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成功は一瞬の出来事で、それで人生が始まったり終わったりはしない
成功したその瞬間はほんの一瞬ですよね。仕事がうまくできた。テストでいい点とれた。案件とれた。プロジェクトが成功に終わったなどなど。
そのような労力の結晶たちはいずれも一瞬の出来事。集大成。そこまでの大半の時間は、それを目指す過程でなりたっていて、ほとんどが途方もない労力で構成されてる。
成功したらそれで終わりってわけじゃないんですよね。何かに成功しても現実は続く。失敗しても人生は続く。
どんな形であれ次があるわけです。そしてその形自体、実は大して意味はないのですよ。というのも、結局また別の新しい目標を見つけたり作ったりして、また労力をそこにそそぐ、そんなサイクルを繰り返すことはどうあろうが変わることがないからです。
人生は最初から成功だらけでもありません。実際には小さな成功や小さな失敗を無意識に何度も細かく繰り返している。実際は結果ではなくただのある過程の繰り返しなんです。
だから結果そのものに価値があると思っているとしたら、それは単なる思い込みで、それに執着するあまりに息苦しさを感じているとしたら、それは結果にただ執着して苦しんでいる自分がいるというだけです。失敗したから終わりなんてことは事実としては存在せず、全部自分がそう決め込んでそう思い込んで苦しんでいるだけなんです。
人生は暇つぶしだとよく言われますが、まさにその通り、どんな結果になろうが、死なない限り結局人生は続く。ある結果がどうだろうと自分が最終的に死ぬことは寿命という人間のシステムによって決められていて、死のうとしているわけでもない限りある結果がそれに影響を及ぼしているわけでもありません。
いくら結果に執着して成功しようが、その反対に失敗して人生に絶望を感じようが、結局自分が最終的には死ぬという運命を免れることができるわけではなく、変わることはないのです。
それも自分が一体いつ死ぬかもわからないわけです。ひょっとしたら病気になって早死にするかもしれない。それがいつかは誰にも分らない。だから予期することもできないのです。
昨今のコロナ情勢の状況では、そんなにリアリティのない話でもないでしょう。
だから「成功したら救われる」「楽になれる」、だなんて考えていたらそれはただの幻想なんですよ。人生はただ続くだけです。終わるわけじゃない。
ただ無意味に現実は、自分のしていることに対してどこ吹く風で、ずっと自分が生きている限りにおいてただ無意味に動き続けることは変わることはありません。
そんな現実の中で結果に執着して苦しんで生きることは現実に逆らって自分を不幸にしているだけにすぎない。自分をせかし、焦らし、苦しめて、自分の人生を”楽しむことを失敗し続けること”を自分が選んでいるだけです。
自分のやることを見つけて何かをする。それが「生きる」ということ
試してみてうまくいかなかったり、うまくいったり。そんな小さな失敗と小さな成功を繰り返しながら、ゴールまで進み続けていく
人が起きている時間にしていることなんてそんな時間が大半です。それが人の人生だといってもいいでしょう。
人生なんてそんなものです。「苦労のない人生はない」といいますが、それの意味するところは「救われている人生なんてない」ということなのです。すべてがうまくいって輝いていて、守られていて、もう自分は何もしなくていい、何をしても成功する、何をしても気持ちいい、というような楽園のような人生はどこにも存在しないのです。
どこぞの御曹司や生まれつき富にあふれている人ですら、自分で自分のやることを見つけて行動することで自分を幸せにすることは変わりないでしょう。
彼らだって彼らの日常の中には彼らの中でのうまくいかないことや思い通りにいかないことがあるからです。人の幸せは結局のところただの主観ですから、完全に本人次第なのです。
幸せは相対的なものという見方もありますが、それは単に他人と比べて自分を幸せだと感じようとする、他人軸の考え方でとらえた幸せの話です。
事実としてお金があるからといってそれで未来を思い通りにできる力はもてるわけではないですし、他人を何もかも自分の思い通りにすることもできません。それを「全部お金でどうにかできる」と思い込んで生きようとしたら、その人生はいくらお金があっても足りず、不幸にしかならないでしょう。
先の事はわからないのはお金があろうとなかろうと、何かビジネスで成功しようと失敗しようとずっと変わりませんし、自分の思い通りにならない他人なんて星の数ほどいます。お金を欲しがる人だけならできるかもしれませんが、それに興味のない人は全く無理です。それにお金を欲しがる人ですら、四六時中自分の言うことを聞いてくれるかどうかは怪しい。なぜなら彼らがお金を欲しいのは、自分の欲しいものが別にあるわけですから、そんな自分の支配欲になんか興味がなんてないのです。
