努力できないのはダメなことなんかじゃありません。




努力してこなかったから、できないから自分はダメ?

努力できなければダメ人間なのでしょうか。サボってきたから自分はもう生きていてはいけない人間なのでしょうか。

そう誰かから言われて、あるいは世の中でそう言われているからという理由でそう思ってしまっているとしたら、それは間違いです。そんなことはありません。

他人にそれを決めることはできませんから。世の中でそう決まっている真実なんかでも当然ない。

自分で自分をそう思うのならそうなのでしょうが、それを他人や外の何かに言われたからそうだと思い込む必要はどこにもないのです。

そもそもただの勝手な決めつけ

努力してないとか、頑張ってないというのは、そもそも何をもっていっていることなのでしょうか?

明確な基準はあるのでしょうか?どこまで苦労すれば頑張ったことになるのか、何をすれば頑張ったことになるのか。

学生の頃に勉強していい成績をとることでしょうか?仕事でいい成績を残し、評価されることでしょうか。

結果ありきで頑張りが決まるなら、何も結果が出ずに頑張ったことは、頑張ったことではない、ということになってしまうのですが、本当にそうなのでしょうか?何もしていなかったということになるのでしょうか?

そもそもどれだけの労力をかければ頑張ったことになるのでしょうか?特定の何か、例えば社会や誰かが推奨するものに対して労力をかけたときにしか、頑張ったことにはならないのでしょうか?

努力は人に認められるためにしかしてはいけないのでしょうか?

このように、頑張った頑張ってない、努力している努力していない、なんていうのはかなりあいまいです。明確な基準が存在せず、人によってその基準がバラバラ、

つまり、それぞれの個人の裁量、主観に基づく基準でしかない、いい加減なものでしかありません。

そんな個人的なものにすぎないものを自分に言うのならまだしも他人に対して言うのは単なる決めつけにすぎません。それも自分の都合に合うことをその人がしているかどうかという、人を半ば奴隷か何かのように見ている発想ですらあるのです。

そもそも努力自体、実は他人からすればどうでもいいこと

人にとって他人に求めるものがあるとしたら、それは努力ではなく「何ができるか」でしかありません。「努力できない人はダメ人間」という人もいますが、彼らだって他人に欲しているのは努力している、努力家であるかどうかという事実じゃありません。その人で自分は何ができるかでしかありません。

例えば”ある人”と遊びたいと思っている人が、その”ある人”が努力している人かどうかなんて気にしませんよね。自分の遊びたい形でそのある人が付き合ってくれるのか、似たような趣味をもっているのかといった、自分が遊びたいという目的の中で使うことが出来るかどうかしか考えてません。

他にも例えば会社の面接では実際に何ができるかを詳しく聞かれますよね。それだけ実質的なスキルによって会社の利益を出す人かどうかを見極めたいからです。「努力できる」というポテンシャルをもっているということからのということもありますが、それもやはり「ある何かをできるようになる素養がある」ということを見越してのことであって、努力そのもの自体は別にどうでもいいのです。

努力=結果に結びつく、というのは思い込みが多く伴います。その中でもその結果の一つとして「他人に認められること」を結果目標にしてしまっている場合は、非常に多くの思い込みが伴うでしょう。

自分がいくら努力をしても、それによって自分ができるようになったこと、あるいはできるようになるかもしれないことが、その他人が欲する何かにたまたま一致していなければその他人にとってはどうでもいいことです。自分がどれだけ努力しようと、その人にとって都合のいい何かでなければ別にどうでもいいのです。

例えば絵を描いていて、とても精巧なリアルな絵を描くことが出来た。でもそれを求めていない他人からすれば別にどうでもいいことです。アニメ絵の方が好きという人もいますし、自分の努力で他人の趣向を変えることはできません。

さらに、その他人が欲している何かを人は真に知ることはできませんし、どうにかすることもできない。他人の頭の中をのぞくことができる能力を人はもっていないからです。

だから基本的には常にあてずっぽうであり、もし一致してもそれはただの偶然の一致でしかありません。

自分の努力の量と、それによって得られる他人から与えられるものは何も関係がないんですよ。ただの偶然の一致。何らかの相関関係や比例関係があるようで実はないんですよね。

自分が努力しようがしまいが、他人は勝手に他人の都合で時にこちらの何かに興味を持ち、関わり、使うだけの話しです。そんな自分のできることと他人が求めることが合うのは、そんな中でたまたま発生した偶然の一致にすぎないんです。

偶然の一致にすぎないものに、たまたま回りにいる他人のそれと合わなかったというだけの話しなのにそれを「自分は誰にも求められないダメなやつなんだ」と卑下する材料にする必要なんかないのです。

努力する≠報われる

努力を報われるためだけにやってもただ苦しいだけになりがちです。

というのは、大抵の「報われるために何かをする」という考え方は自分を犠牲にして無理やり苦役を自分に強い、その見返りを誰かから与えてもらおうとする発想からきているものだから。誰かから自分の労役に見合う褒美をもらうために嫌なことを続けるということになるから、そりゃ苦しいにきまっているわけです。

でも他人は、そんな自分の内的事情や他人にかけている期待の気持ちなど知りませんし、どうでもいいのです。他人は自分が何かを欲して何かをしているのと同じように、他人も他人自身の利益を考えて行動しているだけに過ぎないからです。

他人のために努力しなくていいんです

例えばもし自分が我慢しながら会社で仕事をしていたとして、上司は「実は自分がいつも我慢して仕事をしている」という自分の内に秘めた思いを勝手に汲んで、その報われたいという期待に応える形で褒美を用意する、などということはありません。

