承認欲求は、なくせるものだということ





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鬱、生き方関連の記事は以下の考え方を基本として書かれています。もしご興味あればどうぞ!

→承認欲求は捨てられるもの

2022/04~現在、再度全体的に記事の見直しを行っています。修正したものから順次最新更新日で更新していきますのでお楽しみに(?)

 

当ブログへようこそ!このブログでは私自身が陥っていた承認欲求お化けの状態から解放し、「心の自由」を誰かに頼る必要もなく手に入れるためにやってきたこと、気づいてきた記事を書いております。承認欲求まみれだった私の人生については下記記事にまとめていますのでご興味あればどうぞ!

承認欲求は本能ではなかった

私の承認欲求は様々な要因で成り立っていた根深く複雑なもので、人とのかかわりだけでなく日常生活の些細な行動すらまでとどくようなものであったと思います。

常に他人に見られている自分というのが意識にこべりついていて、監視されている緊張感が日常でした。

そのような癖をともなったまま社会人になり、いじめがきっかけでうつ病になってしまい、合わせてパニック障害、不安障害を患い肩や背中にかけてまるで内側からうっ血し内側から上に引き攣られているかのような我慢できない激しい神経痛に悩まされるようになりました。

常に痛みにさらされ続け思考もままならない生き地獄みたいな毎日を送っていたわけなのですが、ある日アドラー心理学に出会い、自分の自意識について哲学的な思考を用いながら過去の思い込みたちを捨てるための取り組みをはじめました。

そして約5年の歳月を重ねてその末、ついに自分を苦しめてきた多くの思い込みたちを捨てて解消することができました。なので承認欲求は本能ではなかったと自信を持って言えます。

長年染みついた世の中や社会、他人に対する恐怖。それが承認欲求の正体でした。

承認欲求で感じていたのは快感ではなく他人に許されることで不安から解放されたという安心感でしかなかった。他人を恐怖対象にして自分を追い詰めたきつけ、鞭でたたかれて無理やり何かをする褒められることによってその恐怖を解消することで安心したときに感じていた快感。それが承認欲求のメカニズムでしたね。

日常生活での私の行動の根源にあったのは他者恐怖。その感情から派生した様々な思い込みたちや習慣、価値観でした。

義務の意識、上下の人間関係、普通、常識といった外的に定義されている正義や正しさと思い込んでいた自分を制限し否定するルール、みんながいいというものに価値がありそれ以外には全く価値がないと思い込んでいる権威主義的な世界観、自分は誰かにとって価値がある存在でなければならない、みんな仲良くなければならず、自分がそれをどうにかしなければならないというメシアコンプレックスといったものたちは皆他者恐怖由来のものでした。

そしてその思い込みが作り上げられたのは幼少期、親からの支配的教育でした。他者に対する警戒の意識、身構える感覚を感じて生きる世界観を自身に作り上げそれによって作り出された恐怖と義務の意識によって抗えない感覚で求めてしまっていたものでした。

承認欲求がない世界は信じられないほど気持ちがいい

承認欲求は捨てれば捨てるほど、心も体も身軽で心地よくなり、とても楽観的に毎日を夢中で生きられるようになりました。見栄も張らなくていいですし、何も気にしなくていい。他人のことなんて何も考えなくていい、何も背負う必要のなく他人の都合で無理をする必要もまったくない、すっきりとした世界です。自分中心でひたすら何かに夢中になって生きることができるのですごく自由に人生を楽しめます。

自己中は本当に悪?

「他人のことを考えない」っていうとすごく自己中な響きがすると思うんですが、まぁ実際的に自己中なのは間違いないです。自分の世界に夢中ですから当たり前です。ただ巷で言われている自己中とは全然違うとも思っています。

言われている自己中っていうのは他人を自分のわがままで巻き込んで振り回すことだったり、邪魔をすることだと思うんですよ。明確に他人を自分の都合で使おうとする意志があると思います。それを完全に押し付ける形で。相手の要求も都合も聞かず「とにかくやれや」の一点張りな感じで権力でも何でも使って無理やりやらせるみたいな。

