メンタルの強さの正体は「心のあり方」の違いです。




メンタルの強い人、弱い人というのは実は存在しない

それは悪魔で”見て呉れ”の話し。どんなに傷つくことを言われても鋼のメンタルという”防御力”のおかげで”耐えられる”とかそんなことはありません。

耐えているわけではなくて、単に気にしていないからなんです。

他人の言葉を本気にしていないだけ。他人に言われたことで自分を攻撃された、人格否定されたと受け取らないだけです。

言葉の受け取り方、他者に対する認知の在り方が違うだけの話しなんです

気にする人と気にしない人

他人の目を気にしたり、周りの空気を気にして、他人のために頑張る人は、周りからの評価はよくなるから「いい人」に見られやすいかもしれません。しかしその反面いつも気を張っているから疲れやすく、また他人の言葉にも感化されやすいんですよね。

というかそれがほとんど自分の生きる意味、というような感覚でいるんじゃないかと思います。つまり他人に好かれていること、はたまた、敬意を表されていることが自分の人生の意味であると思っていて、ゆえに他人に嫌われたり見下されたりしたらひどく傷つきますし、誰からも好かれず、敬意も感じられないとなれば、下手すればそれだけで人生終わったなんて思ってしまいます。

所謂、他人の都合で自分の人生が終わる世界観ですね。

他人からの言動がすべて自分の存在そのもの対する本質的な評価のようにも見えているところもあり、なおかつそれがなければ生きている意味がないと思い込んでいる世界観をもっているので、自分をほめてくれる人、わかってくれる人を喉から手が出るほど求めている状態です。だからその反面でいつ他人に自分のことを否定されるのか、嫌われるのではないか、

自らの存在を否定されてしまう事態になることがが怖くてたまらない状態になります。

それが所謂豆腐メンタルを作り上げるわけです。

それに対し他人の目を気にしてない人は、他人を自分の人生の意味になんてしていませんし、むしろ「人生の意味」というものに対する考え方そのものが希薄です。自分を何か意味で成り立たせるというような発想自体がない、もしくはもしあってもそれを自分が何かをすることから見出しているので、他人から与えられる必要が全くないのです。

大事なのは自分のすることだけです。自分が興味を持って何かを楽しみ、学び、自分でより良いと思う何かにしていくことだけ。

他人がそれについてどう思っているのかなんてどうでもいいんです。

ゆえに他人の評価は感覚や欲求レベルでどうでもいいものになっていて、気に掛ける意識もほとんどないでしょう。他人の言動を本気でとらえないだけじゃなくて、そもそも他人の評価を欲してもいないから、常に落ち着いて平静を保つことが自然にできます。

常に自分の気持ちが軸になっていることが当たり前になっていますから、常に自分の気持ちをベースにした何かだけしか考えも感じもせず、ゆえにシンプルで、複雑に自分のことをとらえてもいないからすっきりと気軽に生きられます。

そういった何を大事にしているか、何をどう見ようとしているのか、感じようとしているのか、目の前の現実の世界をどうとらえているのかという「内面の違い」が、外から見るとメンタルが強く見えたり弱く見えたりするだけの話しで、実際のところはただの認知の在り方の違いの問題でしかありません。

他人軸か自分軸かが問題の分かれ目

その違いでメンタルの強さという”見て呉れ”は変わってくるのです。

メンタルが強く見える人に「なんで他人に嫌われても平気なんですか?」と聞いても「うーん…さぁ?気にしていないだけじゃないかな」と事もなげに、自分でもよくわかっていない感じで答えるだけなんじゃないかと思います。自分軸の人にとってはそんなことは意識していることでもないので、その人からみたら寝耳に水みたいな質問みたいになります。

メンタルを”強くしたければ”自分軸になろう

他人ではなく自分の気持ちを考えて行動すること。他人を自分に巻き込まなくていいということを自分に許していくこと。

他人軸の人生っていうのは、その無意識の中に「他人がこうでなければならない」とか「自分は他人にこう思われていなければならない」という他人を使った義務の思考が含まれているものです。その義務を果たさなければ自分は生きていてはいけない、ここにいてはいけない、何もしてはいけない、というような思い込みをしているわけです。

