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人生に本当は意味なんてない。
人類にとって価値がある人生だとか、意味がある人生だとか、そんな”壮大なもの”は実は存在しない。
確かにものすごくお金持ちで、ものすごく社会に貢献しているという人ならそういう見方もあるのかもしれないけれど、でもそんな人でさえ仮にその人が最初からこの世に存在していなかったとしたら、それはそれでみなその時にあるもので別のことに注目して生きるだけの話しで、別に”困るわけじゃない”。
というのは、人間は単に今あるものを使って生きているだけの生物でしかないから。
今私たちがまさにやっていること。今存在する道具や人間たちを使って生活している。それだけのことでしかないから。
人類に大きな富をもたらした、多くの人を救った。そういうことをしたということに人生の価値がある、というのは全部結果論にすぎなくて、後からそうだったと振り返ることができるというだけのもの。
今を生きている人にとっては今がすべてなんだから、その今が価値があるかどうかなんてどうでもいいことなんだ。
文明を知らない原始人が石器と洞穴と皮でできた服で毎日を暮らして満足して生きていたように、人間は今その身の回りの物を使って生きるだけの生物だから、なかったらなかったで別に構わないのだ。
個人の思い込みというだけの話
そんな、後から意味付けができるというだけの人生の意味、価値というものを、今生きている自分の人生にあるものだと思い込むことなんてのは、ただのその人の思い込みでしかない。
そもそもその基準も人によってバラバラで定まらない。お金だったり、家族だったり、ペットだったり、友人だったり、仕事だったり、趣味だったり、人によってその意味というものを求めるものも、あるいは意味を全く求めないというところに至るまで、全部バラバラ。
その中で優れたもの、こっちの方が人生に価値がある、なんてのは実はなくて、あるとしたらそれはその人がそう比較して、そう見たくて価値があると決めているだけのことに過ぎない。
「オレ、お前の年収、1カ月でもうけてるから、クズ」なんて最近ではお弁当屋さんの店員さんを誹謗中傷した心ない人もいたけど、そんな勝手な「自分の人生はお前よりも価値があるルール」なんてただのその人の思い込み。むしろその人の人生を否定して、その人の生産性を下げてしまいかねない行為ですらある。
むしろそんな風に他人の人生の価値を下げて気持ちよくなりたいだけの自分の人生が価値があると本当に思うのなら、そんな自分のやっている行為を一度客観的に見た方がいいと思うんだ。
結局、全部主観の域をでなくて、思い込みでしかないから、そんな「人類にとっての人生の価値、意味」なんてのは初めから存在すらしてないんだ。
人に称賛される人生=いい人生?
「人生には意味がある。そしてそれは世の中や人間社会にとって意味があるとされているものだ」。
そんな感じで価値ある人生というものをとらえている人は結構いるんじゃないかとは思う。
いわゆる、誰しもが認め、時にはうらやましいとすらされるような人生。他人に承認され、愛される人生こそが人生の意味で、価値なんだ、と思っている人。
ところで、「お前の人生なんて何の意味もない」とか「そんな人生生きてて何の意味あるの?」なんてマウントを取ってくる人は、多分そういう人生観を持った人たちだからこそのものだと私は思うんだ。
人に褒められたいからその人生を歩んでいる。それはつまり優越感を得ることが目的であるから、単に褒めらるためだけではなくて、他人にマウントをとって自分こそが優れた素晴らしい人生を送っているのだと優越感を得ようとすることも、そこに内包している可能性があるということを意味している。
「自分の人生の意味は自分のものでしかない」。そう割り切っている人にとっては、ほかの人の人生の意味は自分のものとは別物で、比較のしようがないということもよく知っていると思うし、自分は自分だと、自分だけで自分のことを確立しているから、わざわざ比較したり他人にマウントを取ってまで自分を優位だと思い込む必要すらもない。
意味すら求めていない人にとっては言わずもがな。
つまり、自己を確立している人たちにとってはマウントをする必要すらないのだから、消去法的に人に称賛される人生を求めている人、人に嫌われないための人生を送ろうとしている人だけがマウントを取る。ということになる。
そういう人からそんなことを言われても、その人はただ寂しくて、自分の人生に自信がないから他人にマウントをとりたいだけの人なのはわかっているんだから、別に本気にする理由もないし、むしろちょっと哀れでかわいそうですらある。
人にマウントを取らないと安心できない。人を見下して自分が人よりも優位だと思い込めないと生きた心地がしない人生なんて、きっとつらい人生だと思うから。
他人を気にする人生は楽しい?