でもこっちの自己中はそもそも他人を自分の思い通りにする意思もなければ邪魔する意図も全くないんですよね。

だから他人でイライラすることもないんですよ。他人はわからず思い通りにはできないことが前提にあるので。それをどうにかしようとするためにイライラしようとすることを選択しないわけです。焦ったりイライラして他人をコントロールしようとする目的があるかないかという点が全然違う

同じ自己中でも全然違うんですよ。

自由に自分を肯定できる

以前は漠然と自由って選択肢の多さや自由に使える時間をたくさんもっていることだ、と思っていました。何でも手に入れられて、なんでもできて、なんでも楽しめること。でもそうじゃなかったんですよね。

そうじゃなかったというか、自己肯定感ですから、感覚の問題なんですよ。自由に自分を肯定して感じてよかった。選択肢の多さとか時間の多さに依存しなくてよかった。今自分を自分で気軽に肯定できたんですよね。

どんなに選択肢が多かろうが結局選ぶのは常に一つですし、何でもかんでも手を出してすべて完璧にできるというわけでもない。実際は一つずつしか取り組めませんし時間は限られていますから程度だって限られてます。

仮に時間がたくさんあっても自分でやりたいと思う事がなかったら何もすることがなくただただ暇で苦痛の日々を送るだけ。他人にしばかれて、焚きつけられてでもないと何もする気が起きない。そんなふうに外的要因に動機を頼っていたら時間なんてただの宝の持ち腐れなんです。これは過去に1年ニート生活をやってみて何もやろうと思えることがない自分を死ぬほど味わって実感したことです。

人生の意味なんて全部嘘っぱちで必要なかった。

なぜ人生に意味が必要なのか、人によってさまざまだと思いますが、要は自分の人生を肯定する理由が欲しいというだけの話しですよね。なぜ肯定できる理由が欲しいのかといえばそれで安心したいからなんじゃないかと思います。

私は当時「自分の人生には価値がある」と思ってました。だから自分は周りから認められるし愛されると。みんなに認めてもらう何かになることで「これで全部大丈夫だ」と思い込んで安心したい、そんな欲求がありました。

でもどんな人生を生きようが、人生を正当化することなんてできるわけがないんですよね。どれだけ資産を持っていようと、どれだけの地位にいようと、どれだけ賢かろうと、どんな能力を持っていようと、どのような思想をもっていようと、どれだけつつましくしていようと、どれだけ普通にしていようと、どれだけ他人に言い顔をしていようと、必死に被害者であることを訴えようとすべての人から認められたり好かれることなんてない。

何を言おうが何をしていようが自分を気に食わないと思う誰かはどこかにいる。どんな金持ちでも嫉妬する人はいますし、恨みを持つ人すらいる。貧乏な人やいわゆる頭が悪い人やホームレスを見下す人もいるし、夢を追う人や普通に生きる人を見下す人もそれぞれにいるものです。

どんなに自分が不幸な目やつらい目にあってきてもどんなに何かに虐げられてきても、他人にからすればそんなの関係ない、どうでもいい。無関心。他人が関心があるのはみなそれぞれの自身の関心事で、自分の過去でも苦しみでもお気持ちでもなんでもない。

だから自分の生まれや境遇で自分の行為を正当化しようとしても例えば犯罪を犯せば罪として扱われるように、まるで関係がないんですよね、当然の話ですが。傍若無人なふるまいをすれば人は離れていきますし、その被害にあった人からすればそんなことは何も関係がないわけで、道理で考えても通用するわけもないわけで。

そもそもただの自分の感情とか感覚、欲求の問題でしかないんですよね。ただ楽になりたい、安心したいだけ。そんなこじんまりとした自分自身の心の問題です。そんな些細なものに他人を巻き込んで考えて複雑にしている。わざわざ全ての人に自分の人生を大勢の他人に認めさせようとするような壮大な条件を課して制限していただけでした。

与えられたいだけ

要はこれだけだったと思います。そんな複雑な自身の思考はすべてそのため。与えられたい。その欲求を軸とした人生観。与えられるために何かをする。与えられなきゃ生きていけない。そんな生き方をしていることがその息苦しさの要因でした。

