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愛とは、それぞれの個人だけがもっているもの
愛とは、何かを愛おしく思ったり、好きだと思ったりする、自分自身の感情表現のことだ。つまりそれは自分自身が感じているものであって、ほかの誰かも感じたり、ほかの誰かの感じているものではない。
自分だけのもの。それが愛。人はそれ以外に愛というものを知らないんだ。
人は自分以外の誰かの愛を知ることはない
自分が何かを愛しているという気持ちや感情は、自分の頭の中にあるもので、その頭の中から決して出ていくことはない。
それはつまり、他人の頭の中にある愛も、他人の頭の中から出ていくことはない、ということになる。
そんな外にでてこない他人の愛を、人は全く知らない。感じることもできない。
人は五感でしか世界を感じ取ることができず、その五感では他人の頭の中にある愛は感じることができないから。
知らないんだ。少しも。今まで自分が思っていた「他人に愛される」という何かが頭の中にあるとしたら、
それは全部存在しないもので、自分のただのおもいこみだったんだ。
自分が何かを愛することに、他人の愛は少しも関係がない。
人は他人の愛を全く知らない以上、他人が愛しているかどうかに関係なく、勝手に自分で他人を愛することができる。
愛とは他人に許可されてできるものなんかじゃない。
自分が好きに決めて、自由にできる自分自身の感情、欲求なんだ。
他人に許可されようがされまいが、それが自分の気持ちに何の直接的な影響も及ぶ巣ことなんかない。そんな権限もないし、あったとしてもそれで人の気持ちをコントロールできるわけがない。自分の脳が誰かに操られているようなことがあるならともかく、そもそもそんな技術を人間は作り出せてすらいない。そんなことは誰にもできないことだ。
全部自分で決めてるんだ。他人は決めていない。自分がやっていることも感じていることも、全部自分が決めていることだ。
それでももし、他人に許された時しか、他人に好かれたときにしかその他人のことを愛せないと思っているとしたら、
それは自分がそれを条件に愛するかどうかを決めているだけなんだ。
自分を愛する=自分を許すということ
誰かの都合に合わない、誰かにとって気に食わない自分であっても、それでいい。
誰にも好かれない、愛されない自分をを許していい。
何かを愛することに他人に許可なんていらない。他人に許してもらえなくても、愛していいんだ。
他人からの愛を求めているのは、もしそれが不安や孤独感に対する恐れからくるものだったとしたら、それは多分が愛がほしいのではなくて、自分が自分を許さないその代わりに、その他人からの加護とか許しが欲しいんだ。
それを使って安心したいからだと思う。例えば親の愛を受けてこなかった、ということがコンプレックスで、それが自分の人生に暗い影を落としている人がいて、それで他人からの愛を求めていたのだとしたら、それは愛というよりも心理的安全を欲していたからだと思うのだ。
「自分は自分のままでもいいんだ」ということを、家族や身の回りの人に拒絶され、許されてこなかったから、それを許してもらいたくて、親や過去の人間たちから許されなかった代わりに、ほかの他人からの愛、許しを求めている。
でもそんな「許し」は他人からの愛で解けるものではなくて、自分で自分のことを許してあげるだけで解けるものなんだ。
他人が自分の思い通りにならなくていいんだ。他人を自分の思い通りにしなくてもいいんだ。他人が自分の思った通りに自分を許して、愛してくれなくたってそんなの全然関係ない。
自分が自分を許してあげればいい。
他人の愛は最初から感じ取れるものなんかでも、知ることができるものでもないのだから。
愛は愛するものであって、されるものではない。
自分が自分のことをどう思うのか、どうするのかということでしかない。
だから自分を許したいなら、愛したいなら、自分がそのまま素直に今の自分にすればいいだけだ。
他人という条件をすべて捨てて、他人を思い通りにしなきゃいけない、他人の思い通りにならなきゃならないという思い込みをすべてすてて、
ただ自分自身だけになって、そんな自分でいいと、自分を愛して、許してあげればいいんだ。
ありのままの自分を自分で愛そう
他人に愛されようとしてもそれはかなうことじゃない。もしその事実であってもそれを求めようものなら、きっとそれは苦しい人生になる
他人の都合に合わせて、他人に愛されるために生きる、他人に自分を愛するように支配しようとして生きる。自分に嘘をついて生きる、そんな人生になってしまう。
それじゃほとんどの瞬間の自分を嫌うということになってしまうわけだ。
そんなことをしても生きづらさにしかならない。自分に嘘をついて、自分を「愛されなきゃいけない」と脅迫して生きる毎日なんて、つらい毎日でしかないんだ。
自分に嘘を積み重ね続ければ続けるほど、自分の気持ちがわからなくなって、なぜ他人に好かれようしているのかもわからなくなって、徒歩いうもない悩みにくれることになってしまうこともあるかもしれない。
私はそうなってしまっていたことがあって、30年以上も苦しんでしまったから。そして気が付いたら、自分には何も好きだと思えるものなんてのこってなくて、何一つ愛する何かがない自分だけがそこにいたんだ。
