毒親”2世”になってしまう人




もうすっかり世に浸透したこの毒親という言葉。この言葉は自分の親がどういう親であったのかということを客観的に知る、気づくための言葉としてとても有用な言葉ですよね。

親だからとか、親の言うことは絶対とか、そういった「親を絶対視しなければならない」という思い込みから抜け出すキーになりますし、毒親から受けた教育によって自分の認知が歪んでいるのではないか、という自己分析もできます。

自己分析は自分の内面や思考の無意識を知って、そこから自分を苦しめている余分な思い込みや考え方を捨てるために、自分を変えるためにもとても大事なことです。

でも毒親に育てられたことで自分が作ってきたその性格や価値観をただ正当化するために使ってしまうと、

単的にいえば、その毒親と同じ毒親になってしまいます。

というのは、私自身が少し前まではそうだったからなのです。私の親は毒親、特に母親がそうだったのですが、当時は「自分をこんな風に育てたのは母親のせいなんだ」と憎み、毎日毒親関連の本や情報をネットで探しては憂さ晴らしをしていました。

そんな毎日を送って気づかないうち、いつのまにか嫌いな母親と同じような性格になっていることに気づいたのです、いえ、既に母親を毒親だと責めていたあの時からずっとそうだったのでしょう。

母親と同じ、他人を自分の思い通りに支配できないと気が済まない人間だったわけです。

他人に不満をため込む性格

「皿くらいあらってくれてもいいでしょ。なんでこんな簡単なこともしてくれないんだ」

「気が利かない。これくらい察してよ」

「これだけしてあげたのに、何で何もお返ししてくれないの」

「私の親は毒親。親から愛されずに育ってとても苦労した。だから健常者の人たちみたいにはなれないし、私の気持ちなんてわからない」

毒親に育てられた人って他人のせいで自分は苦痛を感じているんだ、という感じの不満をためがちだと思います。それも口に出さないでため込んでしまう人が多いんではないかとも思います。でも実際のところ、他人のせいで感じる精神的苦痛なんていうのは、実はなかったりします。他人に感じさせられているのではなく、自分が他人を使って苦痛を感じている、というのが精神的苦痛の正体だからです。

毒親というコンプレックスに持っている人って全体数でみればきっと多くはないですよね。ネット上でなら見つけるのは多少容易かもしれませんが現実の人間関係でとなるとなかなか難しいですしね。口に出して話題にすることすら難しいトピックですし。

だから現実のいつもの日常では孤独なことが多くて、誰からも理解されなくて、つらくてしょうがない。

だからいつも誰かに自分を理解してほしくて、優しくしてほしくて、自分を傷つけない発言や態度、行動を他人に求めたりします。それが例えば先ほど挙げたSNSとかですね。

SNSの同じ境遇の人たちならともかくですが、メインの現実の世界の他人たちってそんな自分の気持ちに無頓着なことが多いんじゃないかと思います。むしろ「そうやって親を悪く言っても何も変わらないよ」と正論をいわれてしまうことすらありますよね。

そんな“気遣いのないことを言う人”に対してさらに苛立ちを感じて「私の親は毒親だったんだよ!?あなたみたいに健常な親に育てられなかった!知ったような口を聞かないでよ!」とイライラしてしまったりします。

でもその人や人前で面と向かっては言えなかったりします。結局全部心の中でため込んでしまい、SNSを使って発散したり、空リプしたり鍵アカでぐちったり、あるいは悶々とした日々を送ってしまったり。。

でもそれで何かが変わるはずもなく、現実の人たちが変わってくれるわけも当然なく、相変わらず彼ら彼女らは同じまま、そんな健常な人たちはそんな自分の苦しみなんかどこふく風、幸せそうで、とても輝いていてすらみえます。

そんなきらきらしている彼ら彼女らに、それができない自分が全否定されているかのような気がして、

まるで彼ら彼女らが悪魔か何かに見えてきたりもします。

もうほとんどです。

自分を気遣わない敵。自分の苦痛を察してくれない敵。理解することが出来ない敵。自分を否定する敵

自分を攻撃する敵にしかみえません。

で、人によってはある日その不満のキャパシティを超えて爆発したかのようにヒステリーを起こしてしまったりすることもあるかもしれません

「なんで私のことだれも分かってくれないの!?なんで誰も理解してくれないの!?なんで誰も私を愛してくれないの!?」

そんな自分を理解しない、労らない、察してくれない、愛してくれない他人に怒りと憎しみの感情を爆発させて、自分でもよくわからないことを叫んでしまったりするかもしれません。