でも与えられなかった。子供のころから親や周りの人に認められず愛されず変だ気持ち悪いと否定されて馬鹿にされて仲間外れにされ続けてきて、そんな中でなんとか生き残ることに必死だった。そんな過去を引きづってヒステリー状態になっている、他人に恐れおののいてパニックを起こしている。一種の呪いみたいなものでした。

だからイデオロギーにはまる。思想にはまる。ちょっと道を間違えばカルトにだってはまっていたかもしれない。

きっと何らかの派閥に所属したがったり、金や地位にすがりついたり見た目が同行に執着したりサイゼがどうのとかいうことでジャッジしたりする感情は同じものなんだと思っています。

全部与えられたいという欲求由来のもの。そこに対する強烈な渇望感が原動力になっている。与えられないことが恐ろしいから。そんな恐怖感情からくるヒステリーなんですよね。

ただの自分が怖い。何者でもない自分が。他人の関心を引けない自分が。他人に愛されていない自分が。他人の加護がないことが。他人に代わりに選んでもらえないことが。

他人から与えてもらえないことが、とにかく恐ろしかったんです。

誰からも与えられない自分。そういう孤独がただひたすらに恐ろしい

“もう愛されないのは嫌だ、見捨てられるのは絶対嫌だ。自分だけを見てくれ。ほかのやつのことなんか見るな。ほかのやつに与えるな。自分に与えろ。だって自分はこんなに頑張ってる。こんなに偉い。こんなに苦労してきた。だから当然じゃないか。それを横取りする他人はみな敵だ。だから全部叩きのめす、屈服させてやる。”

与えられないことに対する強烈な恐怖や不安は、やがて他人を生存競争上の敵として認知するようになって敵意に代わっていきました。巷で言われている「無敵の人」っていうのは「自分は与えられることがないことがわかってしまって、それどころか奪われるばかりだった。もう自分には与えてくれる何かが何も残ってない。でも与えられたいという自身の欲求を捨てられず持ち続けている人が最終的に起こす狂気」なんじゃないかって思います。幸い私はそこまで行く前に自分を変えることができたんですが、もし放置していたらと思うと…

与えられる世界なんてのはそもそもどこにも存在なんかしていなかったんです。与えられるべくして与えられる人なんていうのはいないし、そんな神様もいないし、そのような存在もまたない。常に自分に与え加護してくれる絶対的存在なんていない以上、人生に真の揺るぎのない意味を求め続けても与えられうる存在になんてならない。ただ他人から与えられなければ生きていけないと自分を脅迫し、他人におびえ続けている自分がいるだけ。

そりゃ生きづらいに決まっているでしょうって話です。与えられるために必死で懇願して上におびえながら他者と争いを繰り広げる人生ですから。他人とのかかわりは全て「敵か味方か脅威かそうでないか」でしかない世界で生きているわけで、ある種の戦争状態で生きるようなもんでしたね。

哲学して気づいた事をブログで書いてます。

そんなわけで繰り返しになりますがこのブログでは、そんな承認欲求を私が捨てるまでに自分の無意識についてゴリゴリ分析し続けて作り続けたこんな感じの実体験ベースの「気づき」の記事を随時更新しています。私の個人的な主観の世界ではありますがもしご興味あれば何かの参考にしていただけたら…

と思ったのですが、正直なところ「誰の役に立つかなこのブログ?」なんて思ってたりもします。

このブログ一体誰の役に立つ?

なんたって私の主観を元にした気づきですしね。誰かの主観の話しではないし、誰かの主観の答えなんて私にはわからない。究極的に突き詰めれば私向けのブログであり、こうして公開している記事たちも私のためにしかなっていないかもしれません。

人に他人は救えないですもん。特に心の問題なんてのは。私は他人の心のことなんか一ミリだって知らない。感じられないし、知覚することもできないですからね。

とはいえ私に限らず人間は皆「自身の主観で生きている」という点で同じだとは思うのです。私に限らず結局誰からも何処からも自分にとっての主観の正解なんて出てこないだろうってことは一緒だと思うのですね。でもそんな主観の答えに過ぎないものでも役には立つかもしれない。実際私はほかの人が出した答えたちをもとに自分を変えるきっかけや気づきをえてきました。

