Roni (sinceSpring2013)さんによる写真ACからの写真
他人への期待、義務。そのほかの様々な誘惑。
そんな風にみえる”外”に、そんな”意義”や”意味”を持ったものなど存在していない。
外にあると思うものたち。価値あるものに見えるものは、全て自分の意識、あり方、認知の仕方、目的から生まれているものだ。
外の世界はただの物質世界。人間から見れば、単なる5感だ。それに着色をして、そのように見ようとしている自分がいるだけである。
だからもし、自分の人生に集中したいのなら。
自分のやりたいこと、自分のすることに、本当に集中したいのなら。
そして幸せを感じたい。そこに生きがいが欲しいのなら。
それを邪魔する”外”を捨ててしまえばいいんだ。
外を捨て、自分の内だけで循環する生き方を。
外に習って自分を合わせようとすることをやめる。
そうすればすべての瞬間において「自分のする」で埋めることができる。
そしてその内に、幸せを見出すことで、
自分の内だけで完結する人生を完成させるのである。
外に自分を求める思考形態を捨てる
内側で循環する生き方とは、自分の感覚や欲求、自分が作った目的だけをみて、感じて日々行動していく生き方である。
外の正しさや価値観、都合といったものに自分を見出すことなく、
外は自分の内なる目的を達成するための参考資料、リソース以上の見方をせず、それ以外のほとんどの事象を石ころのようにとらえて、外に自分の価値を感じようとする自分の欲求、認知を捨てていくのである。
そのためには「自分がもっている外に対する何らかの欲求」に気づき、
その都度捨てる必要があるのである
外に対する期待を捨てる
外に対する「こうであってほしい」「こうあるべき」「こうしてほしい」
このような欲求をすべて捨てることである。
捨て続けて残った「常に自分の内側で決めた目標」だけで循環させる。
この習慣をつけていく
外にある”評価”を捨てる。
つまり誰かが自分をどう評価したとか、そういうものをすべて捨てていく。
それを捨てるには、如何にその誰かが自分に下す評価が自分の内側の目的になんら関係がなく、何一つ保証もしていないことに気づくことで
それに対する価値観を捨てることができるようになっていく
例えば「君は仕事ができるね」という「褒める評価」は、例えば自分がこの世界で有能である、どこでもやっていける、安泰であるということを保証することなどないということ。
他人は何も知らずに勝手にそう想像して、思い込んでいっているだけにすぎない。
人間は何も外のことなど知らないのだ。
ゆえにそんな評価は、単なるその人の感想にすぎないのである。
褒められることで得られると自分が思っているあらゆるものは、何一つ得られはしないのである。
これは逆に「君は本当にダメなやつだ」という「否定の評価」も同様である。
「君は最低の人間だ」とかそういったあらゆる”評価”も同じく、自分の内なる目的に何も関係がない。
他人の評価は自分の内に関与できないのである。
関与していると思うのなら、そうさせているのは自分自身だ。
それは自分自身の目的が外におかれているからであろう。
人に褒められること、評価されることが目的にあり、価値があると思い込んでいる。
つまり、外に自分の都合を期待している。外の何かが自分を保証してくれる、安全にしてくれる、幸せにしてくれると思い込んでいるのである。
そして重要なポイントがその期待の形が「他人の勝手な都合が、自分の価値だととらえている」ことにあることである
そこに大きなゆがみが存在しているのだ
何故他人は人を評価するか
自分を表する他人は、そうすることでその当人の都合を満たしたくてこちらにそう言っているにすぎない。
それをありがたがったり、いやがったりする必要などない。
そうやって奴隷を演じる必要などないのである。他人が勝手にしたことに、いちいちこちらが反応する必要などないのである。
一見褒められるというのは、相手が自分を相手本人よりも上に見ているかのように見えることから
優越感のようなものを感じてしまうことがあるかもしれない。
しかし事実は、大きく異なる。
まず相手は「褒めるという手段」を使ったに過ぎない。
褒めることそのものが目的なのではない。褒めてこちらを気持ちよくさせることが目的なわけではない。
相手のなんらか目的を満たすために褒めるという手段をつかったにすぎない。
そんな他人の都合100%の手段でしかないものに自分が折れてしまい、「褒められることで舞い上がる」という行動を選択しているのである。
そしてこれは、その瞬間自分の持っている自分の内なる目的を殺し、代わりにそう行動する、感じるように選んだということなのである。
けなされることに対しても同様。嫌味を言われる、バカにされる、論破される、否定される。
そういうものを聞いただけで自身がもっていた欲求をへし折り、「屈する」「自己否定」するということを選択、感じようと自分が選んだのである。
相手に懐柔されているだけ
それはつまり相手に「褒める」「けなされる」という弁論を気いたことをきっかけに、自分自身を自分が懐柔したことを指すのである。
自信を他人のもとに懐柔し、他人の言うことに自分が”操られる”ことを自分自身が選択したのである。
裸の王様を知っているだろうか。あれとよく似ている。
外に期待をかけるということは、このようにいろんな他人を使って自らを懐柔し続ける人生を選択することに等しい。
だから本当に自分の純粋な目的、屈することもない折れることもない自身の目的をもつためには、
このような外に対する期待を全て捨てる必要がある。
外を捨てる必要がある、ということである。
外を気にすることを捨てる
外をいちいち参照して正しさを求めるということは
全く内の自分に貪欲になれていない証拠である