どんな人間も他人を支配することなんてできやしません。他人の行動はある程度はできても、他人の心までは誰も支配できない。自分の心の面倒は自分しか見ることができないのは、どんな人間でも変わることはないのです。
そうである以上、自分が本当にできることなんていうのは、他人を支配することでも他人に支配されることでも、都合の良い結果をまつことでもなく、
ただ目の前の現実を生きて、何かをすることくらいしか始めからないわけです。
失敗しても続きがある。終わりではない。
何かをしていることが人間の生活です。そんな中で失敗とは、単に自分の思った通りに事が運ばなかったという事実のほかにも、次はもっと何かをすることをよくしようと考えたり、別のことを考えて取り組むという「次のやることを考える機会」を作っているという風にもとらえることができます。
失敗するからこそそれをもっとよくしようと別の試みを考えて試す。成功するまで、それを続けることができる。それが続けられないなら、新しいことを考えてまた別の何かを始めて取り組むだけ。
失敗っていうのはそれで「終わり」じゃない。常に続きがあります。
現実は終わらないからです。それを終わりだ、もう自分は死んだも同然だと思うのは、単にそう決めつけて自分を追い詰めて、終わりなんだと自分が自分に言い聞かせているだけです。
自分が成功させたい、やり遂げたいという気持ちを持ち続ける限りにおいて、そこには必ず次の一手が存在します。次に自分がやりたい何かが存在するということです。
それが人生の面白いところ、人が何かを面白いと思うことのエッセンスでもあります。
例えば漫画のストーリーだってそうでしょう。ライバルが現れて、そのライバルに勝つまであの手この手をつかって試行錯誤したり鍛錬をして自分を磨いたり。そのライバルに負けても、次は絶対勝ってやると闘志をあらわにし、さらなる鍛錬を積み重ねて新しいことを始めたりしますよね。そういう物語に引き込まれて、続きが読みたくてたまらなくなる。終わってほしいとは思うことなんてなくて、続きがどうなるんだろうって追いかけたくなってきますよね。
ゲームだってそうでしょう。最初はなかなかおもしろく遊べなくても遊んでいると慣れてきて楽しくなってきて、夢中になって遊んでいたら、最終的にゲームクリアできる。でもクリアしちゃったら終わってしまうではないですか?それっていやですよね。まだ終わってほしくない、続きが欲しい。だから「DLC」という追加ゲームコンテンツも当たり前に存在するわけです。みなもっとそのゲームを楽しみたいからですね。面白いゲームは本当は終わってほしくないんだから、できればずっと続いてほしいとすら思うこともあります
その「過程そのもの」なんですよ。人生なんていうのは。
何かを追っているのが漫画の面白さ。そのクリアまでの遊んでいる過程を楽しむのがゲームの面白さ。その過程がもし一瞬で終わってしまったら、漫画やゲームなんて何も面白くありません。
それと同じです。
何かを続け、試行錯誤を繰り返し続けて次の一手をやり続けて人生を展開させていくこと、続きを作ってやり続けていくことに人生の面白さっていうのは存在しているのです。
そこを楽しむのが人生という暇つぶしを謳歌するポイントの全てなんですよ。
結果は一種のターニングポイント、分岐点、目印というだけ。それ自体に価値があるわけじゃないんです
人生はただの暇つぶし。そして失敗はその暇つぶしの延長。もちろん寿命が延びるという意味ではないですが。
やることを作ってそれに挑戦して、失敗したらもっと良くしたいと別の手段や方法を考えて取り組む。そんな暇つぶしが延長されただけ
つまり人生を楽しむためにある何かをする時間が長くなっただけの話しです。悲しいことでも絶望でもなんでもありません。
「しんどい」と思い始めたらそれは自分が人生を楽しもうとしなくなったサインかも
失敗が億劫になったり何かに挑戦することが怖くなって生きづらくなってしまったら、それはひょっとしたら自分の人生の価値観の見直しが必要な時期が来た、ということなのかもしれません。失敗も成功も大して意味はないし、何らかの結果や何かにすがれないことが終わりでも何でもないのにそれがまるでこの世の終わりのように怖くて絶望を感じているとしたら、それに対して歪んだ思い込みを自分が持っている可能性があるからです。
仕事がつまらない、つらい。こんな人生もういやだ。
でもなぜなんだろう?なぜそう思うんだろう?
それは自分が「やりたくない」と思って無理やりやっていることだからなのかもしれない。
だとしたら自分はやりたくないと思っているにもかかわらずなんで仕事を続けているんだろうと考えてみる
生活のため?家族を養うため?
それは自分のしたいこと?生活のために我慢してお金をかせぐことが?家族を養うことは本当に自分のしたいこと?
「しなきゃいけない」とおもっていることじゃなくて?
「そうする”べき”だ」なんて義務で考えていることなんかじゃなくて?
