心理:毒親持ちの私の「愛されたい」は「承認欲求」だった!





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“なぜ愛したいではなく愛されたいなんだろう。自分の気持ちよりもなぜ相手の気持ちの方が大事なんだろう?”

自分にとって自分という存在が一番大事なもの。だって自分という存在がなかったら、何かを大事だと思うことすらなかったんだから。

自分がいなかったら何も感じられないし、何も好きにすらなれない。

そんな事実を前にしたら自分が他人よりもずっと比較できないくらいに重要なのは明らかなのに、なんでそんな風に思うんだろう。

なぜ自分の愛したいという素直な気持ちよりも愛されたいという他人が自分を愛していることを求めたいんだろう?

そんなことについて私は考えて、それを知って、捨てました。

そうなんですよ。捨てたんです。愛されたいを確実に求める方法を考えるのをやめて、全部捨てました。

そしたら楽になって、自分から誰かや何かを好きになることができるようになりました。

この記事ではかつて承認欲求お化けだった私が、どんな人間で、どんな風に自分の心に向き合って変わったのかを書いていきます。

他人が怖かった。自分に自信がもてなかった。

結論から言うとこれでした。

だから自分からではなくて、相手から来てもらいたい。受け身になって相手の出方をうかがいながら、あちらから来てもらうことを待っていたい。

そしてその末にやっと好かれたり求められたすると、なんだかほっとしたんです。

やっと必要とされた。やっとふりむいてくれた。やった!うれしい!認めてくれた…。

そんな自分の苦労が報われたような気がしてほっとする。

感謝の気持ちに近い感覚。こんな自分を好きになってくれてありがとう、というような感覚。

誰かが自分を愛してくれたことがうれしい。認めてくれてうれしい。そしてその感情によってその人を好きになる。

その気持ちが欲しいから愛されたい。求められたい。自分を愛してくれる人が欲しいと思っていました。

だから愛されていないと不安。好かれていることが確認できないと不安。だから自分のことを愛していない人、好きかどうかわからない人を好きになるのはとても怖かったのです。

嫌われるかもしれないし、否定されるかもしれないし、気持ち悪いといわれて拒絶されて、それで自分が傷つくのが怖かった。

嫌われたら自分に自信がもてない。自分が否定されたような気がして立ち直れないかもしれない。

他人に嫌われるのが、とてつもなく恐ろしかったのです。

愛されないと愛してはいけないと感じていた

思えば普段から私は、自分に自信がもてなくて他人の目を気にしたり、世間の目や常識を気にしてとにかく浮かないように、目立たないように生きていました。

それはどんな人に対してもで、知り合いでもない、ただの通りすがりの人の目すらも常に気になってしまうようなもので、髪型はおかしくないか、顔に何か汚れでもついているんじゃないか。そんなことを考えずにはいられませんでした。

どんな他人にでも、相対したときにまず最初に思い浮かぶのはいつも他人が自分をどう思っているのか、見ているのかということばかり。

自分に対する他人の気持ちが一番、他人ファースト。まずは他人が自分をどう思っているかが大事。他人が自分にどんな気持ちをもっているかが大事。

それを確かめないことには、関係を持ちたいと思えず、強烈な拒絶感を感じてしまって生理的に受け付けませんでした。

自分の他人ファーストの意識に対する疑問

「何でこんな風に考えてしまうんだろう」

そんな自分に嫌気がさしてそう自分に問いかけました。それは、ある人生の転機があってから。他人のことが全く信じられなくなってしまったその頃からです。

他人に好かれようと考えること自体が苦痛になってしまったんですね。かつてないくらいに他人に絶望して、他人が信じられなくなって他人がただの怖い人にかわってしまったから。

だからそんな自分の意識を変えたくて、他人に好かれたいけどその気持ち自体が信じられなくて苦しい、そんな苦痛から逃れたくてそう自分に問いかけたんです。

「自分は他人に許されていない」という無意識の思い込みだった。

そう何度も自分に問いかけ続けて、自分のアマの中にあるいろんな思い込みに気づいていきました。そしてその果てに、その気持ちの正体は「自分はすべての他人に許されていない」というような、無意識の思い込みだったことがわかったのです。

思い込みといっても感覚的なものに近いもので、それが自分にとっての普通の感覚というか日常だった。まるで他人が常に自分を監視しているかのような、品定めをしているかのような感覚というか。

私は常にそれに「ちゃんと答え続けていなければならない」というような感覚が常にあったんですね

そしてそう感じるようになった原因は私の幼少期の頃にあった。

母親に言われた「人前で恥ずかしくないようにしなさい!」といつも口酸っぱく言われ、人前でいつも注意され、正されることを繰り返す日々の中で培われた、他人に対する警戒の意識、複縦の意識だった。

