「お前気持ち悪いんだよ」
「なにかんがえてるかわかんねーやつw」
「ぼーっとしてんじゃねぇよ」
「なんで来たんだよ?ずっとひきこもってりゃよかったのに」
「みんなお前のこと嫌いだよw」
「ほんととんま。うっとしい」
「めんどくさいやつ」
「俺お前のこと苦手だわ」
これは私が小学生と中学生のころにいろんないじめっ子たちから言われた言葉たちです。
私はずっとこの経験がトラウマになっていて、自分は劣等で弱くてダメな人間なんだとずっと思いこんで生きてきました。
さらに親にも似たようなことをされて生きていたがために承認欲求の塊みたいな存在になって生きづらさがピークに達し、うつ病まで発症してしまったのですが、
いまではそのようなトラウマ、思い込みたちを捨てて気楽に生きられるようになっています。
そうです。トラウマはどうしようもない存在じゃないんです。
捨てられます。トラウマは一種の思い込み。捨てるのが難しく感じるだけで実際はそのトラウマの正体を知ってしまえば案外簡単に捨てられることもあるのです。
というわけで、ここでは上記でも挙げている「いじめによるトラウマ」を例にしてその解説と解消について書いていきたいと思います。
過去にいじめっ子に言われた暴言や中傷が、ひょっとしたら今の自分の無意識の劣等感を作っているかもしれない。
その思い込みは、そもそもいじめっ子は一体どのような存在だったのか、そして彼らがいじめる相手に言った言葉の正体とは何なのかを知っていくことで解消されて行きます。
そしてその思い込みを最終的に自分の劣等感から取り除くことができれば、楽に生きられるようになっていきます。
目次
なぜいじめっ子はいじめをするのか
これはすごく単純な理由で、自分に自信がないからなんですよ。意外な事実かもしれませんが、この記事の冒頭に書いたいじめっこのセリフを見ていただけるとなんとなく見えてくるんじゃないかと思います。
みんな「他人にマウントを取ること」が目的になっています。相手を下に見て、自分はこいつよりましだ、ということを思いたいがための言葉たちなんです。
常にマウントを取らないと落ち着かない性格をしているわけです。というのも、自分に自信がある人は他人をいじめるよりももっと別のこと、例えば部活や友達と遊ぶことなど、楽しいことに時間を使っているはずだから。
自分の前向きな気持ちよりも、後ろ向きな自分の気持ちに関心が彼らにはあるのです。
だから彼らは人をいじめること、自分よりも弱い人を見つけて見下し、屈服したいと思いマウントを取ることを選んでいるわけです。
他人よりも自分は優れていると思いたい、誰かを支配できていないと落ち着かない。誹謗中傷の心理と同じですね。
こうなる理由はその当人の家庭環境によるところが大きいです。おそらく自分自身が既に親にマウントを取られている環境、自分自身を否定され続けている環境、
つまり毒親に育てられている環境があり、それで親の真似をしているわけです。
親が自分を恫喝し、脅迫し、支配することで言うことをきかせようとしてくる。常に自分の存在を否定し、時には暴力すらもふるうことも。
そのように親との人間関係を構築した人は、人間関係の基礎が「支配関係」になります。他者は自分を支配し攻撃しようとしてくる敵か、自分に屈する奴隷か。その二択になるわけです。
人にとって人間関係を学べる多くの機会は自分の親から。自分でそれを見直さない限り、幼少期の頃の親子関係によってその世界観がほぼ構築され変わることはありません。
なぜなら幼い子にとって親という存在は最も身近で最も接する機会や時間が格段に多い「他人」だからです。
だからそれが基礎になります。それがその人にとっての世界のあり方になってしまうわけです。それを信じて疑うことはない。
だからその子もそれが普通だと思い込んで、誰かを支配しようとして、その手段として自分よりも弱そうに見える誰かを選んでいじめを行うわけです。
ゆえに彼らは自分を恐ろしく強そうな自分に見せようとしているその傍らで、実は激しい劣等感の葛藤の中にいるわけです。
彼らは実際には必至なわけです。誰かをいじめている時に彼らは笑っているかもしれませんが、あれは自身のそんな他者に対する恐れを基底とした笑いです。自分よりも弱い人が傷つくのを見るのが愉悦だ、というのは、自信の劣等感を刺激されるために生まれている笑いの感情なのです。
だから彼らは本人でも気づけないくらいに実は必死で、自分よりも弱い人を探している。だからいじめをすることができる人にそれだけ執着するわけです。