内なる閉じた目的を持っていない証拠だ。
つまり「本気でやりたい何か」という定義ができていない
いや、「本気で何かをしたいと思うことができる思考形態」になっていないのである。
外を完全に捨てることができれば、注力できるのは自分の内側のみとなるはずだからである
それを外に求めるのは、そうして作り出した自分の目的を誰かに認めてもらおうとする癖であり、その本質は「それでやめていい」という許可を欲しがっている証拠
つまり「本当はやりたくないこと」なのである。
「外からもたらされた課題のために投じるコスト」であるという風に自分のやりたいことをとらえている証拠である。
外を気にする限り、純粋な自分の目的など持てない。
外という自分以外の都合にゴールを定める時点で、それはすべて「外に気に入られるための目的」になってしまう。
そんな目的意識で、本当にやりたいこと、情熱を燃やせることなど作り出せないのである。
「外を気にしない」ことに対する恐怖を捨てる。
外を捨てるには、外を気にすることで保証できると思っていた安全の思い込みも捨てる必要がある。
それは、外を気にしないと恐ろしいことが起こる、恐ろしいことに備えられないという思い込みからくる。
それも捨てる。単なる思い込みにすぎない。
人の人生に保証はない。
ないものを恐れること、保証がないことを恐れることが思い込みなのだ。
欲しい安全は、常に手元にある。
それを外を使って否定し、不安を作る必要などないのである。
外のために頑張ることをやめる
何らかの外の都合のため、他人のために目標を設定し、がんばることをやめる。
自分の目的のために生きれば、頑張る必要はなくなるからである。
頑張る、必死になるというのは「我慢」を強いるようなものだ。
その我慢を強いているのは一体何か。焦りを生み出すのは何か。
何のためか。
それは大抵、他人との比較によって生まれている。
そういうもののために自分をつかわなくていい。
外のためにがんばらなくていい。
他人のためにがんばらなくていい。
外、他人に対して必死にならなくていい。
外にあるもののために自分を消耗することをやめてしまっていい。
外のために自分に嘘をついて目的をつくらなくていい。
外を捨て、内を”ビルド”する
よって、どんな外の何かに自身を懐柔することをやめることで、外からの影響に対して何も感じない自分を作り出すことができる
これによって、外によって気が散ることもなければ、自身のやる気の減退を依存させることもない、外に対して閉じた自分ができあがってくる。
自分の内なる目的を達成することだけに時間を使うことのできる精神性を獲得するのである。
自分の感覚を外に感じようとしない。
人が本当に欲しいものは、最終的な自分の感覚だ。
何かをすることで感じるなにか。安心感、興奮、愉快さ、そういった感覚たちがほしいのであり、すべてはそれを達成する手段なのである。
だからその感じようとするその手段の構成から、外を捨てればいいのである。
全て自分がすること。しているときの自分の感覚だけで閉じればいいのだ
内側に閉じさえすれば、それが自然と自分の「本気でやりたいこと」となる。
本気でやるというのは外のためにやることでも、外に自分を置いてやることでもない。
常に自分の内側だけを聞いて、感じて、それだけで完結する精神で事に当たること。
それさえできれば、その対象がなんでもあっても全て「本気でやること」に自然になるのである。
本気とは、外にあるものに執着することをやめ、
内側の自分だけで完結する体感を会得した在り方そのものなのだ。
外に対する信用、感覚や価値、自身の価値のようなものを置くその認知。
外に求め、外に身を置こうとする認知
それを捨ててしまえばいい。
外にある偶像たちを全て捨ててしまえばいい。
内側にある形なき自身の意思と目的だけで自分を燃やし続けていけばいいだけだ。
外に対する信用を完全になくしてしまえば外に対する関心は大きく下がり、自分の内側からあふれる欲求の感覚を聞くことができるようになる。
それだけでよくなる。外は必要なものでなくなる。
集中力を阻害する外を捨てる
内の自身を妨げる、殺してしまう、
つまり自分のすることを妨げるなにか、集中力を妨げる原因は。この外に対する信用の高さも影響している。
自分の内なる感覚や欲求を信頼しなければしないほどこの状態に陥る。
外の方がおもしろい
外の方がたのしいものがたくさん
外の方が自分のそれよりも優れている
外の方がマシ
そうやって外を肯定し、内なる自分の感覚を否定しているのである
自分の感覚だけを”聴け”。
形泣き自分の感覚のすべて
そういうものを外のものでごまかすことをやめる
ただ感じる。そして集中する。
自分の内側を活性化する。それを目的にする。
自信の内側に対する信用度をあげるには、自身の感覚を良く感じることであがっていく。
その内側を活性化するには、それを「よく聞こうとする」「良く感じようとする」ことでできる。
それに集中していけば、外のものなどすでに単なる5感になっているはずだ。
内なる自分で、穏やかに
外のために自分を使わなくていい。
自分のために自分を使おう
自分の感覚のために、目的たのめに、
そうやって自分の恣意性を高めていく
余計なもの、自分に苦痛を生み出すもの。自分に合わないもの。
そういうものを臆することなく捨てていっていい。
外に縛られようとしなくていい。外は外で、ただ物質的に存在しているだけだ。
穏やかに、健やかに。
そういう”自然”に自分を作り上げる。
そうしていけば、心穏やかな幸福感を感じながら、自分のすることだけに何かをする自分を作ることができる。
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