「甘え」は楽に見えて実は苦しいだけです。





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他人に許されたら安心できる。

他人に褒められたらうれしい。

他人に許されて、そんな他人に囲まれて、好かれて、尊敬されている時は幸せだと感じられる気がするんだと思います。

でもそれを求めている間はどうでしょうか。つまり、それを得られず、誰からも好かれず尊敬もされず、何も与えられていないときです。

特に好かれると思って、褒められると思って何かをしたのに、何も反応がなかったりしたときとかはそうじゃないでしょうか。

それはとても不安だったり、とても苦しいかったりはしませんでしょうか?

他人から与えられることに焦がれ、孤独を感じ、抑うつ感や自己否定感を感じ、「自分には価値がない」とか「自分の人生なんてもう意味がない」とか、そんな風に感じてしまったりはしないでしょうか?

こういう感じの、他人に自分をこう思ってほしい、決めてほしいっていうタイプの甘え、自己愛的な甘えって却って苦しいことが多いです。

誰かに抱き着いて甘える「甘え」とは違います。それは自分の「甘えたい」という自分から行動したい意思によるものですから。その根本が異なります。

自分からしたいことではなく、誰かからされたいというタイプの甘えのことです。誰かや何かに期待し、すがろうとしてしまっているがために自分が苦しい思いをしているわけですしね。

他人に期待し、他人に承認されようとする自分の心自体が、苦しみを作り出しているわけなんです。

甘えは実は結構苦しい

他人に期待したり、他人に愛されようとしたり、他人に自分の人生を決めてもらって保証してもらおうとして生きようとすることは、一見楽に見えるかもしれません。

自分で考えなくても他人が代わりに考えてくれるし、その他人が考えたもの、与えるものにただ従ったり、受け取るだけでいい。ただその誰かや社会が決めたことに自分を合わせていれば、それで周りから認められるし、自分の人生が保証されるような気がします。常に他人の都合に沿おうとしますから自分で決めたことで嫌われた利することもないと思えますし、楽そうで簡単そうにも見えますしね。

それでもし何かがあったとしても、その人や社会に何とかしてもらえばいいと思えるし、なんだったらその責任を押し付けることができる気もするので、気が楽だと感じます。

だからその保証のために誰かに好かれて、誰かに認められることをして、嫌われないように生きたくなる。楽な生き方であると感じるから、そう生きたくなりますよね

でも実際のところは思っているよりもずっと楽じゃなかったりするんです。

というか実際そう感じてはいないでしょうか?

誰かの言う通りにしてもそれで自分の人生が保証されるわけじゃない

いくら自分が他人や社会が求める都合を満たして、認められる自分を作り出したとしても、それで彼らが自分のことをお返しとして守ってくれる、保証してくれる、好きになってくれるとは限りません。

他人や社会の言った通りに何かをして、”普通”に生きて、常識的な自分を演じて生きても、それで万人に好かれたりとか、そう生きた責任や今後の人生の保証がされるわけでもありません。そう生き方変わりに誰かが自分の人生の面倒を見てくれるとか好きになってくれるなんて契約をしたわけではないですからね。他人はただ他人の都合で生きているだけですから、自分の思惑とは裏腹であることはよくあるんです。

自分の人生の選択はたとえそれが他人から言われてやったことであったとしても、それを他人に押し付けたり責任を求めることなんてできませんし、求めても誰も取り合わないでしょう。

自分の選択を他人を使って正当化したとしても、それで自分がそれを選択したという事実が”清算”されるわけでもなく、悪魔で自分が最終的にそうを決めた、という事実でしかありません。

例えば自分が他人に言ったことでその他人の人生の責任を取ろうとなんて考えもしないんじゃないでしょうか。「こうすれば必ず報われるから今は我慢するんだ」だみたいなことを言っても、それで(あなたの人生の全責任は私が取るから!)だなんて考えては言わないと思います。

むしろ「(自分以外の誰かがその我慢を見ていて、それに報いてくれるから)」というような他力本願的なものではないでしょうか。

その誰かって誰なんでしょう?いつ誰がどう報いてくれるんでしょうか。

多分何の具体的イメージもないと思うんですよね。

そして、もしそれがほかの人もそうだったら?みんながみんな、「自分以外の誰かが見ていてそれに報いてくれる」と思っていたら、そこには実在する報いてくれる人なんていなかった、ということになります。

ただの曖昧な神頼みでしかなくなってしまいますね。

無理ですよね、他人の人生の責任をもって何かを言うなんて。ただの神頼み、願掛けに過ぎないのですから。皆自分の人生や都合で精いっぱいなわけで、他人の人生にずっと応えたり、背負うなんて最初から無理ですし、一生その他人の都合につきっきりなんて無理なんですよ。それが人間で、生物で、誰かの選択の責任なんて誰もとろうとなんかしませんし、取ることもできません。