愛すること言うことがどういうことなのか何も知らないってことに、30年も生きてやっと気づいたんだ。それをずっと知ろうとせずに、愛されることを求めて、許されて人と付き合うことを求め続けて、ただ待っていただけだったから。
その時の悲しさと言ったらなかったよ。どんなにそれが悲しかったか。どんなにむなしかったか。今までの良かれと思ってしてきたことが全部自分を苦しめていることでしかないことに気づいて、自分の人生が苦しみにあふれていて、ただ苦しんで幸せを感じてこなかった最悪の人生を歩んでいただけだったということに気づいたあの時。
多分人生で一番泣いたときだったと思う。
でもその時初めて自分で自分のことを悲しいって思えたのは、初めてだった。いつも悲しいフリをして、悲劇の主人公を演じることだけしかしてこなかったし。
自分のために感情を使って自分のことを初めて自分でいたわることができて、私にとっては初めての自分に対する愛だったから。
その時の気持ちは、今までに感じたことのない「暖かい」感じだった。悲しいはずなのに、どこかそれが気持ちがよくて、解放されたかのような気がして、安心したんだ。
他人のためではなくて、自分自身のために純粋に自分の感情を使って泣くなんて、初めての経験だった。
悲しい気持ちだったのに、その時自分は幸せだったんだ。
そうやってやっと気づけたってことに、自分自身の気持ちに、やっと自分は気づけたって。
それからいろいろ気づいてきてわかったのは、愛はもらうものでは決してなかったということ。自分が自分で感じることだったということ。
いくら他人から愛をもらおうとしたってそんなのもらえない。もらえるものじゃない。それでも好かれようとしても、他人は他人の勝手をやるだけ。もらえているように見える機会すら私の愛してほしいという気持ちは無視して、他人の匙加減一つで無慈悲にころころ変わる。
だからそんな現実にありもしない、ただ自分がそう見えるだけのことを求めて苦しまなくてもいいんだ。他人からの愛という永遠に満たされることのない条件をわざわざつけて、他人から愛を求めて、自分を苦しめなくていい
愛って、まずは自分のことを愛していないと、自分のことを許していないことできないことだから。
自分に素直でない限りは、本当に誰かのことを愛することなんてできないから。
自分を満たした上でないと、人とかかわっても満たされない自分のコンプレックスを他人に埋めてもらうために他人とかかわることになって、それは結局、愛されるために自分に嘘をつくことになってしまうだけだ。
だから今ある自分のことを自分で愛するんだ。
それを嘘くさいだとか、恥ずかしいだとか、後ろめたいだとか、おかしいとか思わなくていい。
そういう意識はきっと、他人からそれを許されてこなかったからできないと思い込んでいるだけだ。
「今の自分」
それを愛して、楽になってあげてください。
コメント失礼します。
最近たまたまこちらのサイトを拝見して少し記事を読ませて頂き、
Elepanさんの感性やおっしゃってる言葉が、今の僕の心境にだいぶ響きました。
ふいにコメントしたくなり書かせて頂いてます。
周りの人には共感して欲しいし、自分の頑張りや存在を認めてほしいという感覚は誰でも持っていると思いますが、それが行き過ぎると自縄自縛というか、
自分の行動も心も不自由になって来ると思います。
周りに好かれる人間になろう、周りとうまくやっていかなければと、
心理的に、
周りの人の方が立場が上で、いつもそこにお伺いを立ててから自分の行動を決めるという、
主体性を十分に持てない、ビクビクした状態で生きている状態になります。
でも究極のところ、
人は自分自身のことだけに興味があり(親の子供に対する愛情は別かもしれませんが)、他人のことはどうでもいいと考えているんだ、と今は思っています。
周りの人から冷たい扱いや言葉を受けるとへこんでしまうけど、
周りの人はずっと僕のことを頭に置いて生きているはずないし、数分後には僕の存在すら忘れてるかもしれません。
周りの人からの承認というそんな移り気な不安定な砂を土台にして、自分という家を建てようなんて無謀なことはしてはいけないんだろうなと思います。
記事の中にあった「与えることしかできない」というようなニュアンスは、心理学の本や心の本を少し拝読してる最近の僕にはしっくりきました。
他者から承認されてることを条件にして、自分を愛するという2段階を踏むのは、やはり脆弱なんだろうなと改めて感じました。
外見だったり能力だったりが良くって、他者からの具体的な承認を経ず、いきなり自分に愛を与えることが簡単にできる状態であればいいんですがね。
周りから御飯を食べさせてもらえなければ生きていけない弱い状態の幼少期に何か、わがままを通せずお伺いを立てなければならなかったような経験があると、
周りからの承認に過度にセンシティブな人間になってしまうのかなとも、本を読んだりして想像してます。
僕も周りの人からどう思われてるかがすごく気にしてしまう人間なので、この記事はとても興味深い内容でした。
なんかまとまりのない文章になりましたが、これも共感を求め承認を求めてるんだと思います。精神的に幼いからだと思います。
拙い文章で失礼しました。