DaiGoさんの発言から思う、いじめのトラウマの正体




先日のDaiGoさんの件ですが、DaiGoさんっていじめられた過去をお持ちだったようで。で思ったのですけど、今回のDaiGoさんの問題発言とされる「「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽い。だからホームレスの命はどうでもいい。言っちゃ悪いけど、どちらかというホームレスっていない方がよくない?正直。 邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん」というのは、なんだかそんないじめのトラウマみたいなものからくる発言だったんじゃないか、とそう発言した彼の気持ちの部分に共感を感じたのです。一種の強がりだったりするんじゃないかなぁ、と思うのですよ。

それを受けて今回は、いじめのトラウマの正体について書いてみたいと思います。

いじめられると他人を敵視するようになる

いじめられたことがある人って、多分他人を多かれ少なかれ敵視するようになると思うんですよね。自分を見直したり、そんな自意識に自分で気づかない限りは、多分そんな認知を引きずって生きることになります。

それで他人が怖くなって、そんな他人という強敵に対して自分は強くならなきゃとか、成功して見返してやるんだ!って思ったり、逆にもう他人が怖くてたまらないから二度と会いたくないと引きこもりになってしまったりとか。

で、仮にそンな人が人生の中である大きな成功を収めたりすると、「おらおら、どうだみたか!」と自分をいじめてきた人たちに見せつけたくなる、ということもあるかもしれないなぁと。

ただこの”いじめてきた人”っていうのは、実際に自分をいじめてきた人というよりも、そんな自分を助けなかった無関心な人とか、その他大勢の関係のない他人に対しても向けられると思うのですよね。いじめのトラウマって、いじめてくる本人たちが怖いというのもあるんですがそんな彼らを遠巻きに眺めているだけなの他人たちも含んでのものであることもあって、みんなから仲間外れにされたという風に感じて、結果他人全員が敵という認知が作られたりすることもあるんじゃないかと思うんですよ。

それで漠然と無意識に、他者全般に対する意識が敵になる。

そんな自分を助けなかった他人に仕返しをしているような心理があったりするんじゃないかと思うのですね。それで人間関係を誰も助けちゃくれない、強くなる以外に生きていくことはできないと弱肉強食という世界観で見るようになって、その証明のために他人を見下し他人を屈服したいと思ったり、優生思想的な価値観も作り出してしまうこともあるんじゃないかと。そのような認知特性があったために、社会的弱者といった、例えば今回のケースのホームレスの人たちにその”矛先”がちらっとむいて、あのような発言がでてしまったということなのではないかとも思います。

ひょっとしたらDaiGoさん自身、そんな過去のトラウマがあって苦しんでいるのかもしれません。

(とはいえこれ全部私個人の完全な推測です。なので勝手にあれこれあることないこと想像したことをここに書いてしまったことを謝ります(__)。申し訳ありません。)

いじめは恐怖に裏打ちされた支配欲が元

いじめというのは、自分よりも弱そうな人に向ける屈服したいという欲望、支配欲が元だと思うのです。そしてその支配欲は、やはり他人に対する恐怖からきているわけで。

他人を自分の制御下においていないと、いつ自分に危害を加えてくるかわからないから、常に圧倒、屈服したくなる。自分は他人よりも弱いというコンプレックスや、他人が自分に攻撃を仕掛けてくる敵であるという認知がやはり根幹にあって、それで自分よりも弱いスケープゴートを用意、探してきて自身の危機を回避しようとしたり。

何にせよ、いじめは本当によくないですよ。このようにそれを受けたその人の主観の世界観の構築に大きくかかわりますから。いじめる本人はもちろんですが、そんないじめをやってしまう人を作り出す他の環境的要因もだと思います。

というか、いじめる人も多分どこかでいじめにあっていると思うのですよ。いじめを行う子どもは自身の親からいじめられていたりすることもありますしね。親に支配的な教育をうけて、暴力を受けて、存在を否定されたり邪魔者扱いされたり。そんな環境の中ですごすことで他者に攻撃的になるいじめっ子の世界観が作られて、それを学校のクラスメイトで自分より弱そうに見える人に向けて…

まさに負の悪循環です。

実は筆者の私は…

さてこんなことを書いている私ですが、実は私がそうだったんです。そうだったというのは、私も少し前までは相当にひねくれた性格をしていて、他人を妬んだり、自分に危害を加えてくる恐ろしい敵だと思い込んでいて、そんな他人を圧倒し屈服するために見下していて、割と最近までは他人に期待して甘えている人をどこか見下している自分が確かにいたのですよ。

このブログって他人に対する甘えを捨てて楽になろうってテーマなのですが、そうしない人が私にとっては敵のように見えていたわけです。

自分がかつてその甘えのために苦しんでいて、人生を台無しにしてしまったから、そんな弱い自分が嫌いだったということもあります。甘えを持っている人をみると、「なんでそんな風に生きてるんだろう。苦しいだけなのに」と思いつつ、無意識的にどこか下に見るような意識もありました。

でもそんな風に人や自分を見るのは間違っていたと気づいた。甘えているという思考はあくまで思考形態で「形」でしかなく、それ自体が「善」でも「悪」でもない。甘えがあろうがなかろうが、そこに上も下も善も悪もありません。

そもそも善悪自体がただの虚構で、人間が勝手に作った概念にすぎません。それを私が決められるわけでもない。だって私はただの人間だもの。

にもかかわらず悪扱いしたら、私は永遠に過去の自分、「甘えを持っていたころの悪い人間だった自分」という過去を引きずって、甘えを捨てた善い人間にならない限りその苦痛から解放されなくなってしまう。それに、甘えている人間は悪だとしてしまったら、そうしている人たちは全員生きていてはいけないと思っているようなもの。そんな権利を私が有しているわけもないし、法律にもそんなものは当然ないわけで。