ただ他人の都合で使われる自分が居るだけ

結果、実態としてはその期待は空振りに終わっていて、ただ他人の都合に自分がただ合わせて人生を選択して、その人たちの都合で自分が使われただけです。自分が勝手に期待してその期待のために我慢しているだけ、

そこには何の救いもない。救いがあると思い込んでいる自分がいるだけです。

他人の愛も他人の気持ちも、他人の承認も、突き詰めれば単なる自分の妄想にすぎませんし、全く知らないどころか感知すらできない他人の気持ちを自分の妄想で決めつけて舞い上がったり落ち込んだりしているだけです。他人の頭の中にあるそれを、自分は何一つ感じていない以上、それに対して自分がしているのはただの妄想にすぎません。

それにいくら他人に尽くしても、他人もこちらの頭の中のことなど知らないわけですから、単に他人自身の都合を実行するだけです。

こちらに興味がなければ見向きもしませんし、こちらと付き合って何か不利益を感じたら関わろうともしなくなります。常に自分本位、自分の欲求に充実なのが人間、生物というものです。

そんな現実の他人と自分の描いている他人という理想とのギャップを感じたときに、不満はたまっていきます。

「ずっと我慢して会社のために尽くしてきたのにクビになった。その仕打ちがこれかよ

「誰も私の苦労に気づいてくれない。いたわってくれない。冷たくされる。嫌われる。白い目で見られる。どうして誰もわかってくれない?なんで自分がこんな目にあわなきゃいけないんだろう?

「どうしてこの人はそう考えるんだ。こう考えることこそが正しいのに、イライラするな

というような他人に期待した自分の欲しいものが得られなかった結果の不満が生まれてきます。自分がかけた他人に対する労力に対して与えられるべきだと思っている自分の理想がかなわなかったとき、妬みや憎しみといった感情がうまれ、他人が憎くてたまらなくなってきます。

楽さを求めて他人に期待し我慢し続けても、現実はそれに裏切られただ生きづらさが増していくようになってしまうわけですね。

そもそも他人の都合にこたえ続けること自体、そんな簡単なことじゃない。

簡単どころか、正直に言って全然楽じゃないんですよねこれは。きついとすらいってもいいくらい。

だっていつも他人の都合を第一に考えているわけですから。他人の都合が自分の都合。それってつまり、他人の都合で自分の都合を上書きしてしまっているわけです。

自分の都合を犠牲にして、自分の素直な欲求に我慢を強いて抑圧し、代わりに他人が用意したことをだまってやるのですから。常に自分に何かを無理やり強いて苦しめながら行動して生きていることが日常になっているわけですから、実際は楽な時間よりも自分を抑圧して苦しめているつらい時間の方が圧倒的に長いわけです。

例えば会社で嫌われたくない、好かれていたいという気持ちのためにひたすら他人の言うことを聞いて、おとなしく働いていたとして、その企業がブラック企業だったらまさに地獄です。

長時間労働、サービス残業を強制され、しかしそれに文句を言うことはできない。だって文句なんかいったら嫌われてしまうから。もしそれでクビになってしまったら正社員の地位もなくなってニートになって社会的地位も失う。

それが怖い。保証を失うのが怖い。他人にバカにされるのが怖い。他人に愛されなくなるのが怖い。

他人に甘えられなくなるのが怖い。他人からの期待に応えられなくなって与えられなくなるのが怖い。誰も自分を見てくれなくなるのが怖い。

だから会社を辞められない。それにすがるためにどんなにきつくても、体に無理をしてでも続けてしまう。

そして最終的に身も心もボロボロになり、結局はやめざるを得なくなって完全に打ちのめされた現実に絶望した再起不能な自分が出来上がるわけです。

他人に期待し、甘えようとすればするほど、自分に我慢を強いて苦しめ破壊する構造なわけです。下手をすればそれで破滅すらしてしまう可能性もあるんです。

他人に褒められたり承認されたりするまではずっと我慢し続けなきゃなりません。そして褒めれられても、そんな瞬間はその我慢している時間に比べたらほんの一瞬に過ぎない出来事です。

さらにそんな自分が払っているその犠牲、我慢に対して裏切りを受け、なぜ誰も自分に「お返し」をしてくれないんだ、となると他人が信用できなくなって、他人が怖くなってきます。

「こんなのおかしい、理不尽」だ、と感じて不満をためて、さらに生きづらさが増して苦しんでしまうことになります。

全然楽な生き方じゃないんですよ。

自分が応えていると思っている他人の期待は、自分の思い込みかもしれない

そもそもの話、自分が本当に他人の期待を理解しているかどうかすらも実は不確かなものです。だって他人の頭の中のことなんてわからないですから。他人が実際には何を期待しているのか、その期待している他人の頭の中に描かれているものなんてわかりっこありません。