日常的に他人に対して不満をため込んでしまう性格になっているわけです。

「他人が悪い、自分は悪くない」という意識から生まれる他人に対する不満

他人は悪魔。他人は悪い人間。毒親に育てられず、健康的な親に育てられた健常者たちはみな自分を理解してくれない敵、自分を害する悪魔。

そんな感じで自ら他人を敵とみなし、他人を警戒する自分を自分が作り上げていることになります。

多分自分の周りのほとんどの人が敵に見えている状態なんじゃないかと思います。下手をすれば現実世界で相対する人は皆敵、だったりするのかもしれません。

つまり現実の世界で他人に会っていたり、他人と何かしていたり、他人がいるときはずっと敵に囲まれて過ごすわけですね。

そんな敵だらけの世界で、自分を理解してくれる人、救ってくれる人をずっと待っている状態なんじゃないかと思います。正義の味方、他人という巨悪に正義の鉄槌をくだしてくれる強大な力を持つ誰かに自分を救ってほしいという気持ちすらあるんじゃないでしょうか。

つまり自分はどうしようもなく被害者なんです。悲劇のヒロイン。自分はどうしようもなく潔白で何も悪くない、かわいそうで、誰かや何かによって救わるべき存在である、と無意識に感じているわけですね。

被害者意識、悲劇のヒロイン症候群」 = 「毒親の資質」

被害者意識、そこからくる他人を自分の都合のいいようにふるまってほしいと期待する気持ち、他人を自分の思い通りにコントロールしたい、思い通りになって当然だと思い込んでしまう気持ち。できなかったら不満や苦痛を感じてふさぎ込んでしまうこの資質。

これってまるっきり毒親の資質なんですよね。

毒親も同じように自分の子供を自分の思い通りにコントロールしようと脅迫的なしつけをしてせまったり、攻撃的なことや経済制裁的な手段を用いて子供を追い込み、無理やり自分の言うことを言い聞かせようとします。

例えば何か悪いことをすると必ず「ごはん抜き」にされたり、少しでも門限に遅れれば家に入れてくれなかったり、家庭によってはもっとひどいことをされたりもするんだと思います。

あるいは「私だって苦労してるんだよ!」と、親は大変なんだからという正当性を持ち出して懐柔しようとしてきたり。「あなたも親になればわかる」とかですね。「あんたは悪い子だ」とか「あんたなんか生まなきゃよかった!」とか「そんな風に育てた覚えはない」とか「今まで育ててもらった恩を返せ」とか、これも全部そうです。

全部「あなたが悪い、私は何も悪くない」「こんな誰にも理解されない、労れもしない自分がかわいそう」なんです。

自分はこんなに苦労しているのに、こんなに尽くしたのに。なのにそれに何の悪びれもない。感謝も気持ちも感じない。なんて悪い子だ、と。

私は間違ってない。悪い子のあなたが間違ってる。あなたがそれを分からないのは、まだあなたが子供だから」と。

この理屈って

「あなたにはわからない。だってあなたはいい親に育てられたから。毒親に育てられた自分の気持ちなんかわかるわけない!」

と同じ。まさに瓜二つなんですよ。誰かのせいにして自分を正当化し、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げ、ヒステリーを起こしては相手から慰められること、愛されること、認められること、他人が自分の思い通りに動くことを期待するそんな同じ心理があるわけです。

実際私の母親も私自身もこういう感じでした。母親は私をとにかくいうことを聞かせようとして、全く話を聞くことはない一方的な人でしたが、私だってそんな母親にずっとあなたが悪い母親だったんだって認めさせようとしてましたし、それだけでなく他人に対して同じように、自分を愛してくれること、認めてくれることを一方的に望み、それができないとふさぎ込んだり、イライラして不貞腐れて口を利かなくなるという母と同じ面倒な性格をしていたんです。