だから私の主観であることを前提にしても、ここにそれを残すことには何らかの有益性があると思ってこうして公開しております。

さてそれを差し引いてどんな人の役に立つのかと考えてみると…ある種「崖っぷちな方」向けなのかな?。…ちょっと言い方が失礼でしたね、すいません。なんというか、例えば誰も頼れる人がいない。友達も恋人もいない。誰にも相談もしたくない。家族も信用できない、いない。もう何も持ってない。自殺を考えない日はない。後がない…でもその問題の本質は全て自分の心、精神の問題なんじゃないかとなんとなく思っている方というか。誰かの優しい言葉や「あなたの気持ちに寄り添います」といわれても結局それに依存してしまうだけで自立できない苦しみから一行に開放されず路頭に迷っている人というか。

取り付く島も全くないような追い詰められ方をしている人で、自分の意志で自分を本気で変えることを決意するに足る状況の人、という感じでしょうかね。

あるいは、自分のやりたいことに本気で集中したい方でしょうか。これは結構自身がありますよ!仕事だったり絵描いたりブログ書いたり、ほぼ一日中自分のやりたいことできるようになりましたからね。昔は他人のやってることが気になってSNSで時間を無駄につぶしてたりしてましたね。気が付いたら一日スマホいじっててなんもできなかった、なんて日は当時は日常茶飯事でした。

如何に他人を気にして時間を無駄にしていることに気づいてそれを捨てるか。それについては徹底的に突き詰めて書いているつもりです。

大半の人にとっては「なにいってだこいつ」なブログだと思います。

一方で冷やかしか何かだったとしたらまさにこんな感想のブログでしょう。それはそれでその人の思いなので、何も間違っていないと思います。実際、もし崖に突き落とされる前の承認欲求おばけでイキってたころの自分がこのブログを読んだら鼻で笑ってたと思います。心の中で「ハッ、なんやこいつ妙なこと書いとるなぁ」「必死だな。いかれてる。痛いやつ。普通に頭おかしいわ」みたいな感じでマウントとって安心してたと思います。

そうやって大勢と違う変わった何かを下に見て、自分は多数側なんだと思い込んで安心しようとしている自分がいたころを思い出します。必死に妙なことで苦しんでいた誰かの話しなんてのはそりゃもう滑稽に見えていたでしょうね。

でも今の私は全然笑えないんですよ。本当に地の底まで落ちて笑えない状況になってましたから。そんなことをしても快楽どころか苦痛を感じるようになってますから。そんな歪んだ感情を持っていても自分が腐っていくだけで自分にじわじわ毒を仕込んでいる一種の自殺みたいなものだということは痛いほど味わいました。

“手遅れ”になる前に

もし自分の心の問題を見て見ぬふりをし放置し続けてたら、今頃本当に自殺してたかもしれないなと感じてます。あるいは世間に対する逆恨みで犯罪に走っていたかもしれません。

正直言うと、世間で八つ当たりのような犯罪行為に走る人の気持ちって私は共感できるんですよ。「なんで自分に与えてくれないんだ」って。そんな幼児性からくるものなんじゃないかって思ってます。幼児性が悪である、ということではなくて、幼児性を価値観とするありかたがあるとあのようになるんじゃないか、という話です。私はそんな幼児性を抱えているばかりに人生苦しんで、他人を恨んだり嫉妬したり見下したりしてきたものですから、その果てにある姿としてはすごく容易に想像できるんです。もしそんな自分を変えなかったら自分の不満を正当化しようとして最悪他人を殺すなんて行為に走っていたかもしれません。

他人に対する当てつけのつもりで他人を恨み、攻撃して恨みを晴らしているつもりが、実際には他人を使ってただ自分を破滅に導くという何もかもが破滅的なことをやらかすところだったんじゃないかと思います。

いくら他人を傷つけようがバカにしようが、屈服しようが叩きのめそうが最悪殺そうが、そんな自分のコンプレックスは永遠に消えない。自分が変わらないことにはこれは一生まとわりつく

他人のせいにしてる限り自分を救えない。他人が憎いのは、それだけ自分が他人に甘えていたから。与えてもらいたいと思っていたからでしたから。

これまでの私自身の取り組みで感じたことですが、歪んだ積み重ねをし続けることを放置すればするほど、それが崩れたときの重圧は想像を絶するものになると思います。さかのぼって分析する時間も捨てる時間も変える時間もそして労力も苦痛も、それに伴って増加するでしょう。アドラー心理学でも「変わるのには今まで生きてきた時間の半分の時間がかかるだろう」といっていましたし、多分こういうことなんでしょうかね。

そしてその問題が起こる時はいつなのか。案外来ないかもしれません。だったらラッキー…かも?