だからその見返りが返ってくるかということすらも既に曖昧。見返りを用意しているのかどうかもわかりません。

相手のためだ、社会のためだ、周りがそういうから、普通のことだから、常識だからといってやっていることって、本当にそうみんなが思っていて求められていることかどうかなんてこと自体がすでに不確かなのです。

見返りを誰が与えてくれるのか。本当にそのお返しをしてもらえるのか。それはいつ、どこで、一体どんなものを?それについて何も確認せず、何の話し合いも約束事も、契約も何もしていないものなのだとしたら、それは自分の個人的な主観に基づくただの妄想勝手な決めつけでしかないんです。

「これだけやったんだから当然見返りがあるに違いない」自分ルールを勝手に期待しているだけでしかないわけです。

人は皆最初から最後まで自分のことしか考えてない

「人はみんな、誰かのために生きているんだ」

「褒められる人間になることがいいことなんだ」

そんな風に考えている人もいるのかもしれません。それはそう子供のころにそれがいいことなんだと大人たちから教えられたからかもしれません。

でもそれ実は、嘘なんですよ。本当はみな自分のために生きているだけです。自分の欲求を満たすために生きている。人間に限らず生き物なんていうのはみんなそんなものです。猫なんかはわかりやすいですよね。いつも自分の気持ちのいいことを求めていますし、社会性をもつ人間の感覚に近い犬も、自分が気持ちいいことを求めて飼い主の言うことを聴いたり仲間をなだめたり群れや家族の空気を良くしようとしたりしているだけです。

「他人のことを常に第一に考えて生きている」、そう思っていたとしても、なぜ他人のことを第一に考えようとしているのかといえば、「自分が他人に好かれたい、嫌われたくないから」という欲求が第一にきていたりするものです。

あるいは「自分の良心を満たすため」「平和な社会を作りたい(それによって自分の生活を豊かにしたい)」とかでしょうか。でも全部最終的にはこうしたい、こう感じたいという自分の欲求なわけです。

「あなたのためを思って言っている」なんて言い分も、実際にはその人が安心したいがために言っていることにすぎず、”自分から見て間違っているように相手”を自分の都合で説得して、自分を安心させようとしているだけでしかありません。「あなたのため」なんていう相手の頭の中にある都合なんか本当は何も知ってはいないのですから、とんだあてずっぽうでしかありません。

結局みな、自分の欲求でしかない。最初から人間は自分の「したい」という欲求でしか動いちゃいません。

他人に期待して欲しがる「されたい」というのも、他人から与えられることで、自分が何かを「感じたい」と思っているからで、結局ただの自分の欲求でしかないんですね。

自分が自分の欲求を常に最優先事項としているように、他人だって他人自身の欲求を最優先事項としているわけです。

だから他人に自分の都合を満たしてもらうことを期待したところでそれはすれ違うものです。”自分の都合と他人の都合のミスマッチ”なんて、現実の世界ではごく自然的な話でしかありません。もともとマッチするようなものでもなく、それぞれが個別に独立して存在する欲求にすぎないものです。

だから「こうしたらこうしてくれる」という理屈は、現実のものでは全くないのです。何か契約書でもない限り、法的拘束力のような巨大な力の効く何かでもなければ、そこには何の強制力もない以上何も保証されておらず、ただの自分の妄想、決めつけでしかなく、それに裏切られることは別におかしなことでも何でもないんです。

他人の都合を満たそうとすればするほど人生はつまらなくなる

他人に期待して他人の反応待つ人生、他人に依存した甘えの人生を送っていると、苦しいだけではなくつまらない人生にもなっていきます。

常に受け身的になってしまい、自分で何かを主体的に楽しもうとしてもできなくなってきます。他人から何かもらうことを期待して好かれたり褒められるためでしか行動することができなくなるからです。

それ以外に行動する理由、動機ができなくなってしまうのですよね。

他人の都合を満たすために行動するということは、他人の都合がなければ行動してはいけないと思い込んでいるようなものです。

自分の素直な気持ちに嘘をついて、蓋をして生きることが普通になっていますから、自分で何かを純粋に楽しむことができなくなってしまうんですよね。

仮に自分で何かをし始めても、今自分がやっていることは果たして誰から評価されることなのか、必要とされているのか、ほめてくれることなのかということばかりが気になてきます。やがて罪悪感や不安におそわれて全く目の前のことに集中できなくなるようになっていくんです。