そんなジレンマの中でもがいていました。でもそれは、善悪を手放してすべてをフラットにみてしまえば、どうでもよくなりました。ただそんな自分の歪みを自分で見つけて自分で認めるのにも、これまたたくさんの時間と迷いと苦痛をありました。

思えば私はいじめられっ子だったんですよね。親からもクラスメイトからも、職場の先輩からもいじめられて、他人を恐ろしいものだと思うようになって、承認欲求お化けになって、人生苦しんだ。その中で他人に対する恐れ、他人を敵視するそんな世界がうまれてその中で生きてきてしまった。

そんな歪んだ認知が、甘えをもって生きている人を見下し、「あんなふうになっちゃいけない」と半ば侮蔑のまなざしを向けるような意識を作っていたんです。

私はいつのまにか「いじめる側の心」をもっていたわけです。他人に向けるその視線は侮蔑と嫉妬と妬みが入り交じる苦痛にまみれたものでした。それを私は随分と長い間「是」としていて、もし誰かからそれはおかしいといわれても、きっとヒステリーを起こして怒りちらすだけだったでしょう。

そんな自分の認知を捨てて変えるというのは、そんな自分の弱い部分、触れたくない部分に自分で触れて向き合う必要があったわけです。それはとてもつらかったし、かといってどうすればいいかも完全に手探り状態でした。被害者側の自分が、実はいじめる側に回っているなんて事実を認めるのは、自分が被害者になることができなくなることを受け入れること、そして自分のそんな心に向き合い、改めることでしたから、それは多くの恐怖と苦痛を感じるものになりました。

でもそれがようやくできた今の私は、私が本当にこのブログを通して何を伝えたかったのが何だったのかがはっきりしています。

他人に期待して何かをするという甘えの思考形態が、自らに却って精神的苦痛を作り出している可能性がある。だからそれをやめてみれば楽になるかもしれない、ということだけです。

たったそれだけのことなんですね。甘え自体が悪いことでもいいことでも何でもない。ただの形。ただそれを捨てたら他人に期待しなくてもよくなって、人生が楽になって生きやすくなるかもしれない。それをこのブログ全体を通して伝えたかった。

だから今はその形で伝えるように、またブログを全体的に見直しをしています。ほぼ連日更新しているのはそのためです。

さてちょっと前置きが長くなってしまいましたが、ひょっとしたらDaiGoさんは、自分が本当に伝えたいことと自分のコンプレックスが混在している状態だったりするのではないかなと私自身は勝手に想像します。本当は幸せに生きるにはどうすればいいのかを伝えたい。でも心の底には自分のコンプレックスが残留していて、どうしても発言にマウントや毒が混ざる。

そんな感じだったりするのかもしれません。

いじめられ、いじめる側にもなっていた私が思ういじめの心理

そんな私の経験をふまえて私が思う「いじめをするその心理」というのは、他人に支配されるかされないかという世界観をその主観に持っているかどうかだと思います。やるかやられるか、自分が生きている社会、人間関係を他人に食われるか食うかというそんな弱肉強食の世界であるとしてとらえてしまっているかどうかが鍵なのではないかと。

他人が敵なら、他人からされることは皆自分に対する攻撃として映っていることになります。だから他人がどう接してこようと、常にその他人の腹の底で考えていそうなことをどうしても知りたがってしまったりします。他人に常に気を使い、他人の目を気にし、他人を常に疑い、常に他人を警戒して関係を作る。他人に対して常に防衛反応が発生する。

いじめのトラウマっていうのはそれを経て構築した、他人を敵視する世界観だと思うのです。そしてそのような人が何らかの力を手に入れると、今度は自分が支配する側になろうとしてしまって、いじめる側になってしまうこともある。

だから「いじめはひどいことだからやめなよ」「そんな言い方しなくていいじゃない」といわれてもそれに素直に聞く耳を持つことができないし、心から謝ることもできなくなってしまう。自分から見れば、新たな宣戦布告か否定的意見、自分に対する攻撃としてしかとらえることができませんから、ますますヒートアップするだけなんですよね。自分を守らなきゃいけないって必死になってしまうんです。

自分を強く見せようとイキッたりする心も、他人のことを恐れて承認欲求にとらわれる心も、きっとそこにあるんじゃないかと思うです。

他人は敵じゃないよ

となればこれを乗り越えるには、そんな支配の世界観を捨て、その世界から自分を自由にすること、なのではないかと思うわけです。実際私自身はそうして自分を楽にできました。

誰のことも支配しなくていい。誰からも支配されなくていい。誰かに勝たなくていいし、誰かに負けても、どちらでも、なんでもいいんです。他人を支配したり、他人に支配されたりする必要もなく、何かに勝っても負けても、なんでもいい。

誰かの承認もなく、何かを証明する必要もない。他人に認められるためにがんばらなくていいし、なにも無理しなくていいんだと。

警戒を解いていいんだと。もう他人や社会に対して、その身構えることをやめて、楽になっていいんだって。

自分はただ、今の自分でいていいのだと。気楽に、安心して、周りに敵がいるともう感じなくていいんだ、って自分に許すことなんじゃないか、と思うのですよね。  

それが過去のいじめられたというトラウマに対する乗り越え方じゃないだろうかと思うのです。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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