元々日本は、その村社会気質とその文化的に、他人の課題に侵入する前提の価値観をもって育てられることが多く、例えば「人に褒められることをしなさい」「人に迷惑をかけない大人になりなさい」というように、他人ありきの自分になることを推奨する教育をしているところがあります。
自分の気持ちにではなく、他人の気持ちを第一に考えて生きることを善としているがため、他人の課題に侵入することが推奨されてしまっていると思うのですね。
だから極論を言えば「ほとんど日本人が毒親予備軍である可能性を持っている」という風に言われてもそれほど違和感はない
割と身近な話で、むしろ日本で言われている一般的なことすら、実は毒親的な価値観なのかもしれない。
そう考えてふと思ったのです。多分親も、私と同じような親をもっていたんじゃないかっと。
その親に育てられたからこそ、毒親になったのではないかと。突然変異的に毒親になったのではなく、もともとこの国には毒親的文化が標準でいつからか(おそらく軍国独裁主義になった明治時代あたりからから)存在し、それが海外の価値観の流入や、かつての企業が人の人生の面倒を見るというような時代ではなくなったなどの要因によって邪魔な価値観となり、この価値観を否定する必要が今の時代に出てきただけで、
親の世代では”普通”であった価値観なのではないか。と。
そんな親のことを考えながら、なぜ毒親は毒親なのか、それを考えてみました。
目次
支配されて生きてきたから
毒親の親は毒親。自分の親が毒親なら、多分その親、つまり祖母や祖父も毒親だったかもしれない。
親自身も支配的な親や社会によって自分の素直な気持ちをずっと抑圧されて生きてきたから、それが普通のことだと思ってしまっているのではないか。
「親は子供に逆らってはいけない」子供は親の言うことを聞くことが普通」「親を怒らせちゃいけない」
そういう支配されてきた経験があって親はこうあるべきだというロールがあると思い込んでしまう。子供に対するしつけが、支配の形になってしまうのは、自信がそう教育を受けたからにほかならないのではないでしょうか。
親の目をうかがって生きることを強いられた
親が強権的だったり、暴力的だったり、些細なことで怒鳴り散らして手が付けられないような親だったりしたから、常に親の機嫌を先に考えて、それから自分の行動を決めないといけなかったのかもしれません。
それが、常に他人ファーストの意識の土台を作ることになってしまって、常に他人の立場になって考え思考し、自分のことは後回しな考え方ができあがってしまったのではないでしょうか。
“しなきゃいけない”で生きてきたから。
そんな他人ファーストの思考と、周りから義務ばかり与えられて生きてきたことが普通になってしまったがために「しなきゃ」という考え方で生きるようになった。家から出た後はより大きな親のような存在、例えば社会や会社から与えられた役割や義務を背負って生きるようになった。
背負って生きることが普通。常識。当たり前の感覚になってしまったのではないでしょうか。
そしてその意識で子供に対しても接してしまっているのではないか。
「行儀よくしなさい。でないと人様の前で恥ずかしいでしょ。」
「おにいちゃんでしょ、だからしっかりしなさい。」
「なんでこんなこともできないの。普通のことでしょ」
「〇〇のくせに、だからあなたはダメなのよ」
考え方が常に「あなたは〇〇なんだから」とか「こう決まっているからこうすべき、こうしなきゃいけない」になっている。
それからはみ出すことはタブーで、してはいけないことになるから。もししてしまったら社会に顔向けできない。
恥をかいてしまうこと。それをいけないことだと思っている。他人の目にかなわない誰かになることは悪。そのような世界観、思い込みをもって子供に接することに違和感がない。
その下にある自分の素直な気持ちに蓋をして生きることが当然で普通。息苦しさを抱えてい来ることが普通。我慢を強いて、その代わりに与えられるために生きることが普通。
そう生きることを子供にも教えてしまっているのではないでしょうか。
周りの目が恐ろしいと感じて生きてる