だから何かを始めようとしても続かない。集中できない。何かをしていても常に人肌を求め、自分を愛してくれる人を求めて、人に依存し、SNSに依存して、すぐに目の前のことを放り出してしまう。

実際一人で何かをしている能動的な時間は圧倒的に少ないのに、受動的な娯楽にかけている時間はどういうわけか圧倒的に長かったりはしませんか?気づけばSNSを眺めるのにまる一日時間を使ってしまった、なんてこと、あったりしないでしょうか。動画サイトで一日をつぶしてしまったりとか。それはSNSでなら自分をほめてくれたりする誰かがいて、それを期待できるからやるんですよね。動画なら動画が勝手に流れて勝手にコンテンツを提供してくれます。

そういうもの以外しか続けられなくなるわけです。

何事も他人の都合や他人から与えられるものがなければ続けられなくなる人になってしまうわけです。

他人に褒められることしか頭に描けず、今現在自分がしていることを否定してしまうために、「楽しむこと」が全くできなくなってしまうんですね。

例:絵を描くこと

例えば、甘えの生き方をしている状態で趣味で絵を始めようとしたとします。

てもほとんど続かないんです。

なぜならうまく描けないから。「うまい絵を描いて誰かから褒められる」という条件を満たせないからです。

褒められるために絵を描こうとしてしまうからですね。

全く絵を描いたことがなければ当然、そんなうまい絵なんてものが描けるわけがないですよね。そういう絵を描きたいなら練習が必要ですから。それまではまるでミミズがはったかのような、それこそ下手っぴな絵しか描けないでしょう。

そんなうまく描けない自分を目の当たりにしたとき、それで自分が否定「されている」ような気がして、絵を描くという行為が一気に苦痛に変わってしまうんです。

それで自分がやっていることが無駄なことのように感じられようになってしまい、手が止まってしまうんですね。最終的には不満ばかりがたまって絵を描くことが嫌いになってやめてしまったりします。

こんな感じで、他人の都合で生きて甘えようとすると、自分で決めたことを続けられなくなる不満だらけの人生になりがちなんです。

自分で決めるとずっと楽でずっと楽しい

反対に、他人に対する一切の甘えをもたない、「自分で決めて自分で行動して自分で楽しむ」という人生はとても気楽で楽しい人生になっていきます。

他人の都合も世間の目もすべて気にすることなく、気楽に自分の好きなことに何の違和感もためらいもうしろめたさもなく時間を注ぐこむことができるからです。

絵を描くことも、それがどんなに「下手」だろうが、「上手」だろうが全く関係ありません。ただ描いていることが楽しいのです。下手か上手かというジャッジの意識すら描いている最中にはない。

そういうものは絵を描き終えて「次はどうかこうか」と振り返った時の反省の時にしか意識されません。そしてそれはすべて次の「目標」という形に変換されていきます。

次はこうしてみよう、ああしてみようと、新しいやりたいことになるだけ。単に自分が常によりよく自分の描きたいものを描きたいしたいという欲求の元になるだけです。そこには自己否定感も何もありません。むしろ次に遊べる新しいおもちゃという感覚です。

全ては今を楽しむというだけのため。手を動かし続けている今という瞬間、今描いていることだけにフォーカスして、その世界で自己満足し、完了し続ける、そんな純粋な自分の気持ちだけがあるだけ。

その自己満足だけで存分に絵を描くことを楽しむことができるようになるわけです。

自分で何かを本気で好きになるというのは、自分独りで周りの目なんて気にせずに好きだと思えることなんです。

人を愛することも、仕事に夢中になるのも、何かを楽しむのも。

誰かや何かを本気で好きになれるのは、甘えを捨てた心でこそなんです。

幼児の心にある大人の心

そういう意味では生まれて全く日がたっていない幼児というのは、実は割と大人だったりするのかもしれないですね。

なぜなら、自分で自分のやっていることに夢中になって楽しむことができているから。彼らは人と自分を比較するということを知らないし、それに価値があるなどという思い込みももっていません。

だから目の前のことを純粋に楽しんで、あんなふうに楽しそうに、無邪気に笑えるんです。余計な雑念がないからこそ彼らはたとえその絵がどんなに下手っぴでも、楽しそうに描く。クレヨンでも与えれば、その色選びが”ふさわしくなくても”好きなように色を選んで描きたいものを飽きるまで描き続ける。

そう考えると、大人になって甘えという思い込みをもつというのは、ある意味では「退化」とすら言えるかもしれません。

「童心に帰る」という、大人が無垢な子供のころの心にいったん立ち返って純粋な自分を取り戻す意味を指す言葉がありますが、あれはそんな大人に成長して心が「退化」してしまったそんな自分をもとに戻すという行為だといってもいいかもしれないですね。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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