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その前提の違いで人生観は大きく変わってきます
他人と自分は違う。もしそれを、ごく普通のこととして思っているとしたら、それは幸せに人生を生きやすい認知特性を持っているということだと思います。
というのも、人と自分に同じものを求めなければ求めないほど、人生は豊かになっていく傾向があるからです。
信用の違い
他人と自分が全く違うと思う人は自分と他人が違うということが前提あるから、他人と話す時自分の考えを話すことがごく自然になります。話をしないと、その人の考えや価値観が全くわからず、信用することができないからです。
他人はすべて自分にとって未知の存在という前提になるからなんですね。
誰に対しても無条件に相手を信用することはないということです。それは別に他人に何か不信感や不安が常にあるというのではなく、単に前提として最初から他人を信用している状態がない、ということです。
だから自分のことを話したり、相手の話を聞いて相手のやりたいことや目的を言葉を通じて知ろうとします。そこで初めて自分の中に相手に対する信用が生まれるんです。
自分が誰を信用していて、誰を信用していないのか。その自意識が明確にもなり、他人の都合は入り込まない。他人と自分との境界線で曖昧な部分がない。だからすっきり行動できるし、迷いもなくなります。
一方他人と自分が同じだと思う場合は、他人と自分が同じであるという前提があるので、話をしなくても信用100%の状態です。日本人である私たちの多くはありがちな感じですね。
どんな人でも信用してしまう。いや、信用しなきゃいけない、尽くさなきゃいけないとすら思いこんでしまってもいるというか。誰に対しても礼儀正しくあろうとしたり、とにかく相手は悪い人ではないという前提=いい人であるという前提があって、それをベースにして他人をみてしまうんですよね。
だから、「まさかこんな風には考えてないだろう」とか「みんな自分と同じでこう考えているはずだ」と自分と同じものを他人に常に思い込んで、その上で勝手に信用、期待してしまったりもします。
だから会話もしないんじゃないかと思います。する必要がないから。
すでに自分と同じ価値観、考え方であると知っていると思い込んでいるからですね。
自分と違うことに対する免疫力の強さ
自分と他人が同じであるという前提の人にとっては、自分と違う他人の存在が許せなくなったり、怖いと思うようになることもあります。
他人と違うことを言ったりすることが恐ろしいことになったり、違うことがありえてはいけないことだと思い込んだりもします。
結果自分の価値観や言葉を交わすことが事実上のタブーになってしまうこともあります。自分だけが思っていると感じていることを話すことがいけないだと感じてしまうからです。話すだけなく、考えたりイメージしたりすることすら、罪の意識を感じたりすることすらもあるかもしれません。
それで常に自分に我慢を強いたり他人を自分の思い通りに支配しようとしたりすることもあります。時には脅迫的に、ヒステリックに他人に迫り、同化を計ろうとすることもあります。
加点方式 or 減点方式
他人と自分が違う前提の場合、最初に他人に対して持っている信用は基本的にはゼロの状態です。(マイナスではないことに注意。例えるならその辺の石ころに対する感覚。)。
そこからコミュニケーションや付き合いを重ねていくことで、その人の信用したいところを自分でみつけていくことになるため、加点方式になっていく傾向になります。
もちろん相手が敵意を持っていたり、攻撃的であるということがわかって信用できないと減点することもありますが、口述の他人と同じだと思い込んでいる人よりも信用のハードルは低くて済み、それに対する執着もほとんどないため関係をたつこともドライに気軽にでき、それほどストレスにはならないでしょう。
一方、他人と自分が同じ前提の場合、「他人は皆信用できて当然、常識的で当然、普通で当然、優しくて当然、いいひとで当然」と100点の当然で思い込んでいる無意識があって、他人を実際に見るときにそれに合っているかどうかという減点方式になる傾向があります。
また、自分の価値観や考え方をもっていないので、普通や常識といった外の概念を担保にして信用できるかどうかを見ようとします。結果そこには自分の価値観、自分の意志が全く反映されません。
自分の意思なのか他人の意思なのか、世間の意志なのか、何か外にある概念の意思なのか。その中で自意識が不明瞭になっていきます。自分が何が好きなのかわからなくなったり、何のために生きているのかわからなくなったりします。
加点は基本的には存在しません。最初から基準が100点だからです。あるいは加点のためのハードルがめちゃくちゃ高い。
最初から他人に自分と全く同じ、つまり100%を求めているという前提があるから、見るところがそれと違うところ、つまり信用できないマイナスのところがあるかないかでしか見ないんですよね。
加点されるケースはそんな自分の100%の想定から大きく外れ、かつ自分にとってプラスだった時のサプライズであり、そのために相当の労力が必要である場合が多いんじゃないかと思います。(例:過剰サービス
