なぜ人は自己愛やナルシストになってしまうのでしょうね?決して多くはないでしょうが、あながち少なくもないのではないかと思います。一説では自己評価が高すぎて、他人のそれとあまりにも乖離しているためにおこる、一種の人格障害ともいわれていますね。
そうなってしまった要因はきっといろいろでしょう。例えば異性にもてたいからとか、ちやほやされたいからとか。
要は誰かに褒められたい、認められたい。その思いから自己愛やナルシストになるんですよね。
つまり他人が自分に対してどう思っているのかということをすごく気にして生きているってことですね。そして気にするっていうのは、その気にしている何かを支配したいと思っていることの裏返しでもあったりします。
他人の気持ちを自分の思い通りにしたい。でもそれができなかったり、他人との軋轢を生む結果になったり、孤独を感じてしまってそのおかげで苦しんだりすることもある。そんな障害なんじゃないかと思います。
別に苦しもうとしてナルシストになっているわけでもないですものね。自分を豊かにしたくてそうしようとしたと思うのですよ。自分を磨いて、自分を美しく魅力的にすればそれで誰かが自分のことを愛してくれて、幸せにししてくれると思ってそうした、とかですね。
でも現実はそんな自分の思いとは裏腹になかなかに冷たかったというわけです。自分が思っているよりも他人は自分に興味をもってくれなくて、誰も自分を見てくれなかった、空回りしてしまってかえって恥をかいてしまった、とかですね。
でもそんな自分の気持ちを抑えられない、自分はかっこいいはず、かわいいはず、綺麗なはず。すごい人なはず、優秀なはず、だから私は他人から愛されるはずだ、という自分にこだわることをやめられず、例えばそれができていた過去の栄光にすがってしまう自分から抜け出せないなんてことも多分あるんじゃないかとも思います。
でもそれは一体なぜなんでしょうか。やめられない、すがってしまっているのだとして、なぜそうしてしまうのでしょう。
多分それは、自分が他人の気持ちをどうにか”できる”と思っているからなのかもしれません。
そしてそれは、ある種の強迫観念のようなところからもきていることかもしれない。やめられない、すがってしまうのは、相手を自分のものにしないと落ち着かない、支配していないと落ち着かない、他人の気を引けないと自分に価値が持てない、そのようにして他人を脅迫的に気にしてしまっている自分がいるためにものかもしれません
そしてその脅迫的な気持ちを達成するために、他人を自分の力でどうにかできる、自分の魅力や力で自分の思い通りに他人を支配できる、あるいはしなければならないと思い込んだのかもしれない。
他人のことを“自分の力”で認めさせて、他人に褒められることができると、そう思っているからなのかも。だから褒められそうなこと、好きになってくれそうなことをして「私ってすごいでしょ!、かっこいいでしょ、かわいいでしょ!」と求めてしまう、みたいな形とかですね。
でもそれって本当に自分に”できること”なんでしょうか?
それが実はただの思い込みだったとしたら?
目次
自分ができることって何?
自分ができること。
それは一体なんでしょうか?
異性にもてること?スポーツが得意なこと?勉強ができること?
仕事ができること?家事ができること?
いろいろな「自分ができると“思っている”こと」というのはあるのだと思います。それは人の数だけ、ユニークな形で存在しているでしょう。
でもその自分自身が思っている「できると”思っている”こと」は、本当に“できること”なんでしょうか。
例えばさっきの「仕事ができる自分」とか。結構この言葉ってアバウトなんですよね。
その仕事できるっていうのは一体何のことを指しているんだろう?なにができるから仕事ができる自分なんだろう?何が仕事ができる自分というものを成り立たせる根拠なんだろう?
この曖昧な「仕事ができる自分」だと”思っている何か”を、かみ砕いてバラバラにしていくと、その中にそうじゃないものが見つかることもあります。その中に自分の虚勢や妄想、“できるフリ”みたいなものが見つかることがあります。それが自分の虚栄心やナルシストな自分の心を成り立たせている要因だったりすることもあるんですよね。
仕事が”できる”って具体的に何?
例えばプログラマーの仕事をしていて、自分はその仕事ができると思っていたとしましょう。「私はできるプログラマーだ!」と思い込んでいる感じです。
では具体的にはプログラマーとして一体何が”できる”のか?それについて考えてみると、例えば自分はC#(数多くあるプログラミング言語のひとつの名前)ができる、ということがまず洗い出せたとします。
ではC#で何ができるのか?どんなコーディング手法を知っているのか?それを用いて具体的にどんなプログラムを”かける”のか、”かいたことがある”のか?どんな実績があるのか?ほかの言語ではどうなのか?アプリ系、汎用系、Web系、組み込み系のプログラムは組めるか?組んだことはあるか?
