なぜ人は孤独を怖いと思うのだろう
なぜ孤独はダメなこと、寂しいもの、みじめなものというようにとらえられているんだろうか。
それは多分きっと、周りが孤独でない人ばかりで、自分だけが孤独であると感じたという経験からだったりとか、
テレビや何かの創作物で孤独であることを悪とするような情報を見聞きしたからだとか、実際に自分が孤独になった時に実際にそうだと感じるようになったとか、いろんな事情、経験からくるものからなんだと思う
それはおそらく人によってさまざまなんだろうけど、自分が自分の頭で経験してそう孤独を解釈したって事実がある以上、それって結局全部タダの思い込みで、孤独はさみしいものだと世界で決まっていることということでもないと思う。
孤独という状況を、たまたま苦しいと思う状況の中で味わったからこそ、孤独が怖いものだと感じるようになっただけであって、
孤独という状況を、何かから解放された状況とか、何かに集中できる状況を作ってくれたというような前向きな機械で出会えたなら、きっと孤独に対する認識っていうのは全然違うものになっていたと思う。
そう言う私はというと、孤独に対する認知は恐怖で、それは自分の感覚だけど相当な恐怖を感じていた。
独りになることが怖くて怖くて、それで承認欲求おばけになっていたくらいだ。
そんな自分では日常生活すら送れないようになって、追い詰められた私はそんな自分を変えるために、自分の承認欲求と向き合ってそれを捨てる道を選んだのだけど、
その中で孤独というものに対する自らの偏見、思い込みに気づいたんだ。
目次
それは他人の期待に答えられない無価値な自分という自己否定感だったんだ
本来独りっていうのは、自分だけの時間なわけだからリラックスしていられる時間のはずなんだ。
自分のしたいことをすることができるし、煩わしい人間関係もないわけだから、そこに悩みがあるというのはおかしい。悩みなんてのは大抵人間関係が起因で発生しているもので、その人間が周りにいない状態が独りなわけだから、悩みなんてその時点ではないはずなんだ。
そんな状態で悩みを作っているということは、それは独りである自分を否定しているからで、他人に愛されていない自分、好かれていない自分、
自分を大事に思ってくれる他人がいない自分はみじめな存在である、という他人を使って孤独という悩みを作っていただけだったんだ。
孤独感の正体はそんな、自分が誰にも必要とされていないということが悲しいことなんだ、みじめなことなんだという、他人なしでは自分を肯定できない奴隷の思い込みだった。
孤独感=承認欲求の禁断症状
自分を愛してくれる人がいない。その孤独感は、自分にある種の禁断症状を作り上げていた。
それは他人の愛がほしくてたまらない。自分をほめてくれる人、慕ってくれる人が欲しくてたまらない。そんな承認欲求の飢餓状態だった。
だから他人に評価されることを求め続ける人生になっていた
だから私は常に自分は「すごい自分」でなければならない。誰かにとって素晴らしい自分でなければならない。好かれる自分でなければならないと思い込んで、そうなることを自分の行動動機にしていたんだ。
誰かに常に認められるため、誰かに勝ち続け、優れ、負けなしの自分を演じきれなければならない。
誰かに評され、誰かにとって価値がある自分であり続けなければならない
常に注目を浴び、必要とされる自分でなければ自分には価値がない。ダメなんだと。それが普通のことなんだと本気で思い込んで疑わなかった。
だから”そこ”ばかり見てしまう。他人の目ばかりを気にしてしまう。他人からの評価ばかりを気にしてしまう。
自分自身を全く見ていない。自分自身だけの自分を全く感じようとせず、拒絶してしまう。1人何かしたりすることができず、そわそわしてしまい、何かを落ち着いて気持ちよく行うことができない。自分を自分で心地よくすることができない
それで自分の「やりたい」って気持ちが否定され、全部「されたい」って気持ちに書き変わってしまい、自分のすることがされたいことを得るための手段に代わってしまっていたんだ。
自分のすることはすべて他人の都合を満たす何かでなければならない。
だから自分の好きなことがもてない。持とうとしてもすぐにされたいことを得るための手段に置き換わって続かない。その間はずっと苦痛を感じ続けることになるから、他人の承認がすぐ得られるものでないと、簡単に投げ出してしまうんだ。
だから愛したいじゃなくて愛されたいになる。
だから好きになりたいじゃなくて好きになってもらいたいになる。
だからやりたいじゃなくてやってもらいたいになる。
だから勝ちたいじゃなくて、勝たなきゃいけないになる
みんな受け身になってしまうその正体。それはそんな自らの自己否定の思い込みが全ての原因だった。
孤独自体が苦しいことなんかじゃなかった
孤独感というのは、孤独自体の問題なんかじゃなかった。
他人を使った自己否定。およびその感覚。それがその正体。
他人の期待を満たさなければ自分はダメな存在なんだ、他人に注目されていなければ自分には生きている意味がないのだという漠然とした思い込み、自己否定感だったんだ
誰からも必要される必要なんてなかった
むしろそれを受け入れて自分を解放することが、自分を他人の都合から自由にすることだったんだ。
そうすると、ようやく自分のしたいことができるようになった。続くようになった。
仕事にも趣味にも打ち込めるようになったんだ。
集中力の欠如、一つのことに集中することがずっと苦手だった私の根本原因は、そんな自分の思い込みから来ていたものだったということが分かった。
孤独であることを否定しなくてよかった
むしろそれが自分自身という存在の全てですらあった。
他人に必要とされていないとかされているとか、そんな意識を全く使わないで、自分のしたいことをして、自分が決めたことをして生活していると、そんなことは全く気にならなくなる。
孤独かどうかなんて気にしている暇もないし、その必要もない。
孤独であるというのは自分を客観的にみると見えてくる姿であって、主観の自分の光景からは見えないものだったんだ
そして自分の世界とはひたすら主観でしかなく、その世界には自分という人格しかいない。
だからそんなこと気にする必要すらなかった。むしろ気にしてないとダメなことだと思い込むからそれが悩みとなり、自分を苦しめているだけ。
悩みなんて言うのは、別にする必要のないことだった。それが必要だと思っていること自体が歪みで、人間関係に起因するものであるなら、それは承認欲求が根源でそこからくるコンプレックスにすぎない。
つまり孤独に対する孤独感という自己否定感は承認欲求なんだ。
それだけのこと。自分自身だけでいいことを知っていれば、そんなことを納谷m必要もなくなって、健やかに毎日を生きられるんだ。
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