それは幼少期のころから親や教師、クラスメイトなど「他人を気にしていきなさい」「誰にも好かれていない奴は無価値」とか、そんな他人に評価されていない人は無価値で生きていてはいけないのだというような思い込みを、様々な要因ややり方でじんわりと、じっくり時間をかけて構築されたもので、長年こべりつきつづけた考え方でしかありません。

それは捨ててしまっていいものです。他人軸から自分軸に変わるには、そんなこべりついた認知の歪みを自分からすてていくことでできていきます。

多分これまではそんな自分の他人軸の考えが普通だと思って生きてきたのだと思います。でもその”普通”という価値観は実は幻にすぎず自分がそう思い込んでいるものにすぎません。人には他人の価値観や思考といった頭の中にあるものを知ることがそもそもできない構造になっており、そんなものをそもそも共有なんかしていないのです。

普通や常識という言葉がよくつかわれていたりある一定の効力をもつのは、単にそれだけ多くの人が自分が考えていることが皆が考えていること、普通であると思いこんでいるだけでしかありません。

私たちが育ったここ日本は村社会的価値観、察しの文化なんていって自分の価値観を他人に無理やり強いて従わせ続けてきたからというだけ。生き残るために他人に常に気を使い、合わせないと生きていけないのだと思い込んで、みな同じにならなきゃいけないんだと、同じであるべきなんだと、その思い込みを代々受け継いできただけにすぎません。

それが相互監視社会を生み出し、独りだけ抜け駆けを許さない社会を作り、常に自分が誰かと同じ足並みでないと居心地が悪くなってしまう、他人軸の人生観を作り上げてきたわけです。

おそらくそれが日本人の多くの人々の平均的な価値観でしょう。つまり日本人は平均的にメンタルがお豆腐なのです。他人からの指摘が自身に対する攻撃であるかのように感じる人は、多分それなりにいるんじゃないでしょうか。だとすれば、まさにその在り方こそが豆腐メンタルなのです。

そしてそんな「疲れるだけのこと」を数世紀以上にわたってずっと続けてきたわけです。他人を恐れ、臆病に生きることを良いことだと錯覚し、生きてきただけにすぎません。結果他人も自分も許せない、みんな同じでないと許すことが出来ない、そんな相互監視の生きづらい社会はそのようにして作られていくわけです。

自分軸の人生というのは一見身勝手に見えるのかもしれませんが、むしろ他人軸の人生の方が実はよっぽど身勝手なのです。なぜなら、自身の理屈を他人におしつけ、他人の足を引っ張ることを是とし、正しいことだと思い込んでいるわけなのですから。

しかし自分軸というのは、すべてが自分の中で完結しているため、他人を関係させる必要はなく、ゆえに他人に押し付ける必要もありませんし、他人と同じに自分をする必要もありませんし、他人と足並みをそろえる必要もありませんから、己の劣等感から身勝手に他人の人生を故意に邪魔する必要もなくなります。

自分軸は悪いことなんかではありません。自分軸になったら悪になる、なんてことはない。むしろ自身を精神的苦痛に晒す認知の癖を捨てることができるすっきりとした生き方です。

そしてそれを手に入れさえすれば、「強いメンタル」も手に入ります。というかそれがもともとの健常な精神の在り方といってもいいでしょう。

強いメンタルというのは、むしろ生物的には通常の状態、つまり、自身に恐怖の対象であると認知する何かがない、ごく平準的な安心した状態のことなんです。

だから特別なことでも何でもないのです。

だから抜け駆けしていいんです。自分だけ幸せになっていいんですよ。

誰かと一緒じゃなきゃいけないなんてことはない。誰かに許可されなきゃいけないなんてことも全くありません。

自分を許し、他人の足並みから離れて先に行くこと。他人よりも先にいって、他人を置いていくこと。

それを自分に許してしまえばいいわけです。そうすればいつのまにか自分が気づかないうちにメンタルも強い在り方へと変わっているでしょう。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です