さらに「信用できるはず」の思い込みの条件から外れると、信用できると思ったのに「裏切られた」、みたいな認知の仕方をしたりします。自分の思う価値観をこの世の普通、常識だと思い込んでいるので、社会悪や人としておかしな何かとしてみたりもします。その価値観に対する執着の意識は強く、他人に対してヒステリーを起こしやすくなります。
自分が勝手に書けた期待を満たさなかった人を「薄情者だ、なんでお前みたいなやつがいるんだ、おかしいだろ」と激しく糾弾したりすることもあります。
他人と自分が違うと思っている人でもこう思うことはあるかもしれませんが、その感覚の強烈さは他人と自分は同じだと思う人に比べれば大したものではないでしょう。
他人と自分が同じであるということへの執着が、他者に対する依存や支配欲となって現れるわけです。
「同じ」か「違う」かで行動も180度変わってきます。
他人に対する期待と執着
他人と自分が違う前提であれば他人に期待することはほぼなくなります。全員が違うなら、自分の都合を相手にただ押し付けても理解されるわけがないですし、それにこたえてもらう義理もありませんし、その必要もないのです。
自分のことは自分で何とかすることが基本という意識がありますから、そもそもその必要すらありません。むしろそんな風に考える人からは距離を置こうとします。
親しき仲にも礼儀ありで、たとえ信用できる人であっても自分と他人が違うという前提は変わることはないでしょう。だから他人を信用はしても自分の思い通りにしたいといった期待はしません。
しかし他人と自分が同じ前提である場合、他人全員に対して信用度100%の期待をすることになります。他人が自分にこうしたらこう返してくれるだろう、とかひととしてこうあるべきだとか、こうするのは当然だ、ということを他人に押し付けて考えることが普通なので、多くの場合でそうでない現実の他人に対して裏切りにあうことになります。
実際の現実の人間は皆バラバラです。自分と同じ人間なんてこの世に存在しないんです。
よく聞く話で「海外に日本人が行くとだまされる、詐欺にあいやすい、その標的にされやすい」という話は多分このような認知歪みにあるところがあるんじゃないかと思います。
他人と自分が同じである、同じであるはずであるという強烈な思い込みが、他人と自分は実際には違う、信用できる人間かどうかはわからないのだという事実を拒絶してしまうがために、誰に対しても信用度100%をかえることができず、結果常に日本人からは簡単に信用を得てだますことが容易にできる現状が変わらないからだなんじゃないかと思います。
それに過剰なサービス精神、義務の意識から「他人には誰に対しても親切であらなければならない、いいひとにみられたい」といった欲求も強いので、ますますこれが難しくなるのです。
「同じ日本人として~」なんて発想もそうなんじゃないかと思います。同じ国の人間であるというだけで自分と同じ価値観をもっている、自分と同じだと思い込んでいて、その同じ人間が世界に誇らしいことをしたから自分も誇らしい。世界に迷惑をかけたから自分も申し訳ないと思ったりします。
実際には自分と何一つ関係がないただの他人の話しでしかないのですが。
孤独を恐れるかどうか
自分と他人が違うということは、この世に自分と同じ人間は誰一人いないということを受け入れているということでもあると思います。
多分これを最初からできている人にとっては、自分を孤独だとすら思ってもいないでしょう。最初から前提として自分のことを完全にわかってくれている理解者がいるとか、自分と同族の他人がいるという概念がないため、ストレスもなく常に一人で何かをやったり立ち向かうことができます。
例え自分に中指をたてる1億人を前に演説をするにしてもなんら抵抗なくできてしまうでしょう。
一方で他人と自分が同じであるということは、この世に自分と違う人間がいてはいけないと思っているということになります。また、自分のことを好きでいてくれる人、孤独にさせない人を求めていることも多く、他者依存的です。
だから自分と違う人間が許せなくなったり他人と違う人間になることが怖くなってしまうため、自分の都合で生きることができず、人前では委縮してしまったり、逆に威圧感を出して相手を屈服させて、恐怖を間際らそうともしたりします。
常に周りの目を気にしたり、周りを自分の思い通りに支配していないと気が済まず、なれ合いでしか人と付き合うことができないし、欲求不満がたまりやすくなってしまいます。
そのために常に自分と同じだと思う他人を用意できないと不安でたまらなくなってしまうんです。
不自由な人生 or 自由な人生
つまりまとめると、他人と自分が同じだと思えばそれだけ自分の人生の可動域は狭くなり、逆に違うと思えば、その可動域は広がるってことになります。後者の方がずっと自由であり、自分を自分の自由意思でフルに使っていくため、欲求不満がたまりづらくなっていきます。
他人と同じであることを望むほど不自由になり、自分の行動は制限され、不満が募りやすくなるんです。
たったこれだけの違い。たったこれだけの前提の違いで、そこから派生する自身の意識や思考、行動、自信の程度は根本からすべて変わってしまうんです。
だから逆に言えばここを変えるだけでも絶大な効果が出てくるということ。
であれば後は自分がどう生きたいか。それを天平にかけて、どちらの在り方で生きるかを選ぶだけです。
自由な人生を選びたいとしたら、他人と違うことを受け入れ、孤独な自分の現実を受け入れましょう
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