いじめっ子はただ当人の都合”だけ”でいじめただけ
つまり何が言いたいのかというと、あなたがもし過去に誰かからいじめられた経験があっても、それが「あなた自身が悪かった」とか「あなた自身が劣等であった」とか、そういったことは何一つ意味などしていなかった、ということです。
いじめる側はただ当人の支配欲を満たしたいがために、あの手この手でどうにかあなたを下に見ようとし、あなたを使っただけにすぎない。
あなた以外でも誰でもよかったのです。当人からみていじめることができそうに「見える」ならだれでも。
それだけのことでしかなく、自分が本質的に劣等であるとか、生きていてはいけない存在だからだとか根本的に間違った存在だとか劣っている、弱い存在だとかということをいじめる側が知っていてやった、なんて事実は全くありません。
全ては彼らいじめっ子の都合に合わせたただの思い込みによる、ただの劣等感を基底にしたパフォーマンスにすぎなかった
いじめっ子から張られたあらゆるレッテルは、すべてその人の個人的感想にすぎません。それも支配関係という世界観と当人の劣等感というものをもとに生まれた、ただのその人特有の世界観における感想にすぎません。
これは逆に、誰かにすごいとかかわいいとかかっこいいとか言われても、それ自体は自分自身のことを何一つ本質的にそうなのだということを保証しないということと同じことです。
そんな弱い彼らの口から出た言葉を本気でとってしまっているとしたら、それも思い込みです。
彼らに何等かの劣等感、コンプレックスを植え付けられた記憶があるとしたら、それはすべてただの思い込みです。
全く本気にする必要はないものなんです。ただその当時の時はきっと、いじめという暴力を前に彼らの前に屈せざるをえず、従う選択以外になかった。
そして従うために彼らの言い分をのみ、”本気にし”、彼らの言うところの「気持ちが悪いやつ」とか「不細工」といった言葉をうのみにせざるをえなかったのです。
その言葉はもうすべて捨ててしまっていいんです。彼らは何の根拠も実はなく、ただいじめられそうな理由を彼らの頭の中で適当に思いついたものでしかなく、それをさも真実っぽくほかの取り巻きなどを使って演出していっていただけにすぎなかったのです。
だからいじめっ子の言葉を受けて自らに埋め込んだその劣等感、自分は弱い、ダメなやつ、ぶさいくなやつといった様々な思い込みたち、
そのすべてを捨ててしまっていいのですよ。
“最初に思い込んだ劣等感”を捨てていこう
思い出してみてください。いじめっ子にあるいは上司や親などから初めてあるひどい言葉を言われた時のことを。それはつらいことかもしれませんが、その時に初めて感じたその言葉を自分が受けたときの気持ちと感覚。
それを思い出してみて、その上で「そう感じる必要はなかったんだな」と思い直してそれをすべて捨ててみてください。
あの時にそう自分に思い込ませたその瞬間を捨てるんです。自分を否定しなくてよかったんだなっていうことに気づいていくんです。
そうすると、自分がある劣等感を感じることを決めたその瞬間を捨てる、つまり劣等感を形作っている最も基礎の部分を捨てるということにつながります。
そうすると芋づる式でその上に思い込んでいった様々な劣等感も消えていくでしょう。
いじめだけでなく、親に言われたことや会社で上司に言われたことなどもすべて当てはまると思います。
他人に言われた何か。他人から受けた評価。そういったものたちです。
それをいつどう受けて、どう思いこんでどう感じることを、自分が“決めた”のか
それを知って、捨てていけばいいんです。
ぽっかりとあいた「心の穴」
ひょっとしたらそれを捨てていく過程で自分がどこか空っぽになったかのような、空虚な感覚があるかもしれません。自分の中に合った他人に対する劣等感の存在が消えていくと、そこにかつて意味のようなものを感じていた感情や気持ちがなくなっていくこともあります。
でもそれは、元々自分自身そのものの感覚だったんです。それを否定していたから、他人でそれを埋めようとしていた。
その感覚は否定したり悲しんだりしなくてよくて、ただ肯定していいのです。この感覚が自分自身だったのだと。
それを優しく受け入れてみてください。
そうすれば本来の自分を取り戻していけると思います。
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