多分全然楽しくないんじゃないかと思う。だってずっと不安だろうから。いつ自分をほめない人が現れるわからないわけだし、いつ”自分よりも上の人生”を生きている人が出てくるわからない。褒められるために自分が苦労して我慢して周りに褒められる生きているのに、その反面で自分よりも楽をしてちやほやされて幸せそうな人生を生きている人が目の前に現れるかもしれない。
ニュースや日常、SNSで出会う他人、見かける他人の中に、いつそんな人が出てくるかわからないから、内心それにびくびくしていて、いつもそれに身構えるかのようにしてみるようになる。だから少しでもそんな人たちの中でなにか”やらかし”たりとか不祥事が発生するとまるで鬼の首でもとったかのように「ざまぁみろ!」なんてその人を必死でたたいて悦に浸ろうとしたりする。
人間関係もどこかひがんでいたりとか、逆に高圧的に他人に接するようになったりもして、人に褒められたい、愛されたいという気持ちとは裏腹に人がどんどん離れていく。
他人に褒められなきゃ何も楽しめない人生。他人の目を気にして苦しいだけの人生。そしてその褒めてくれる人すら減り続ける人生。ただ自分よりも上の人がいるということを見て恐れ続け、自分に嘘をついて我慢し続けるだけしか残らない人生。
そんな人生が楽しいのかどうかを考えてみたら、それは明らかだと思う。
だったらその「人生の価値」とは本当に価値があるんだろうか?
自分がただ苦しい思いをして、つらい思いをして、誰かにマウントを取ったり認められたときだけホットする、そんな人生は、果たして楽しい人生なんだろうか?
生きる価値や意味なんて求めない方が、人生は楽しいんじゃないか?
生きる価値が自分の中だけで完結していることだったら、それはきっと幸せかもしれない。仕事こそが私の人生だ、趣味が私の人生だ、家族が私の生きる意味だ。そう自分だけで思っているだけなら、きっとそれは健康的だろうとは思う。多分…(でもそれをその家族などの他人に押し付けていたらわからないかもしれないけど。
でもそれが他人と比較することで成り立つことだったら、それはきっと不幸なものになる。他人を恐れて他人にマウントする衝動にかられ、イライラしたり他人の目を気にして不安に満ち溢れた毎日にしかならないから。
だったら、そんなの全部捨てて、価値ある人生なんてあきらめてありのままの自分であることを許して気楽に生きてみた方が、ずっと幸せなんじゃないだろうか?
価値ある人生という重りを背負うことをやめたほうが、素直に自分のしたいことができて楽しいんじゃないだろうか。
そうなったらもう他人の評価も目もどうでもよくなるわけだから。目の前のことで夢中になっているだけで十分になる。
そんな単純に幸せを感じられる人生の方が、そんな他人を巻き込んだ複雑な条件を満たしたときしか幸せを感じることのできない人生よりも、ずっと幸福なんじゃないだろうか。
それに、人生の成功者といわれている人たちだって、多分そういう人はたくさんいると思うんだ。
心が自立していて健康だから、自分の好きなことにずっと集中し続けられる。
それはつまり、長い子と同じことを苦痛なく、それもより知的好奇心を持って探求しながら続けることができる精神状態だ。
そういう精神状態で何かをやり続けてきたから、”偉業”を成し遂げることができたんじゃないかな?
ありがとうございます!
評価というものは承認欲求などとも関連の強いテーマなのでより深く理解できました。☺️
参考になってよかったです ^^ ありがとうございます。