私の母親は所謂毒親。この他人に対する一連の思い込みは、母親からの精神支配から来ていたものだったということに気づいたんです。

母親のその目にかなうまで、許されるまで、何度も母親に叱られた。時には一切の食事をとらせないという制裁すらもされた。そのような環境の中で生きるために無意識にみにつけた、「他人にとって常にその目にかなう人間でいなければならない」という幼少期のころからの思い込みだったわけです。

だから私は、ずっと他人から監視され、他人に良いといわれるまで許されていない人間であると無意識的に思い込んで、今まで生きてきたわけです。

それが好かれなきゃいけない、嫌われてはいけない、愛されてなければいけない、という義務感にまで発展した。その義務を背負い、常に期待に応えるためにふるまうようになったのもこのためでした。

相手のことをちゃんと分かってなきゃ“いけない”

相手にとって役に立つことをしなきゃ“いけない”

相手を傷つけちゃ“いけない”

常に相手の気持ちを察してそれを満たして、満足してもらわないと“いけない”

他人の好きな自分にならないと“いけない”

その思い込みと自己否定の感覚がいつも自分から誰かを好きになることを邪魔をしていたんです。

一緒にいても苦しい時がある。

自分を好きな人と一緒にいることができてもどこか苦しい。

本当の自分は、そんな”取り繕った自分”ではないから。本当はもっと楽に接したいし、もっと気ままに自分の好きなことを言いたい。でもそれができない。相手の目をいつも意識して、気を使ってしまう。

そんな葛藤の中に身を置いているのだから、苦しいに決まっているわけでした。

だから時々自分でもよくわからないタイミングで突然強烈な不快感が押し寄せてきて、ある日そんな状態から解放されたいと思ってどこかで距離を置きたくなる。リセットしたくなる衝動にもかられる。

全てをリセットしたくなるような衝動にも駆られることも多々ありました。

そのストレスから散財に走ったり、大量に食べ物を食べたりといった、どこか自己破壊的にたまったストレスをしてしまったり。

まるでそんな自分に対する嘘、相手に対する嘘を罰するみたいに。他人にも自分自信にも嘘をたくさんついて、それがどんどん蓄積していって、ある日キャパを超えて爆発して…その繰り返しでした。

愛してくれる人に精神的に依存してしまう

自分を愛してくれてる人はこの世で数少ない「自分を許してくれた人」

なぜなら他人に対して抱いている漠然とした意識が「自分を許していない人」だから、世の中の全ての人ががそんな風に見えてしまっていました。

そんな中でたった数人しかいない自分を許してくれている彼ら彼女らは、本当にとても貴重で、安心することができる唯一の安全地帯

だからその人が自分から離れてしまうことが怖くてたまらない。それ以外の人は自分を許していないわけだから。気が知れていない未知の脅威だから、だからその相手に自分を守ってほしくて、強く依存してしまっていたわけです。

だからなんとしても嫌われないために尽くす。自分の身を削ってでも好きでいてもらうために尽くして、どうにかそれを維持しようと自分を犠牲にして関係を維持しようとしてしまうんです。

やっと手に入れた安全地帯だから。この世でまたとない貴重な安全地帯という他人だったからどうしても手放したくなかった。手放しちゃいけなかったんです

安全な場所を手放して自分をまた危険な状態に晒すなんて怖くてたまらないですから。

一人になる寂しさ、誰にも許されていない自分になる苦痛、その恐怖に比べたらずっとましだったからです。

愛されたい = 許されたいだった

愛されたい、は”愛”を求めてるんじゃなかった。

好かれたい、認められたい。必要とされたい。それによって”許し”を求めているだけでした。それも必要のない許しを。

母親から受けた洗脳がもとで求めているものでしかなかったのです。私があの家で、生きていくために身に着けた処世術。それを他人にも必要なことだと無意識に思い込んで求め続けていた。

それは全部、本当はいらなかったものだったのです。

誰の許しも。誰の愛もなくても、何かを愛してよかった。それに気づくことができました。

好きな人だと思っていた人のことを本当は好きじゃなかったことに気づいた

「自分を好きになってくれたからこの人が好き」

ではもし、それが全部なかったら?もし相手からのアクションが一切なかったとしたら?

それでもその人を好きになっただろうか?

もしその人が、自分を好きになってくれてなかったら?

