人と話している時、人が何かをしている時を見た時。
そんなときに他人に対してシンパシーを感じたりという、共感というとらえ方は健康的に使えれば自分に新しい気付きや経験を得ることのできる素晴らしい機能の一つであると思う。
しかし人によっては“強く共感”してしまうために、それで苦しくなって生きづらさを感じる人もいる。
それを感受性の強い人、HSPという風に呼んだりすることもある。人によってはあまりにも強烈に感じすぎて日常生活に支障が出てしまうということもあるのかもしれない。
例えば周りの空気を敏感に感じ取ってしまって、少しでもその場の空気が乱れたかのように感じると、まるで自分が悪いことでもしでかした時のように嫌な気分になったり。
人生を豊かにすることのできる可能性を持つ共感が、自分を苦しめてしまったりすることもある。
目次
HSPは体質?
HSPであるといっても多分いろんな人がいる。聞いた話だけど、五感自体がとても敏感だということで、目が突然まぶしくてたまらなくなったり明滅しているかのような感覚に襲われたりすることがあり、それをHSPだという人もいるのだとか。
なのでそういう人にはあまり当てはまらない話なんだろうとは思うのだけど、そうではない人、例えば
“人前だと緊張してとても苦しく感じてしまう。”
“他人の目が気になりすぎて苦しくてたまらない。”
“空気をすぐに察してしまう。他人が怒られていると自分が怒られているかのような気分になってしまう。”
というような他人に対する感受性の強さをHSPだという風に認識している人だったとしたら。
それは果たして、体質100%の問題なのだろうか。
というのも、上記の苦しくなる理由にはすべて他人という存在が関わっているから。
他人以外であればその症状がでないのだとすると、それは遺伝的な性質であるとか、生まれ持った性質であるというよりは、
ある特定の条件で、それも自分が何かを認識したときだけに発生する、自分の思考が原因のもの、つまり後天的に身に着けた何かのような気がする。
となるとこれは体質の問題も確かにあるのかもしれないけれど、自分の思い込みによるものもあるかもしれない。
自分の感覚の感受性という生まれついてものというよりは、自分が日々無意識にしている「共感の仕方そのもの」が原因ということも、考えられるんじゃないかと思うんだ。
だとしたらそれは変えることができるのかもしれない。
治せるかも。楽になれるかもしれないんだ。
受け身でいること自体が苦しみを生み出しているんじゃない?
例えば会社や学校で、周りの空気が悪くなるとまるで自分がなにかしでかしたかのように気分が悪くなってしまう、というもの。
それはもしかしたら、その空気に自分が”合わせなきゃいけない”と感じているからではないだろうか?
気を使わないと”いけない”と感じているからではないだろうか。空気を察して、自分がそれをどうにかしなければ”いけない”と感じて、強烈な義務感と緊張感と拒絶感の中にあるのではないだろうか。
そんな自分を必死に誰かの都合に合わせようとした結果が、その苦しい感覚を感じる結果となって現れているとしたら。
であればそれは、その受け身的な自分の感覚の在り方、感じ方が原因ってことになる。
つまり、思い込み、認知のゆがみから来ているものなんじゃないかと思うんだ。
なぜ他人に合わせようとするのだろう?
それは自身の普段の他人に対する潜在意識のようなものからかもしれない。
義務感というか、常に他人のことを第一に考えなければいけないんだという自分の思考、感覚の癖のようなものというか。
そういう癖が作り出している精神的苦痛、生きづらさなんじゃないだろうか?そうしてしまうのは、例えば何らかの過去の自分の経験が元になっているからなのかもしれない。
例えば子供の頃に親から「他人には気を使いなさい」と教育されたり、周りと常に仲良くしなさいと言われたりとか。
あるいは親が仲が悪く、自分がその仲裁役になったり、まるでピエロのように自分に嘘をついてその場を和まそうとする役を買って出ていたとか。
そうやって常に周りを気にするように自分を教育した、周りの“空気の和”を乱さないように自分が犠牲になってそれを阻止することが生き方になった、そうせざるを得ない環境で幼少期を過ごした、とか。
いわゆる、アダルトチルドレン的な特徴、環境で育って培われた認知があるからなんじゃないだろうか?
その思い込みが根底にあって、結果常に他人の都合や気持ち、欲求を最初に考え、それをもとに行動している、日々の生活を送っている。
他人ファーストで無意識に自分の素直な気持ちを否定して人とかかわる癖、生きる癖が定着してしまった。
結果として相手の顔を伺って他人に合わせて苦痛を感じながら生きるという自身の人生観が完成してしまった。
そのような形でHSPという自分の気質が今作られている、ということがあるのかもしれない。
認知の歪みを直して、苦しみから解放していこう
だとしたら、その苦しみの要因は体質的な問題というよりは自身の認知の問題だったということになる。
相手が考えていることを考えたり、想像しようとすることで、自分を否定して、苦しみを感じていた、ということになる。
だったらその思い込みを捨ててしまおう。その在り方を、他人ファーストでいないといけないという義務を捨てちゃえばいいんだ。
他人のことを考えなきゃいけない、気にしなきゃいけないというのはただの思いこみだ。
本当はそんな必要はまったくない。それを必要なことだと思い込んでいるのだとしても、それはただこの国が村社会気質的な価値観をもっていて、その中で育ったからそう思い込んでいるというだけのこと。周りもみんなそうだとしても、それはみんながそう思い込んでいるというだけの話しであって、それが正しい何かということを保証してるわけでもなんでもないんだ。
別にそれを守らなきゃいけないことなんてないんだ。自分が苦しんでまでする必要なんかない。自分を苦しめて他人のことを考えたり感じたりする必要なんかないんだ。
苦しいならそれは、やめていいことなんだ。
もちろん、体質の両方もありえる。でもすべて体質の問題にしてしまったら、永遠にその苦しみから逃れられないということになってしまう。
それでは苦しいままで生きるしかないということになるから、無慈悲すぎるし救いがなさすぎる。そんなふうに自分を苦しむ運命だときめつけなくてもいい。
解決できる自分の認知の問題であったほうがラッキーなくらいだと思うんだ。
自身の認知の仕方を見直して、そのくせを捨てていくだけで、その苦しさから解放されてくわけだから。
他人と他人との間に起きている問題に割って入らなくてもいいわけですよ
自分を押さえつけなくていいわけです。自分のことを他人よりも優先してっもいいわけですよ。
最初はなかなか受け入れるのは難しいかもしれない。というのはこうした無意識的な自分の思考の癖っていうのは、治していくまで結構時間がかかったりするから。
でも少しづつ、それに取り組んでいけば少しずつ改善していって楽になっていくことができる。新しい他人を気にしない生活を同じく習慣化していけばそのうちに慣れる。そして苦痛を感じることもなくなっていく。
自身の思い込みは、自分で治せるんだ。自分に無理強いをして他人に気を使っていたり、気にしてしまっていたりしている自分に「そうしなくてもいいんだ」と気づいて、ほっと力を抜いてみよう。
そうすると少し楽になっていく。少しだけかもしれないけど、それを繰り返していっていろんな他人の都合から自分を解放していけば、何れは他人の都合から解放されて穏やかな日々を送れるようになりますよ。
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