ずっと支配されてきて、誰かの都合を満たすことを義務付けられて、自分に素直になることを禁じられて生きてきたから、いざ自分に素直になろうとしてもそれができない。怖いから。自分に素直になるっていうのは、ただ自分だけの気持ちや感覚で自分を満たすということ。それを常に外的な理由や要因に自分を重ねたり、許されたりすることで感じようとして生きる”癖”があり、かつその癖は周りの目に対する恐怖から身を守るためにやっていることだから、そうそう捨てられることじゃない。
だから義務や普通といった大きなものに自分の行動の建前のようなものを求めて、それを後ろ盾にするかのように考えて行動してしまうのではないでしょうか。
他人の都合に合わないことをするのが恐ろしい、社会の都合に合わないことが恐ろしい、自分に素直になることが、普通でない自分や恥ずかしい自分になってしまうと感じ、それが恐ろしいと感じているのかもしれません。
だからいつも、誰かに頼まれたわけでもないのに自分から他人の都合や社会の都合に合わせた自分を作り上げて、それを演じてしまうんじゃないかと。そう演じないといけないと思っていて、それが演じられなければ生きていけないと思っているんじゃないかと思うんですよね。
だからそれを演じようとしない人、その基準に達していない人。いわゆる、(自分の思う)普通じゃない人、(自分の思う)ちょっとどこか変わった人、(自分の思う)何らかの能力的に低い人を見ると、ひどく不快感やいらだちを感じてしまう。
「何あの勝手な人!非常識だ」と怒りをあらわにしたり、
「何あの人、気持ち悪い。どこかおかしいんじゃないの?」
「あの年であぁなんて、ダメな人ね」
「言い訳ばっかりして無能な人だわ」
と、自分とは違う他人をとにかく「間違っている人」「普通じゃない人」と、見下してしまう。
普通じゃない人、義務を果たさない人、何らかの条件に対してふさわしくない人は自分にとってあってはならないイレギュラーな存在なんじゃないでしょうか。
それを「この世の真理」みたいな大きなスコープでとらえていて、絶対にいてはいけない、ありえるはずがない存在だと思い込んでいるんじゃないかと。
そんな風に思っている中で、もし、自分の子供がその「間違っている人」といわれるようなことをしたら。
それはもう、とてもとても、いても立ってはいられない気持ちになる。緊急事態発生レベル。自分の子供が「間違った人間」になることが恐ろしくて、許せなくてしょうがなくなる。
すぐさましかりつけたくなる衝動に駆られる。怒鳴りつけて「更生」させようと、怒りにかられてやってしまう。もし自分の子供が恥ずかしいことをしていたら、人様や社会に顔向けができない。
演じている自分に傷がつくことが怖い。子供のせいで”ちゃんとした自分”がちゃんとした自分だと評価されなくなることがどうしても許せない。気持ちが悪い。怖い。そう感じることを何としても避けたいから、子供に対してそれに支配的になってでも従わせようとしてしまっているのではないでしょうか。
他人に尽くして与えてもらおうとすることが生きがいになっている。
周りに対する義務を果たして生きることが当然で、その中でわずかばかりの許しを得られて安心を得る、ということをしながら生きていると、人に褒められることや社会の模範的な人間になることは快感である、気持ちがいい良いことであるともうようになると思います。
他人に頼られているからということを喜びとしていて、それがあるからこそ自分は生きる意味がある、その人に尽くすことができると感じていると。例えば家族に自分は頼られているからだとか、家族を養っているから自分は素晴らしい、とかそんな感じですね。
でも実際のところ、それは自分に自信がもててないだけなんですよね。自分で自分の気持ちを自分だけで感じたりすることに自信がないから、他人に、家族という存在に代わりに証明してもらうおうとしているだけ、頼られている自分という免罪符が必要になっているだけで。
もちろん尽くすこと”そのもの”が好き、という人もいらっしゃるのだとはおもいます。でももしそうなら、それは自分の純粋なしたいことになっているはずで、背負わされているような義務感なんてないはずですし、見返りも求めていないから、ただ尽くすだけで満足しているはずです。
