人の作り出すものは全て紛い物であり、詭弁、弁論術の域を出ない
真なる評価も、真なるジャッジもこの世に存在しない
全てはこの世のどこかの人間が勝手に作った基準、物差しに過ぎない
そういうもの上で生きようとすれば、たちまちにそれに支配され、不満だらけの、それも不安定な生しか歩めなくなってしまうだろう。
他人に対する負の関心で人生が支配されてしまう
どんな人間にも、どんな理論にも、人はいくらでも「いちゃもん」を付けられる。
先ほども言ったように、評価やジャッジに真なるものは存在しない。
ゆえに人は、なんにでもその穴をつけるのである。
人は何にだって文句を言えるし、いくらでもこき下ろすことができるのである。
自分がそう見ようとするだけで、いくらでも見えてしまうものなのなのだ。
そうやって負の何かばかり見ていると、自分の人生の景色もすべて負と化してしまう。
他人をジャッジして生きるということは、他人に見出した「負」を見て生きるということなのだ。
これでは自分の人生「自分のすること」で生きられはしない。
ずっと他人の負にとらわれることになるから。常に他人の粗探しをすることが日課となってしまう。
習慣化すれば、それ以外に時間を使えなくなってしまうのだ。
評価やジャッジは何のためにあるのか
評価やジャッジは、単なるプロセスにすぎない
そのプロセス自体に意味などない。
何事にもプロセスには、次の結果につなげるためという目的があってこそ、初めて”意味”をもつのである。
その意味とは、もっぱら集団や組織を運営するための方法論として利用するためにあるものでしかない。
法的な場や組織における評価の意味
ある行為が犯罪なのかどうなのかを決めることによって、その対象の人物の処遇を決めることで、次のステップへ進めるためのプロセスである。
会社などの人事評価も同様で、会社でどう評価されることによって、今後のその対象の賃金や立ち位置を決めるために執り行うプロセスである。
つまりこれらの「ジャッジ」には、その集団がする「仕事」において「意味がある」からやっているのである。
評価やジャッジ自体に意義を求めることが承認欲求
次の何かにつなげる、生産的な行為につながる何かのためにしている行為のであって、それ自体に何の意味もない。
しかし、それ自体に自分自身の存在価値、意義、”生きがい”を求めてしまうことが、承認欲求であるといえる。
誰かにどう思われるか、どう評されるか、ジャッジされるか。
それが自分にとっての生きる理由になってしまうことが承認欲求だ。
ただの「他人が作ったプロセスの一部」にすぎないものに意味を見出し、そこに生きようとしているからである。
そうした瞬間、たちまちに他人の作り上げた評価、基準という概念の奴隷としかしてしまうのである。
自分の基準や正義でジャッジするという非生産的行為
そしてそれを自分の生き方にしてしまうと、今度はそれを真似っこして、自分の価値観で他人をジャッジし始めてしまうこともある。
自分の価値観で他者をジャッジしてたたくという行為は、叩くことによってその叩いた本人が気持ちよくなるか安心するためという、
別に誰かをジャッジしなくても当人の中で解決できるような「当人の精神的欲求を解消する」ための行動でしかない。
精神的欲求とは、自分だけでどうにかできるものである。
自分の在り方を変えてしまえば、他人をたたくことは完全に必要のない行為になるのである。
停滞して生きているのと同じ。
何かをジャッジして生きるというのは、「停滞して生きる」という行為と同じでもある。
なぜなら、「その時点の自分に何の非もなく、周りがおかしいのだ」という思い込みが前提にあって行われる行為だからである。
ただ自分を信じて、自分だけを見ているのなら特に問題はないが、他人と比較して自分の正しさを成り立たせようとしているところが、この生き方である。
「自分は間違っていない。自分は正しい。周りが間違っている。自分の方が上。マシ。自分の気に入らないものはすべて悪であり、自分はそんなものに裁きを下せる「偉い人間」だ。」
というようなところだ。
極端な話、他人を下等とみなし、対する自分を完全な存在である神のようにみているわけである。
評価やジャッジ自体に生産性なし
何かを表したり、ジャッジしたりするというのはあくまで「現行の自分の基準」が元である。
つまり、その基準を変えるわけでもないジャッジという行為は、単なる確認作業であり、何の変化もないことから、非生産的行為であるといえる。
それに時間を費やすのはまさに「浪費」といえる。
ずっとそれを続けたらどうなるか。
1年、5年、10年
そうやって得られるものはなんだろうか。
きっと何もないだろう。ただの確認作業なのだから。
そしてそれを続けて気が付けば、周りにだれもいなくなっている。
もしそれに気づいたら、それは非常に耐えがたいものとしてうつるだろう。
なぜなら、承認欲求を求めていてやっている行為なわけだから。
承認欲求を求める人にとって、孤独とは耐えがたい恐ろしいものだからである。
なのに他人が離れていくという、自分が気持ちよくなるためにやっているつもりが、間違いを指摘して他人の神になったつもりが、
実際には嫌われ、嫌悪され、神どころかゴミ以下のように見られ、
破滅に向かっている行為でしかないということにも気づかず。
そういう「みじめな孤独」を見出すことになる。
そうなった人生はまさに「悲惨」だ。
他人をジャッジする人生からリタイアする
そういう地獄を見る必要など最初からない。
その地獄から逃れるのは簡単で、ジャッジや評価に生きることをやめてしまえばいい。
そういう生き方からリタイアするのである。
全ては単なるプロセス。
勝とうが負けようが、どちらでもいい。
人をジャッジするのは、相手より上に立ちたいから、そこを生きる場所だと思い込んでいるからである。
つまり「相手に勝たなきゃいけない」「負けてはならない」という一瞬のすきも見せてはならないというような」完璧主義の思い込みからも来ている。
だから負けることもすべて受け入れて、単なる事象、イベントの一種とみなしてしまう
全ては自分で楽しむことのできるイベントなのだ。
勝ちか負けか、どちらがいいかなどどうでもいいことなのである。
勝ち負けの上に生きている限りは、ずっと他人にとらわれ続けることになるし、どんどん苦しくなっていくだけだ。
だからそれをやめてしまおう。どうでもいいこととして受け入れてしまうのである。
勝負に負けようが、他人に言い負かされようが、論破されようが、そんなものはすべてただの弁論術、詭弁、まがい物なのだから。
人が作ったあらゆるものに、真なるもの、真実などないのである。
全ては、取るに足らないことでしかないのだ。
他人と自分を切り離して楽になろう。
勝つことに意味など見出さなくていい。
誰かをジャッジしなくていい。
そして、そうさせれうことも気にする意味もない。
全てはたんなるプロセスにすぎず、他人が勝手にやっていることで構成されているのだから。
他人が作ったあらゆる基準、あらゆる他人の都合は自分の人生とは何も関係がないのだから。
そういうものをすべて捨てて、ただ目の前のことを楽しんでみる。
そうすると、それらが必要なものでもなんでもなかったことがわかってくる。
ただ自分の目の前のことだけで、人は十分に満足できる
人は「なんらかのすること」をやっていればそれで充分なのだ。
ありがとうございます!
評価というものは承認欲求などとも関連の強いテーマなのでより深く理解できました。☺️
参考になってよかったです ^^ ありがとうございます。