もしそんなころの私に自分の家族が居たら、これを自分の子供にも繰り返していたでしょう。毒親2世としての人生を生きていたでしょうね。

毒親の資質を解消しなければ今度は自分が毒親に

毒親というのはおそらく家系的なものだと思います。といっても遺伝的なものではなくミーム的なものです。

その家系の文化、価値観、考え方ですね。

家系の中で継承されてきた考え方、認知の歪みという毒なのですよ。まぁということは、2世どころじゃないかもしれませんね。

おそらく毒親の親も毒親だったのでしょう。そのまた親も。子供を支配して子供の自由を抑圧して教育する、モンスター親だった。それに疑問も抱くことなく大人になり子供を産めば、その人もまたそんな親と同じ毒親になってしまうわけです。

そもそも、私たちよりも一つ前以上の世代に「毒親」という概念はなかったと思います。だとすればそれを「普通」だと思い込んでも不思議ではない。実際それで回っていた社会でもあったと思いますし、元々日本は他人に好かれる誰かになることがいいことであるということを教える「毒親大国」なので、別段不思議なことではなかったのでしょう。

それが最近になって毒親という言葉が海外から海を渡って日本にもやってきて、それは一気に広まった。普通だと思っていた親からの支配的な教育や価値観が普通ではない、異常なものだった、という形で広まったんです。

本当はそんな生活やそんな親が嫌でたまらなかった。そんな自分の気持ちは間違っていなかったんだ、という形で多くの人から共感を集めることによって広まった言葉であると思います。

つまり今の時代は親の在り方をかえるターニングポイントでもあるんじゃないかと思うのですよね。

しかしそれで自分の性格や価値観を正当化できるというわけではなくて、その自分を正当化して周りを悪だとするその考え方そのものが毒親の資質なわけです

それを繰り返す限り、毒親の負の連鎖を断ち切ることはできません。同じことを繰り返し、不幸を量産するだけでしょう。

自分を変えない限り毒親の連鎖は続く

親を責めたり他人を責めたり、社会を責め続けて自分を正当化し続ける限りは何も変わっていくことはありません。他人は変わりはしませんしね。変えられるのは自分だけです。

自分を変えない限りは、ただ次の世代にも毒親の毒を引き継ぐ形になってしまうでしょう。

毒親に育てられたから自分は悪くない、悪いのは親だ、そんな被害者意識がある限りにおいては、おそらく次の毒親という世代の担い手になってしまうだけなんじゃないかと思います。

そして将来、自分が親にしたのと同じように、自分の子供に毒親だと憎まれてしまうのではないでしょうか…考えたくもありませんね。

それに多分今の世代の子はこの毒親という言葉について私たちの世代よりも早く簡単に手軽に知ることが出来る可能性がある分、親を見限る年齢も早そうな気がします。インターネットでちょっと毒親と検索するだけで驚くほどの大量の情報が出てきますし、SNSを中心にコミュニティもできてますしね。

場合によっては、比較的幼い子供のころから早くに親に愛想が尽きて、親を無視する家庭内別居状態になったりするかもしれません。

そして経済的に自立してしまえばもう二度と顔を見ることもできなくなる…そんなことになってしまうかもしれません。

他人よりも親よりも、自分を変えた方が人生は楽になると思います。

私は他人ありきの自分が、もうつらくてしょうがなくて自分を変えた口でした。他人の目を気にしたり他人に気を使って生きても何も保証されないし、他人に愛されるわけじゃないってことに気づきました。今思えば、他人はそんな被害者意識な受け身なめんどくさい自分に対して不快感を感じていたでしょうし、それでみんな私から離れていったんだな、と今は思います。

毒親のせいにして、他人のせいにして不貞腐れていても自分が望んでいるような救われた状態にならないのですよ。むしろ恐れていた、誰からも相手にされない愛されない孤独へと突き進むわけです。

実際今の自分が過去の自分を見ると、正直にいって付き合いたい人、関係を持ちたい人ではないですね。他人にいつも目くじら立てて、否定的でなんだか警戒心が強くて、言いたいこと言わないでため込んでいるだけ。付き合っていても疲れますし、何より面白くも何もありませんもの。

今は他人のすることや言うことが気にならなくなって、他人でイライラしなくなりました。自分から人と関われるようになりましたし、楽しく生きられるようになりました。

自分一人で自分のことを決めて生きられるようになって、毎日健やかで気持ちよく生きられてます。

なので、他人のためでなく自分のために。自分の幸せのために、自分を変えてみることも選択の一つかなと思います。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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