尽くすことにそれに対する見返りを少しでももとめていると、他人が自分の思った通りに感謝してくれなかったりお返ししてくれなかったりする不満を感じるんですよね。
だから自分が払った犠牲、労力に対して例えば自身の子供や家族が自分に感謝をしないことがあると許せなくなってしまったり。子供がもし”生意気な”態度をとっているように見えると、強く苛立ちを覚えて、手をあげたりしてしまうこともあるのかもしれません。
自分の「こんなに尽くしてるのに」という思いに対して、その「見返り」がなかったり、自分の思い通りにならないと、どうしようもなくなるくらいに感情が乱れたりしてしまう。
自分の生きがいを満たしてくれる他人がいないとダメになってしまうんですよね。一見しっかりしているようでも内心は他人に依存していて、他人に対する支配欲でいっぱいだったりするんです。
となると、親だから、家族だから、自分の子供だからというものも、自分に与えられるための大義名分やロールにすぎなくて、結局は子供や家族のためでも何でもなく、そんな自分の承認欲求を満たすための手段として使っているだけということになるんですよね。
「されたい」ことという考え方で子供を育てる。
そのされたいという欲求が、子供が欲しいものが何かということを自分が考えるときに、子供のしたいことではなく、子供がされたいことは何なのかということを考えて、子供に接するようになってしまうんじゃないかとも思います
子供のためを思ってと、なんでも先回りしてやってあげたくなってしまったり。そうして“あげない”と“いけない”気がして。
他人と自分の境界線が曖昧で、「自分が“されたら”うれしいこと」「自分が“されたら”いやなこと」という他人軸の考え方で考えてしまうから、そのすべてが過干渉になってしまうこともある。
“自分がしたいこと”を考えようとすることができない。生理的にできないから。
自分が”したいこと”、自分だけの気持ちが大事だと思えない、感じられないから。だから何らかの大義名分をあてにして、それを大事なものだとして子供にも教えてしまう。
結果、子供が子供自身が感じたことやしたいことを、自分が「されたいと思うことをベースにした世話」によって、上書きしてしまったり。
子供が持っている価値観を「そのままにしておく」こと、つまり「子供の価値観を尊重する」ということを生理的にしておけないんですよね。放っておけないとか、ちゃんとしてあげないといけないというか、妙な義務感によって先回りしようとしてしまうわけです。
本当は子供がしたいことは別のことだったかもしれない。でも子供は親にそうされてしまうことで「そう思わなきゃいけないんだ」と思ってしまうかもしれません。そうやって子供は自分で決めることに自信が持てなくなってしまうのかもしれない。
結果、親と同じように他人からされたいことを得るために、他人に好かれるにはどうしたらいいのかを考えて生きる人になってしまうのかもしれません。
毒親の負の連鎖を断ち切るには
そんな毒親の連鎖を断ち切るには、自分を変えるしかないです。自分の親を変えても意味がない。自分がもし毒親に育てられ、毒親の資質を受け継いでいたとしたら、それを変えるのは自分の親ではなく自分になります。
もしそれを自分の親に求め続けると、多分その在り方は子供にも同じように求めてしまうだけです。どうして私のことを分かってくれない、こんなに自分は黒してきたのに、と子供にも自分のコンプレックスや苦しみの理解を求めてしまい狩りになるんじゃないかと思うんですよね。
そうすると、子供は非常に自立しづらくなる。親に気を使って生きることを余儀なくされてしまう、気を使うことがいいこと、誰かにやさしくすることがいいことだと思い込んで、その前に満たしておく必要があった、自分を自分で満足させるという経験をさせる機会をえられないまま、他人に気を使って生きるだけの人になってしまうかもしれない。
連鎖を断ち切れるのは自分だけなんですよね。自分自身に対してだけ。
自分を変えるということは自分を解放するということ
でも別に自分を変えるっていうのは、自分に何か重責を背負わせたり、縛りを与えるなんて厳しいものではないんですよね。確かに自分を変えるのは怖いことではあるかもしれませんが、実際にやることはそんな重責や縛りから自分を解放することだったりします。