いやそれもどうでしょうか。ぬるま湯の中で煮え切らずに生きているようなものでしたしね。爆弾抱えて生きているようなものでもあるわけで…しかも成長する爆弾ですから。

でも来る人には来る。爆発する人は爆発するんじゃないかと思います。例えばこの愚かな私のように。ずっと人生をかけて依存してきた何かが根本からへし折られるような時が来たとき、積み重てきた自尊心のエッセンスが突然無価値化してしまった時、大事な何かが目の前から消えてしまった時、なくなってしまった時だと思います、経験上。多分それは自分の力や備えでもどうにもならないようなもの、単純にいうなら他人ありきの精神的依存先を完全に失って自分のコンプレックスに押しつぶされるときが来たときなんじゃないかと思います。

だからそれをごまかしてる承認欲求ってとても危い。絶望したころにはこの承認欲求がそのまま恐怖になって負いかぶさってくるわけですから。

若いころはいろいろごまかせたんですよね。周りに自分と同じような「周りに合わせておとなしくしてよう」って人が比較的多くいて「まぁみんなも似たような感じだし大丈夫だろ」だなんて思っていましたし。ちやほやもされる機会もなんだかんだありましたからね。若いってだけでかわいいかわいいって言ってくれる人、褒めて管理してくれる上の世代の人がたくさんいるわけですから。親や先輩や職場の上司とかね。

でもこれが年を取るごとに減ってくるんですよ。これは当然で自分の年齢が上がれば目上の人もどんどん減っていきますからね。

それに見た目の”かわいさ”もどんどんなくなっていきますしね。老化しますから。小さい頃なんかはみんなかわいいかわいいっていう。赤ちゃんなんてかわいいのかたまりです。でも幼稚園、小学校、中学校と学年が上がるとそういう声も減っていく。成人したらそんなかわいさは毛ほどもなくなって下手すりゃ子供たちからもおじさんおばさん呼ばわりされたりする。世代のごった煮の社会へと放り込まれたら、かわいいフリをしないとかわいい扱いはされない。しかしさらに年を重ねていけばそれにも限界が出てくる。無理が出てきます。

与えられることを求めるってことは子供として扱われることを他人に求めること。でも子供のように扱われることを望むのは何れどこかでそれがかなわなくなる日が来るんですよね。

周りの友人たちも変わり始め、中には昇進したり結婚したり事業を始めたりほかのコミュニティや趣味に夢中になって生きていたり、それぞれがそれぞれの人生を生きて、自分が思っていた彼ら彼女らではないものに皆なっていきます。

その中で気がつけば一人取り残され、ただ褒められるため、人よりもマシかどうかだけを気にして生きてきた自分がいた。ただ他人のことが怖くて自分に自信もなくやりたいことも何もない自分が…

それに気づいてしまった時の孤立感、虚無感。「一体自分は何のために…」という無価値観、無力感、空虚感ですよ。そうなってしまった時果たして立ち直れるのかどうか。

ひょっとしたら高齢で自殺する人の中にはこういう方もいるんじゃないでしょうかね。年を重ねてやがて周りに誰もいなくなったときに限界が来るというか。最近芸能人の自殺も相次いでいますけどこういうことが理由、なんてこともあるのかもしれないですね。

ちょっとしんどい話だったかもですね…。でもこれ、少しやるだけでも効果はあるんですよね。歩みは少しずつなんですが一つずつ捨てていくことで少しずつ自分を身動きできなくしてしまっている縛りを解放することができます。余計な思考を省くことで心理的にできなかったことができるようになりますし、自分を抑制している思い込みも捨てていくことになるので行動力も自然に上がります。それで得られるものは、他人からも、そしてお金では決して買えない大変価値あるものだと私は思っています。

ちょっとずつ楽に自由に。楽しく生きられるようになってみませんか?

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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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