洗い出したものをさらに洗い出して突き詰めていくんですね。
そうするとC#でアプリ系はやったことがあるけど他の言語のものは組んだことがない、とか、その品質を担保するテスト手法自体にはあまり詳しくないとか、設計書を見ないと実はプログラムを書けない、とかいろんな細かいことがわかってきたりします。
そうやってかみ砕いて洗い出した実際にできること、事実たちが自分のできることってことになります。
自身のできることという”事実”の具体化をしていくと、自分が“思っているほど”実際にできることは多くなかったり、逆に思っていたよりも多くのことができていたことに気づくこともあります。
実際に自分ができることが何なのかを知っていけば、実際にできないことをできるといってしまうことも減らしていけるし、堅実なアピールもできるようになっていきます。
背伸びしている自分にも気づけるわけです。無理をして背伸びをしようとしている自分にも気付くことができます。
しかし”できる”という言葉には別の意味も
「できる」という言葉の意味には先ほどから言っている「仕事ができる自分」というように「優秀」だとか、「有能」だ、といった意味が含まれていることもあるますよね
できる社員、できるプログラマー、できる課長、できる部長…などなど
それは“何かができる”という何らかの「具体的事実」に対して向けられた言葉というよりももっと漠然とした、誰かから見て優秀であるというイメージの「評価」にあてられた言葉であることの方が強いんじゃないかと思います。
そしてこの「評価」っていうのが曲者で、実はこれ自分の「できる」という情報には含まれていない。自分が手に入れたものじゃないんですよね。
「いやいや、評価っていうのは自分の仕事の結果っていう具体的な自分の成果をもとに行うわけだから、それで優秀と評価されたんなら名実ともに優秀な人間でしょ?」と、思われるかもしれません。
でもその自身に下された他者の評価というのは、果たして”自分がどうにかできたこと”、だったんでしょうか。自分がその人の評価を得るために何かをしたことで、”直接どうにかして”、得たものだったんでしょうか?
「そりゃそうだろ」と思うかもしれません。他人が自分のしたことに対してある一定の評価を下した。それが優秀なら優秀というだけ。無能なら無能。他人が優秀というんだから、客観的評価をしたという証拠があるわけだから、それが何よりの証拠でしょ?と。
でもそれは少し違うんです。確かに他人が自分の能力に対して評価を下したのは事実なんですが、それがイコール自分自身そのもの、というわけではないからなんです。
評価は他人が他人の好き勝手にくだすもの
まずはじめに、評価というのは自分と同じ人間である他人がくだすもの。別に他人は神様ではないですよね。
例えば仕事での評価で、上司から君は優秀だ、あるいは無能だといわれたからといって、それでイコール自分は本質的に優秀、無能である、ということにはならないのです。
悪魔でその人にとって、あるいはその組織にとってというだけの話しにすぎません。結局は自分と同じ人間の個人的感想なのです。
そして評価はそもそも何のために行うのかと言ったら、査定のために行うものであり、それは大抵何らかの組織の中でその評価を用いてなんらかの調整を行うことが目的のものです。配置転換や給与査定などですね、そのための材料、資料というだけのことです。
さらにその評価は先ほども少し話した評価者の価値観に基づくものでしかありません。自分や評価者が在籍している組織特有の価値観や評価基準に基づくもので、どこもかしこの組織でもだれからも同じ評価をうける、というわけでもない。その組織で目標にしていることや、その評価者本人の能力、どんな仕事をしているのか、どんな文化か、風土か、その様態、要因によって、どんな人が優秀という評価をつけられるのか、その基準が違ってくるためです。
つまり、誰かに優秀だといわれようと、それが自分の能力そのものが優秀である、つまり自分は本質的に優秀でどこに行っても優秀であることは変わらない、などということを保証しはしないということなんですね。
それを自分自身の本質的評価だと錯覚しているのだとしたら、それはまさに「井の中の蛙大海を知らず」なのです。
完全にその環境たちに依存した基準で作られたものでしかないのです。全世界で通用する絶対的基準なんてのは、評価というものにないものなんです。
つまり「自分は仕事ができる」あるいは「自分は仕事ができない」というこの「できる、できない自分」イメージには思い込みがあるということなんです。その場では、その環境では、という補足説明がつくんです。
評価なんていうのは他人がどう思っているのか、どう評しているのかという領域の話しで、自分がどうこうできていることじゃないし、他人次第でバラバラであてにもなるものでいい加減なもの、ということなんですね。
他人の評価には干渉できない。
自分に対する他人のあらゆる気持ち、考え、評価というものに対して、自分のできることは実は全くない。干渉できるように見えるだけで、実際は一切干渉できていないんです。
他人にいくら自分が望んだ形で評価されたいと思っていても、その他人がどういう形で、どういう理由で評価するなんていうのはその人の考え方や価値観次第のもので、自分がそれに直接何かをすることはできないばかりか、その人の頭の中にしかないブラックボックスなので、それが一体何なのかわかることすらもない。