自分という”個”を認め、外の都合に合わなくてもいいと自分のことを許していくことなんです。義務で自分を追い込まなくてもいい。義務で自分に厳しくあらなくていい。誰かに許される必要なんてない。
子供に厳しくあらなくていい。それは当然自分にも。
本当は「親はこうあるべき」だと、「親」という自分じゃない何かをロールしようとしなくていいんです。
自分は自分。親だろうとなんだろうと、自分は自分。それ以上でも以下でもない。
他人の期待にこたえなくていい
社会の期待にこたえなくていい
何かを背負って生きなくていい。
褒められなくていい。
「こうあらなければならない」というそれ全部を、やぶっていいのですよ。それは余計なお世話でしかありません。
誰かではなく、自分に対して自分にこたえる。自分の気持ちを許し、自分の勝手を許し、自分の人生を自分だけで勝手に思い込んで幸せになることを自分に許していけばいいんです。
他人や常識、普通といった外を理由に自分に許してこなかったいろんなことを、全部許していけばいい。それで他人に対する期待の連鎖は断ち切れます。他人に対する妬みも憎しみもすべて断ち切って、自由になれるんです。
そうなれば、子供に期待して育てるという考え方はなくなる。子供に毒を与える心配も消えていくと思うんですよね
話しをしよう
画像はイメージです。
もし何か子供に何か良くないことをしたと思ったら「どうしてそうしたいと思ったの?」「どうしてそんな風に思ったの?」とただ柔らかく、優しく聞いてみる。話をしてみた方がいいと思うんですよね。
察して先回りするんではなくて、会話をするんです。
自分を”個”として認められていれば、きっとそれは自然にできると思います。そして自分を個として認めるという個とは自分と他人は違う存在である、ということを認めることでもあります。
自分という個は誰にも理解できない。人に自分を理解することはできない。それはつまり、自分からみた他人も自分は全く理解していないということを理解しているということでもあります。
だから必然的に会話が必須になってくるんです。察しただけでは相手のことを理解したことには全くならないのですから。
会話して、子供が何をしたかったのかを聞いてみる。子供はその中で自分の意志を相手に伝えるということを覚えていくこともできます。
なんで自分は今そうしたのか、そう感じたのかということを、会話によって言葉にしていくことで自覚し、少しずつ知っていくことができるんですよね。それが自分にとってどう感じることだったのか、それを今後自分はどうしていきたいのかを、自分で考える機会にもなります。
そうして自分の素直な気持ちが何なのかを知って成長していくことができるんです。自分のやりたいこと、感じたいこと、そのために自分は何をしたいのか。それを自分で考えて生きていくことができるようになる。
子供はそうして勝手に考えて勝手に覚えて成長していく。誰かに期待せずに、自分のしたいことに素直になれるから。
そうやって親の知らないところで勝手に大人になっていくんじゃないかと思います。
親が子供にできることはそんなに複雑なことではなくて、日常生活の経済的な扶助とあとは、「心理的安全を感じられる場所の提供」「子供の話を聞くこと」「子供のやりたいことを援助する」ことくらいなんじゃないかと思います。
他人が他人にできることなんてすごく少ないんですよね
だから気を使うという行為自体、実はいらないのですよ。全部会話をしてはっきりさせればいいだけの話しです。会話ができない相手なら、会話をすることがどれだけ大事なことなのかを相手と話し合いをしたり、それがかなわないのなら付き合いを改めたればいいだけで。
相手の犠牲に自分をしなくていいんですよね。ただ自分自身でいていいんです。自分を他人で無駄にしなくていい。疲弊させなくていい。
自分はそのままの自分でいい。それを許せば、毒親なんていなくなるんじゃないかと重いのですよね。
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