当ブログへようこそ
このブログでは私自身が陥っていた承認欲求お化けの状態から、誰かに頼らなくても一人でどうにか脱出するまでに気づいてきたこと、直してきたことなどのもろもろの記事を書いております。
人に相談しよう話そうといわれても人が怖くて頼ることも難しい、そんな風に困っている方の役に立てればと思い書いています。
目次
このサイトでの承認欲求の定義についての共有
承認欲求という言葉の定義は人によってさまざまであると思います。というのは言葉の解釈は人によって違い、そもそも同じかどうかを真に証明することもできないからです。その詳細については下記記事にもまとめていますのでご興味があればどうぞ。
言葉の解釈が違い、それを合わせることもできない以上、当サイトでは管理人の承認欲求の解釈、定義をもとにして書かれた記事であることを前提としています。
とはいえ、解釈は違っていたとしても、全く役に立たないという事を意味しはしません。
言葉の解釈は人次第であるということは、それをどう受け取ってどう感じ、結果何かの役に立てるか、役に立たないのかという反応も違うという事になるので、人によっては他人が書いた言葉であっても役に立つ可能性があるからです。
つまり、私の解釈におそらく近しいものを感じる人であれば役に立つ可能性があるという事です。私のような承認欲求をいいものだと思い込んで生きた結果、失敗続きだったその経験がそんな誰かの助けになればということで、ここではその前提について共有したいことを述べていきます。
承認欲求によって生じる’不利益’について
承認欲求を抱えているうえで感じる様々な障害について箇条書きで記してみます。
・他人の目がきになり、嫌な気持ちになる。不安な気持ちになる
・自分に価値が感じられない。他人といつも比べてしまってそれがとても嫌な気持ちになる。
・他人なんて信じられない。一人がいい。他人が怖い
・他人が怖すぎて精神障害や肉体的苦痛を感じるレベルで苦しんでいる
・なのにさみしい。誰か自分を愛してほしい。守ってほしい。助けてほしい。
・いつも人に褒められたいと思っている。褒められないと不安でしょうがなくなり、そんな自分が嫌でたまらない。
・他人が怖いのに他人に守ってほしい、という欲求があり、自己矛盾の中で葛藤し八方塞がりでどうしようもなくなっている
という感じです。
承認欲求のメカニズムについて
続いて承認欲求を用いて、どのような思考の流れがあるのか。プロセス、順路、メカニズムを箇条書きで説明してみます。
1. 常に他人に見られている、監視されている、あるいは何なのかはよくわからないが得体のしれない漠然とした不安感がある。
・気が付くと周りと比較している自分がおり、大抵は自分を戒めており不安感、焦燥感が常態化している。
2. 1.からの義務感、正義感、劣等感、羞恥心などの感覚があり、それが主な衝動、動機となって行動する。
・不安が引金となって行動している。受け身的。この時も1.の意識は常にあり、そのおかげで集中することが難しかったり、続かなかったりする。
3. 2.で他人にほめられるとあらゆる2.の感覚から解放されて安心感を得る。
・褒められるまでは一切安心できず、期待と不安が織り交ざったような感情で苦しくなる。褒められないと無気力になったり、さらに否定されてすらしまうと強いショックを感じてふさぎ込んだり寝込んでしまったり、それでも無理をしてしまって結果体を壊したり、最悪精神疾患になってしまったりする
4. 安心感を得てもしかししばらくするとまた不安感がもどってきて、1から繰り返し
という感じになります。
管理人の承認欲求の話
承認欲求を抱えて苦しんできたある人間の検体標本として、管理人の人生について書いてみます。
私の承認欲求はあらゆる生活上の無意識に潜んでいた様々な要因で成り立っていた根深く複雑なもので、人とのかかわりをはじめとして普段道を歩いたり仕事をしたり道を歩いたり食事をしたり、そんな些細な日常生活の行動すらまで影響を与えているようなものでした。
常に他人に見られている感覚が無意識的に常にあって、観られている自分という第三者目線の自分が常に頭の中にあり、誰にも見られていないことは頭ではわかっていても体感的には常に監視されている感覚があり、それを止めることもできずずっと緊張感を感じ続ける日々が日常のものでした。
何をするにも他人の存在の実在の有無にかかわらず常に他人の目をうかがっている自分がおり、気楽に何かに取り組んだり夢中になった瞬間はあまり多くありませんでした。
この一連の異様な癖は物心つく頃から学生時代、社会人を通してずっとあり、そして会社でのいじめがきっかけでこの癖から様々な不安や恐怖が強烈なものになってしまってうつ病、パニック障害、不安障害を患うことになり、常に肩や背中にかけてまるで内側から引き攣られているかのようなとても我慢できない激しい神経痛に悩まされるようになりました。
常に痛みにさらされ続け思考することすらもままならない生き地獄みたいな毎日を送っていました。それから10年の時間をかけて自身を解放していきました。
さらに詳しい話はこちらに書いてますのでよろしければどうぞ↓
以上、当サイトの承認欲求についての共有でした。該当、共感されることがおありであれば当サイトの記事が役にたてるかと思います。自身の承認欲求について悩んでいて楽になりたい、解決したい、自由になりたいという方にはお勧めしたいです。
逆に承認欲求をいいものだと思っていたり前向きに考える方にはあまりおすすめできる内容ではないかなと思います。
あとがき:承認欲求がない世界は信じられないほど気持ちがいい
承認欲求を捨てることで、ずいぶんと生きやすくなりました。
見栄も張らなくていいですし、他人の目をうかがって何かをする必要もない。というか、それしかできなったんですが、承認欲求を捨てるとこれ以外のことが簡単にできるようになります。人前で絵を描いたりとか昔は抵抗感がすごくてできなかったんですが、今なら電車だろうとカフェだろうと公園だろうと全然気になりません。
自由っていうのは他人の都合に応えなくていい自分を持つことで得られるようです。
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承認欲求を抱えて生きていくのかどうかは自由です。どんな人生であっても何も間違っていません。
ただそれは逆説的に言えば正しくもないってことになります。
間違ってもいないし正しくもない。じゃぁ「どう生きればいいんだ?」と思うのも無理はないと思います。
私はそんな方に承認欲求に向き合って捨てていくことをお勧めしたいです。承認欲求を捨てると、正解か間違い化を気にする必要もなく、自分で生きていくことができるようにもなります。
中々たのしいですよ。
同じように悩まれている方も。ちょっとずつ楽に自由に。楽しく生きられるようになってみませんか?
すごくいい記事でした。僕はもう60近いですが、共感することが多いです。