人生は期待した分だけ不幸になるようになっています。




期待っていうのは自分にとって何か都合のいいことが起きてくれないかな、という願望ですね。

都合がいいことが願うだけで起きてくれるのならそりゃハッピーなんだけど、実際の現実は全然そうできてない。

なのでその期待をより現実のものとするために努力したり義務を果たしたりして、なんとかそれをかなえられそうな状態にしようとしたりしますよね。

いい学校にいっていい会社にいっていい出会いを見つけていいパートナーと結婚して

…そしてそのために毎日勉強して塾いって友達とも遊ぶのはあきらめてゲームも全部あきらめてとにかく努力、我慢。

でも実際いくら努力をしても、それでも何でもかんでも思い通りになるようにできてなんかいないことは、成長していく中で自分なりに気づいていきますよね。

いい学校を入るにしても常に成績を上位キープしなければならないし、ライバルだっているわけだから簡単じゃない。そうなる人の数は限られている、いい会社に入ったとしても、それから先は出世競争。結婚してからはパートナーとの共同生活が続く。

それを何かを期待してずっと我慢だけで続けるのはただ過酷なだけです。

別に努力して無事義務を果たせばそれで何もかも全部おしまい、ゴール、その後は超楽なバラ色の人生が待っている、なんてこともない。現実はそんな自分の期待とは無慈悲に自分に何も与えず、知らぬ顔で流れていくだけ。

確かに経済的な豊かさや家庭など、得られるものはあります。でもその得られるものというのが自分が欲しているものではなく、すべて永遠に幸せにしてくれる何かを得るための手段でしかないものだとしたら、一体いつになったらその「永遠に自分を幸せにしてくれる何か」というのは手に入るんでしょうね。

多分そんなもの現実には存在していないのですよ。何かを達成してもまだ続きの現実が待っていることは変わらない。自分の人生は成功しようとしまいと、そんな自分のやったことなど知らぬ顔で現実がただ無意味に続くことは変わらないわけですから。

何かを期待して生きるってことは、そのために我慢をして与えられることを待ち続ける人生を生きるということでもあります。結果に執着し、自分に我慢を強いて苦しみ、そして報われなければそのただ我慢して苦しんだという履歴が残るだけという生き方でもあります。

そうなってしまうとずっと苦痛を感じる毎日を生きていた、不幸に生きていただけだった、ということしか残りません。仮に報われた瞬間があってもそれはいい会社は入れたときとか、結婚できたときっていう一瞬だけ

さらにこれまで自分の気持ちで生きることを放棄してきたから、そう生きることも難しくなってしまう。期待して生きると、自分で自分の人生を楽しむことができなくなり、どこかでそれに裏切られ絶望してしまうと、生きる気力もなくなって不幸のどん底に落ちてしまうこともあり、再起不能状態になってしまうこともあるのです。

自分の期待と現実は異なる。

そもそも自分の期待する何かに対して、現実が離れすぎてしまう、全くそうならないということはよくあることなのです。

やってみたけど思った通りに行かなかった。失敗してしまった。

自分の思った通りにうまくいかなかったり、そうならないことなんて、現実の世界じゃいつも当たり前におきています。一日の日常すらそんなことは無数に起きています。飲み物をこぼしてしまった、味付けを少し間違えた、冷凍食品を外に出しっぱなしにしていた、人によってその形は様々なですが、自分の思いに対してそれに裏切られているという機会は、その大小の違いあれど無数に存在しています。それを自分が無視して気づいていないかどうかの違いでしかありません。見つけようと思えば失敗の瞬間も成功の瞬間も、いくらでも見つかるものです。

失敗なしの人生なんて送ることは不可能。成功だらけの人生なんてありません。人は先のことなんかわからないんですから。だから予想はできても、それが的中することを保証することなんかできません。そうである以上、常に予想に反した結果、現実に直面することは必然で、それを自分がどうとらえるか、認知するかということでしかありません。

それでも結果に執着し、期待することをやめず、何かに期待する人生を生きれば生きるほど、それに対する執着が強ければ強いほど、そんな現実という結果を前に深く絶望するようになる自分が出来上がっていくだけなんです。

それはいづれ何もしてはいけない自分を作り上げてしまうことすらある。いわゆる引きこもりや、社会不適合。自分が何かをすることや行動することにすら自己否定感を感じ、本当に何もしたくなくなる、できなくなってしまう自分が出来上がってしまうこともある。

本当はなにかしたい気持ちが確かにあるんだけど、期待と現実との大きなギャップと絶望による強烈な自己否定感によって、自分の欲求に無意識に強い抑圧をかけてしまうために打ち消されてしまう。

「何もしたくなくなる」という気分の正体はこういうものなんじゃないでしょうかね。

そしてそれが程度の違いはあれど息苦しさという形で現れ、「生きづらい人生」が完成するわけです。

他人に期待する=他人を支配したい でも現実はできない

また期待する対象を他人にした場合は、他人を自分の思い通りにしようとする欲求をもっているということになり、つまり他人を支配しようとすることになります。

でも他人はそんな自分以外の誰かからの勝手な都合の押し付け、支配を嫌がるものです

自分には自分の都合があるように、他人には他人の都合があるから、誰かが何かを誰かに押し付けるたところでそれに反発するのはごく自然のことです。

つまり、自分が良かれと思って他人にしたことや、他人に尽くしてしたりすることで、それに対する見返りが得られると思い込むこと、つまり他人を自分が思い描いた通りに動いてくれるとを期待してしまうと、その期待の気持ち、支配欲が強ければ強いほど、その他人という現実に対して深い裏切りを受け、深く絶望することになります。

それで他人に対する不満や失望感がたまっていき、他人とかかわることが苦しいものになっていったりもします。やがて他人とかかわりたくなくなって引きこもりになってしまったり、人間不信になって精神病にもなったりします。

何かの期待に応えることしか欲求を向けられなくなる

何かに期待して生きていると、世の中の何かがすべて何かの期待を満たすために動いているのだ、という見方をしてしまうようにもなります。だから自分も何かの期待を満たすために動かなきゃいけないと思い込んで、それが普通なんだと思い込んでしまったりします。いわゆる社会的に認められる人間にこだわり、地位にこだわり、職業にこだわったりするのも、このような期待の心理があるためであることがあります。

自身の欲求が他人の都合を満たすことばかりになってしまい、自分のしたいことをもつことが感覚的にできなくなります。

もとうとしても、常に無意識に他人の期待を満たせそうかどうかという前提条件を満たしていなければならなくなり、それを無視しようとしても不安で、恐ろしくてたまらなくなりできなくなります。そして結局自分の好きなことをするために自分を正当化できる理由探しに躍起になり、

結果自分を守ることばかり時間を使って何も手が動かなくなっていってしまうのです。

期待する人生=我慢して苦しむ人生

つまり我慢を強いて生きてその見返りを期待して苦痛を感じながら何かを背負って生きるというのが、何かを期待する人生の正体、概略になります。

でもその見返りは何も保証されていないし約束されてもいない。かなっても一瞬で、あってないようなもの。

つまり幸せになろうとして何かに期待して生きているはずが、実際には我慢だらけの不幸な人生を自ら歩んでいるということになります。

だから幸せになりたいのなら、他人を切り離し、外を切り離し、自分自身だけでいいのだと自身という孤独を認め、他人や外の都合を巻き込んで自分の幸福とすることをやめることです。

そしてその自分だけの心になった上で何かをやってみる、誰かとかかわってみる。「自分で生きる人生」を生きればいいだけなんですね。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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