仮に狙ってうまく評価されたとしてもそれはたまたまであり、逆にされなかったのもたまたま。全く真逆の評価をされてもやはりそれもたまたま。
たまたまその人や組織の評価基準に自分が合ったり合わなかったりしただけの話しにすぎません。
偶然の一致にすぎず、自分の力でその他人や組織の評価を自分の思い通りにできた、なんてわけではない。
つまり人は他人に自分の力で自分を自分の基準と価値観で評価させる、なんてことはできてない。
他人の価値観や基準、心を支配する力なんか、干渉する力なんか人間には少しもないんですよ。
だから自分の力で他人の評価をどうにかなんてできてない、つまり自分の力で他人を評価させた、なんて言うのはただの思い込みなんです。
できてもせいぜい、相手の評価基準という要求を呑んでそれに自分を必死で合わせていこうとすることくらいが関の山。それでも、絶対に評価されるなんて保証はない。何処まで行ってもそれは他人の都合次第でしかないからです。
だから「自分は仕事ができる」といった評価は、自分の力で得た評価でも何でもないものなんです。たまたまそういう環境に自分がフィットして、たまたま優秀という評価を得た、その環境と自分との相性の問題というだけのことでしかないんですね。
評価された=自分の力じゃない
「君はできる、君は優秀だ。君は実にダメだな、なんでそんなに仕事ができないんだ。」
そんな評価はあくまで他人が勝手にくだすもので、他人の持ち物でしかありません。自分のものなんかじゃないし、自分の力でも何でもないわけです。
自分の持ち物じゃない。自分の財産でもない。自分がどうこうできることじゃない。たまたまそのように評価する人がいて、たまたまそうラベルを付けられた。というだけ。
仕事ができる自分、何かができる自分。その中に含まれている、優秀さというのは、自分の持ち物、財産じゃない。ただその環境の中でつけられたただのラベル。社員証とほぼ変わりありません。
その組織、会社、環境を離れてしまえば、そこにいるのはただの人なんです。そこに「できる自分」「できない自分」なんて虚構はなくなります。人はどこにも属していなければどんな人でも「ただの人」なんです。
本当に自分ができることを受け入れることで、ナルシストを捨てられる
かわいいとかかっこいいとか、美人、またはその逆の意味をもつ不細工だとかダサイといったラベルたちも、ある環境の中でつけられたただのラベルにすぎなくて、自分自身そのものなんかではないんです。
自分自身なんていうのは、そんなラベルを何一つつけていないただの人間である自分でしかありません。仕事ができる自分、すごい自分、かわいい自分、かっこいい自分、そんな自分は最初からどこにも”いない”。そんなラベルを捨て去った自分。それが本当の自分。それが本当に自分ができること。
自己愛やナルシストの心理には承認欲求がありますが、この承認欲求というのは、そんなラベルを欲しがっているだけの欲求にすぎないわけです。そんなラベルのために他人の都合につくして、他人の気持ちをどうこうしようとしている支配欲でしかないんですね。
できることから堅実に。堅実に生きた方がずっと楽だよ
今本当に自分ができること。何もラベルが張られていない自分。これまで自分がやってきた事実たちからもラベルの付いた思い込みたちを引きはがしてしまいましょう。そうすれば手堅い事実だけをベースにして自分を見据え、自分を図り、仕事の計画だってより正確にできる。取り繕わず、虚勢も張らず、自分を卑下することもなく誰かに自分をアピールすることもできるようになります。
無理に虚勢を張ってアピールをしても後で疲れてしまうだけです。無理をした自分をデフォルトで続けるなんてことはできません。
だからそれをやめたら他人からの評価を自分の人生の意味にしなくてもよくなって楽に生きられるようになるわけです。
他人から好かれる、愛される自分よりも、もっと自分自身のことを自分が好きになれば、人生は楽に、楽しくなっていくというわけですね。
他人の都合よりも自分の都合。他人の思惑よりも自分の都合です。自分を自分で好きになりましょう。
それができたらきっとナルシストや自己愛に頼らなくてもよくなるし、意識の高い自分を演じる理由もなくなるし、自虐的にもならなくてすむ。
ただ今自分がたっている足元をよくみて、一歩ずつ着実に、堅実に生きていくことができるようになる。
自分がたっている場所は絶対に変わることはない。どれだけ評価を受けても、どんな評価を受けても、それで自分自身がレベルアップしたりダウンしたりすることはない。
自分はどこまで行っても自分ですから。他人が自分のレベルを上げてくれやしないのです。
人間は最初から最後までただの人間でしかありません。担がれている色んな神輿は、全部自分じゃないんです。
もしどうしても神輿が欲しいのなら、他人ではなく自分で自分を担ぐくらいのものにしましょう。
だから誰かにとって素晴らしい、優れた自分なんか別にならなくてもいいんです。
だから堅実に素直に目の前のことに取り組んで生きていいのです。何かのための自分にならなくていい。
誰かに愛される自分になる必要はなかったのですよ。それは他人が勝手に行うものでしかないんですから。
自分で自分のことを好きになって、素直に生きていいんですよ。
もっと肩の力をぬいて、何も着飾っていない脱力した自分で生きた方がずっと幸せなんじゃないかと思います。
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