさから好きでもなんでもない人に連絡してみたりする癖が抜けません。
やはり本音ではないためかボロが出るようで、そういう人間関係は大抵うまくいきません。
このままではまさに一生他人の奴隷です。
自分の価値を他人の反応でしか評価できなくなってしまっているようにも思います。客観的に見ても、もうこれは病気です。
この認知の歪みは治すことが出来るのでしょうか。
連投すみません。
管理人様の他の記事を見て、ほぼ解決できました。
他人が自分に対してどう考えているのかなど確認する術はない、まさにその通りです。これが鍵でした。
幸せに生きるのも不幸で生きるのも、直接的要因は自分であるということですね。
全て一人芝居だったのか!と安堵しました。
私を不幸にする敵など世界中に一人もいないんだと。
少しずつ歪みを修正していこうと思います。
素晴らしい気づきを頂き、本当にありがとうございました。
お役にたててなによりです^-^
他人のことはわからない。だから考えてもしょうがないんですな。
人目を気にしなくなれば明るい人生が開けると思いますよー!
話は変わりますがちょっと新しいサイトを作成中なので(公開はまだ先ですが…)、
もしよければどうぞ。もし思い出された時にでも^-^
ちょっとブログの単体記事形式だと限界があると感じてきましたので…
ともあれ、たけるさんの人生が幸福であることを祈ります!
高3男子です。
記事の内容が、今までの人生の中で自分が考えてきた思考や疑問に思っていたことなどと当てはまるものが非常に多く、Elepanさんの記事にもっと早く出会っていればよかったと感じました。
コメントありがとうございます!
なるほど、そうでしたか…何かのお役に立てたならよかったです。
客観的に自分のことを分析してみるといろんな発見がありますね。
私もアドラー心理学とか、もっと早く知ることが出来たらなって思います。
そういう情報がもっと身近なものであれば、不幸に陥ってしまう人も減らせるかもしれないですね…