もし「しなきゃいけないこと」「すべきことだから」というだけの形で、そこに自分がしたい気持ちが少しもない形で思い込んでいる何かだったら、それは本当は自分はやりたいことではないということになります。何らかの結果に執着し、その結果を得るため、もらうために義務を果たそうとしていて、そのために自分にやりたくないことを強いている自分がいるということです。
それは世間体や他人の目、他人に嫌われたくないといった、何かを支配したい気持ち、支配されたいという気持ち、何かを義務を果たすことでコントロールしたいという自身の歪んだ思い込みが原因であるかもしれません。
でも人間にはそんな力はありません。結果をコントロールする力はないのです。
仕事や家族でさえもその思いによってのみで関わっているとしたら、それらは自分にとってただの重荷にしかなっていないということになります。自分がしたくて、関わりたくて関わっているものではないものたちになるわけです。
そんな風に義務として背負って、自分に無理強いしないとやる理由がないものたちなんですよ。外的な理由や建前なしにはやる理由がなくて、自分だけの純粋な意思では、少しもやる意味を感じていないのです。
それを認めるのは「なんて無責任なんだ」と感じて怖いかもしれないし、強烈な拒絶感もあるのかもしれない。そうそう簡単にできることではないかもしれないけれど、
それでも人間、そんな義務なんてものを前にしても、自分の気持ちや心に嘘はつけないものです。
自分の心に聞いてみてください。自分はこれをやりたくてやっているのかどうか。
自分が「しなきゃ」と感じて無理やり自分を動かして苦しんで生きている自分が今いるんだったら、
本当はそれから解放されたいって気持ちが自分の中にあるんだったら、
それが何よりの証拠です。
人生の見直し
「やらなきゃいけないこと」「すべき」っていうのをいったん自分の人生から切り離す時期がきた、ということなのかもしれません。
その苦しみから自分を解放したいのなら、勇気をもって全てのやらなきゃをやめてみるんです。
仕事も家族も。
いったん全部放棄して、義務という重荷を背負っていない空っぽな自分になるんですよ。その空っぽな自分こそが、本来の自分なわけですから。
多分実際にそうするのは、決断するだけでも相当に怖いことだと感じるかもしれません。実行すればお金はなくなっていくし、家族からも別れを切り出されるかもしれない。
でも、そうしてでも自分の中から「しなきゃいけない」という義務の思考を捨てると、そんなことはもうどうでもよくなっていくんじゃないかと思います。
これは私の実体験ですが、私はそんな義務の思考を完全に欲求や気持ちからすべて捨てるために、いったん会社をやめて無職になったことがあります。
期間にして1年半くらいかな。独り暮らしでお金の援助もないから(親は頼りたくないし関わりたくなかった)それはそれで最初はすごく不安を感じました。税金の支払いもあるし、何より自分のその状態がいつ治るのかわからなかったから、不安でしょうがなかったんですよね。
でも日々「自分で決めて何かする」という生活に自分をならしていくことでいろんなことに気づいたんです。誰かに自分の人生を決めてもらって保証されて生きようとするより先行きなんか誰にも何にも保証されずに、自分で決めて自分で行動する人生の方がずっと楽で面白かったし、何よりもとても楽だということに。
何かに執着して生きることってこんなにしんどいことだったんだな、と自分で体感できたときは、なんて自分はばかだったんだろう、思いあがっていたんだろうと思いました。コントロールできると思い込んでいたわけですからね。自分にそんなことができる素養があるなんて本気で思っていたわけですから。
もし何かあっても大丈夫だって思えるようになりました。結局その「何かあっても」であっても、結局それに対して自分が何かをするという個とは変わることはないからです。
結果にこだわっても自分は何れは死ぬということは変わらないですし、救われるなんてことも結局はない。だったら自分を縛っている重荷になっている思い込みたちをすべてすてて、楽に生きることを選んだ方が人生は楽しくて楽だ、ということに気づいたんですよね。
生きづらさは現実への拒絶から、歪みから。
「誰かに何とかしてもらうために義務を果たすため自分を強いる」をやめて単に「自分で勝手に好きに思い込んで行動してなんとかする」に変わると、生きづらさから解放されて行きます。
他人次第にしてしまうと、自分がコントロールできないことが増えてしまうからかえって不満の要因が増えてしまうだけです。
それを捨てたら楽になるのは、ごく自然の話しです。
そうして得られる安心感は、かつて義務を果たすことでずっと誰かからもらおうとしていた安心感や自信です。この「勝手に思い込む」というのがポイントで、これを拒絶し、ダメなことだと思い込んでいるからこそ、他人の目が気になり、他人の考えが気になり、自分で何かを決めることができなくなってしまう要因なんですよね。
義務を果たすのではなく捨てて自分の意識の勝手を許すことで安心感は手に入るわけです。それも義務を果たした一瞬限りとは比べることのできない、自分が死ぬまで永遠にそれを感じることができます。
それを受け入れてみると、「自分がしたいこと」ということが何なのかもわかってきます。「しなきゃいけない」「されたい」を捨てると、手元に残るのは自分の何かしたいという欲求、気持ちだけになるからです。
したいこと自体は別に何でもいいんですよ。「自分が勝手にそう決めてそう取り組む」だけで完結することですから。
それだけで自分の意志で何かを頑張ろう、やってみよう。やり遂げようという気持ちがわいてくる。その気持ちで人生を再スタートさせて、今度は自分が自分の意志で幸せな人生を生きようとすることができるようなっていきます。
その繰り返しが自分の人生を生きる、ということなんですよね。
人生なんていうのは、結局のところこれだけのことでしかありません。しかしこれだけのことで人間は簡単に幸せや安心感を感じて寿命を全うできるわけです。
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