今の自分でははっきり言えます。「好きじゃなかった」です。

実際、今の私は他人の気持ちは既にどうでもよくなってしまって、それによってこれまでの人間関係のことも同時にどうでもよくなってしまったからなんです。

自分を好きな人、愛してくれる人が必要ないと自分の中で納得ができたら、これまでの人間関係も必要なくなってしまったんです。全部自分を否定することで作ってきた関係でしかなかったからですね。

そのおかげで、私は「あの人たち」のこと、母親のことも含めて全然好きじゃなかったということがわかりました。

普通だと思っていた「受身の愛」は本来の「愛」ではなかった

愛とは自分の気持ち。他人の気持ちなんかじゃないし、自分の愛とは何も関係がなかった

自分で自分のことを決めて、自分で何かをやってみると、それで充分に人生は楽しいことが分かったのです。それと同じで、自分で何かや誰かを好きになってみると、やっぱりそれで十分で、その気持ちや感覚はこれまでの「愛されることで好きになる」というものとはまるで別物だった。

そこには執着もしがらみも義務もない。単に自分がその時に好きだと思ったものを好きだと感じられるんです。

好きという気持ちは誰かを縛るものでも、支配されることなんかでも誰かに許可されるものでもなくて、その瞬間に自分がただ自分で感じるだけのものだったんですね。

自分で好きな時に好きなタイミングで自分の気持ちに自然に答えた「表現」だったんだということに気づいたんですね。

自分の素直な何かを好きだと思う気持ち。

他人にどう思われようが関係ない、他人の自分に対する気持ちも要求も全然関係ないし、関係させなくてよかったんです。

他人に何も言われなくても好きなもの。誰かにやめろと言われても、気持ちが悪い、おかしいといわれても関係ない、

ただただ自分が好きなもの。夢中になれて自分の言葉で気持ちでいろんなことを語れること。それを考えたりするだけで気持ちよくなれる、十分に幸せだと思える何か。

そういう気持ちが愛だったというわけです。

愛は気持ちがよくて、心が軽くなるような、素晴らしいもの。他人に委縮して小さくなって守られるためのものなんかじゃない。

自分だけの前向きでエネルギーに満ち溢れた幸せな気持ち。

愛する何かを求めるのは、愛されたいんじゃなくて、認められたいからじゃなくて、単純に自分が愛したいからで、その好きという自分の気持ちを感じたいからなんです。

それだけのもので、それで十分、それがすべて。

他人からもらう必要なんてなかったんです。自分が感じる愛、愛したいという気持ちがすべてだったんですから。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

5 件のコメント

  • 素晴らしい記事ですね。
    感動しました。
    まさに私のことが書いてありました。

    行動に主体性が無いし、論理的では無い。

    面白くもなんとも無くとも話し相手に作り笑いをしてしまったり、寂しさから好きでもなんでもない人に連絡してみたりする癖が抜けません。
    やはり本音ではないためかボロが出るようで、そういう人間関係は大抵うまくいきません。

    このままではまさに一生他人の奴隷です。

    自分の価値を他人の反応でしか評価できなくなってしまっているようにも思います。客観的に見ても、もうこれは病気です。

    この認知の歪みは治すことが出来るのでしょうか。

    • 連投すみません。
      管理人様の他の記事を見て、ほぼ解決できました。

      他人が自分に対してどう考えているのかなど確認する術はない、まさにその通りです。これが鍵でした。

      幸せに生きるのも不幸で生きるのも、直接的要因は自分であるということですね。
      全て一人芝居だったのか!と安堵しました。
      私を不幸にする敵など世界中に一人もいないんだと。

      少しずつ歪みを修正していこうと思います。
      素晴らしい気づきを頂き、本当にありがとうございました。

      • お役にたててなによりです^-^
        他人のことはわからない。だから考えてもしょうがないんですな。
        人目を気にしなくなれば明るい人生が開けると思いますよー!

        話は変わりますがちょっと新しいサイトを作成中なので(公開はまだ先ですが…)、
        もしよければどうぞ。もし思い出された時にでも^-^
        ちょっとブログの単体記事形式だと限界があると感じてきましたので…

        ともあれ、たけるさんの人生が幸福であることを祈ります!

  • 高3男子です。
    記事の内容が、今までの人生の中で自分が考えてきた思考や疑問に思っていたことなどと当てはまるものが非常に多く、Elepanさんの記事にもっと早く出会っていればよかったと感じました。

    • コメントありがとうございます!
      なるほど、そうでしたか…何かのお役に立てたならよかったです。
      客観的に自分のことを分析してみるといろんな発見がありますね。
      私もアドラー心理学とか、もっと早く知ることが出来たらなって思います。
      そういう情報がもっと身近なものであれば、不幸に陥ってしまう人も減らせるかもしれないですね…

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