むしろ上司は、上司の目標、欲求を達成するために自分を使うだけにすぎません。

別にこれは悪いことでも何でもない、ただの自然の摂理です。人に限らず生物というのは常に身の回りにある何かを使って自分の目的を達成します。

お腹がすければ何かを食べますよね。身の回りにある他の生物を使って、つまり植物やほかの生物の肉を食らって、食欲を満たします。別にその食糧元の期待に応えているわけではないでしょう。むしろ殺して命を奪っているわけですから。

手元のスマホでSNSを利用したり動画を見たりするのも、自分が楽しみたかったり、何か知りたいことがあるから利用するのであって、誰かの期待を満たすためなんかじゃないですよね。

人間はその時の身の回りにあるものを使って、その時に自分がしたいこと、実現したいことをするために何かを使ったり、何かを作ったりしているだけです。

人間関係なんて言うのは、突き詰めるとこの「使う、使われる」しかやっていません。上司も部下もそれぞれの役割の中で互いを使いあっている。そこに、報いとか救いというような、まるで神からの慈悲があたえられるというような概念はありません。

故に「努力すればいつかは報われるのだから、今は我慢してやれ」という他人の言い分は、随分いい加減なものか独善的なものであるわけです。

一体どこの誰にどういう形でいつ報われるのでしょうか?それを知っているのでしょうか?保証できるのでしょうか?

努力を他人に強いること、努力を人間の義務だとか社会人の義務であるとか捉えて、必ずしなければならないものだとして他人に押し付ける人が、その義務に対して褒美が必ず用意されるのだ、ということを保証しているわけじゃありませんし、できもしません。むしろ実際のところでは、その人の個人的な願望である「報われたい」という思いを胸に、「そうであるに違いないんだ」と、ただそうだと信じたいという願望をこちらにぶつけてきているだけにすぎません。あるいは自分と同じ価値観を持つ人を増やし、安心したいだけでしょう。みんなで努力すれば、みんなで嫌なことをすれば怖くない。もし失敗してもみんなで地獄に落ちれば怖くない、そんな考え方なんじゃないでしょうか。

いくら努力したからといって報われるかどうかは誰にもわかりませんし、一切コントロールもできません。そもそもその報われるという形すら個人ごとに違うのですから、自分のそれを知らない他人がそれを用意して保証するなんてことはできやしません。

そもそも努力という行為をしなければならないと法律で決まっているわけでもないのですから、しなきゃダメなことととらえること自体がおかしいのです。

努力するかしないか。何に対して努力するのか。そういうものを他人に決められる必要はないですし、強いられる必要もありませんし、ましてや「努力できない人間はクズ」だなんて言われても、その人が勝手にそう持っているだけのことを本気でとらえることはないのです。

彼らに生脱与奪の権利もなく、法的機関でもない、またそんな能力もありません。みなただの人間に過ぎない。神様ではないただの人間です。

努力は自分の意志でできるものです。それも嫌なことではなく、好きなことに対してできます。

むしろ報われるためでなく、与えられるためでもなく、自分の何かをしたい、手に入れたい何かという目的のために努力してこそ、努力は人生を豊かにする貴重な経験や自身の在り方になります。

大事なのは、自分が何をしたいかだけ

努力なんて言うのは、自分の好きなことを作って、それに夢中になっているだけでいいのです。

誰かや何かが求めることではなく、自分がやりたいことを見つけて夢中になる。それが自分のための努力です。

誰かに認めてもらうためにする必要なんかない。「頑張ってるアピール」も、「無理をしているアピール」も、他人や社会に向けたあらゆるポーズなんていりません。他人に努力しない奴はクズだといわれたから努力するなんて必要ももちろんない。

そんな外野なんか気にせず自分がしたいことをやっていいのですよ。

そしてそれに夢中になってみるんです。そうすると、もう努力がどうだの周りがどうだのどうでもよくなります。

他人の言い分よりも自分の気持ち、欲求。それがいかに大事で、すべてか。それが感じられます。その感覚でなら人はどこまでも自分が望む限りいくことができる。それは人に言われて無理やり努力を強いるよりもずっと遠く、深く、かつ誰も言ったことのないような場所まで行くことが出来るかもしれません。

そういって夢中になってし続けていると、勝手に他人がそれを努力している、頑張っている人であるかのように見てきたりするものです。

プログラミングが大好きで自宅でもサーバー組んでプログラムがりがり書いてます、なんていうと、「家で勉強してるなんて努力家だなぁ」なんて言われたりすることがあります。大抵の人は家でプログラムを描いたりはしないものだから、そう見えるわけです。でも当人は、ただ楽しくてやっているだけ、もっと良くしたいという自分の純粋な欲求から夢中でやっているだけのことで、それを努力とすら思っていない。

そんないい加減なものです。他人の評価なんていうのは。自分はそんなつもりはなくても、他人はそんな自分の感じていることや考えていることを一切知らず、印象論でそう決めつけていってくるものなんです。

だから自分の人生を自分が好きなように楽しんでいいのですよ。その形が他人にとってどうだろうと別に何でもいいですし、他人は勝手にその人の印象でものをみるだけにすぎません。

なにより努力ができないと自分を嘆いていても何も始まりませんし、何も進んで生きません。でも自分が好きなことをして夢中になっていれば手や頭、足が動きます。

努力を我慢を強いてやることではなく、自分で決めて夢中になることという風に捉えていけば、きっと努力も楽しんですることが出来るようになります。

努力≠我慢、努力=夢中になる に変えていきましょう。

単的にいえば、頑張る必要はなく、我慢もしなくてよく、ただ楽しみたいものを好きに楽しんでいい、ということですね。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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