毒親という言葉が広まってもうずいぶんたつけれど、その「呪縛」から逃れることができない、と感じて息苦しさを抱えている方はたくさんいるのだと思います。
かく言う私の親も毒親であったわけですが、私の親は過保護かつ高圧的かつ権力的な親で、自分の言うことを聞かなかったり、自分の気に食わないことを言うことを完全否定して追い込んでくるような母親と、それに対して一切無関心で、にもかかわらず仕事などで時折機嫌が悪くなっては八つ当たりをして暴力をふるってくる父親のもとで育ったおかげで、他人にたいして漠然とした恐怖をもち、自分に自信がもつことができず、親から植え付けられた「あんたはダメな子」「子供のくせに生意気な口を利くな」という、自己否定と脅迫の心理を抱えながら生きてきました。
対人恐怖症を患い、しまいにはうつ病にもなりまして、その生きづらさから脱するのにはとてもたくさんの時間と労力ががかかりました。
親と離れ独り暮らしをしても、その精神的支配はずっとつきまといました。こうして独り文章を打てるようになったのも比較的最近の話しで、以前は自分は一人では無力だ、生きていけないんだという思い込みから一人で何かをするのが怖くてたまらず、常に人肌や人の目を求めていないと何もできませんでした。
かといっていざその人肌をえても、その人の視線や評価が気になってストレスと緊張で苦しくてしょうがなくなりやはり一人を望むも以下ループ…と、そんな自身の矛盾と葛藤に苦しむ毎日でした。
そんな中でしたが、毒親から植え付けられたものは一体何だったのか、その思い込みが何なのかを自分で気づくだけで自分を解放することができました。
親に植え付けられた強迫観念たちの正体たちに気づいて、それを捨てていくことで、その精神支配から自分を解放できたのです。
なのでそれをこの記事では共有したいと思います。
目次
親孝行なんてしなくていいよ
「育ててもらったんだからお返しをしないと…」と、“しなきゃいけない”と思い込んでいるのであれば、そんなことはないのでそんな義務の意識は捨ててしまっていいです。
「親孝行するのは人として当たり前のことでしょ?」と言う人がいますが、その人はおそらく幸せな家庭で育ったのでしょう。
「親孝行したい」という自分の「したい」という素直な気持ちがあるからその人はそう思うのであって、それをあなたに投影して「親は素晴らしい存在なのに親孝行しないなんて信じられない」といっているだけです。
それは「しなきゃいけない」という義務の意識とは全く違います。いわば自分の好きなことと一緒。そうしたいからそうする。気持ちのいい感覚でやることだからです。
その人がそう思えたのもその人の家庭、両親が優しい人達だったからでしょう。
自分の家庭と他者の家庭は違います。ある家庭には当てはまってもある家庭には当てはまらないということは無数に存在します。
だから誰かに否定されたり嫌味を言われても全然きにしなくていい。親に抱いている自分の気持ちは嘘なんかじゃないですし、間違ってもいません。
もし親から「親孝行して当然」だなんて言われたらその親はいい親でも何でもないでしょう。
親孝行するかどうか決めるのは自分が決めていいことなんです。親孝行するものだ、なんて事実はどこにもない。
その親はそれだけ自信の子供に依存している証拠で、支配したい気持ちがある証拠でしかないです。
自分が親孝行したいという気持ちがあればそうしていいだけですし、親孝行したくないのならしなくていいんですよ。
親「育ててもらった恩を返せ!この親不孝者!」
こんなことをいう親であれば、その親はあなたを支配したいだけの人でしかないでしょう。
こんなの本気にしなくて全然いいです。ただの毒親の無意識な”策略”でしかありません。
親は勝手にあなたをだめ扱いしたり、否定して自信を喪失させた挙句、だから私がいなきゃダメな子なんだと勝手に思い込み勝手に世話をしてきた挙句、その果てに勝手にその見返りを要求しているだけです。
全部親の勝手な思い込みであり、親の勝手な都合であり、親の勝手なルールであり、
親の中にある勝手な思い込みを、勝手にあなたにおしつけ、自分の思い通りに支配したいというだけの話でしかありません。
その口実として、あなたを世話しただけにすぎない。すべては、自分がその見返りである「私はいい親なんだ」というしるしを欲しいがために、必要とされているんだと思いたいがために、老後の世話を焼いてくれる保険や自分を寂しくさせないがための道具としてのために、あなたを利用してだけに過ぎないのです。
なのでそこに責任や負い目のようなものなんて感じなくていいんですよ。
世話をしたということから何から何まで全部親の勝手な都合でやってきたことにすぎないのですから。
親と子供の間に上下関係なんていらないんです。
「じゃぁもうなにもしてあげない!かってにしなさい」
といわれるかもしれませんが、全然大丈夫、それでいいです。
そんな親に何かされなくたって、あなたは独りで生きていけるんですよ。
なぜなら、あなたは親の言うところの「ダメな子」なんかじゃないから。
独りで何かを決めて、何かをすることができるんです。自分でこのページを検索して訪れてきてくれたように、あるいはこのサイトに来ることを自分が選んでこの記事を読んでいるように。
それと同じことです。同じように自分でいろんなことを決めて実行していいんですよ。
どこに自分が住むか決めて、どこかで働くか、何をして稼ぐか決めて生きていけるんです。
自分を信じましょう。親の言ったことでもなくて、他人の言ったことでもなく、自分の決断を信じるだけで、自分の人生は簡単に生きられます。
それが失敗続きでもいいんですよ。もともと人生は失敗の連続で成り立っているようなものですから。それを親が否定してきたというのなら、その親は現実に対する認知が歪んでいるだけです。
その失敗だらけの現実が人生の面白さで、醍醐味でもあるんですからね。失敗は怖いことでも何でもなく、ただのイベントにすぎません。
親との間だけじゃなく、誰に対しても上下の関係性なんていうのはいらない。必要なものがあるとしたら、それは会社などにおける役職などの立場くらいのものでしょう。でもそれも結局はただの役割の違いで、それで人の価値の上下が決まるなんてこともありません。
人間はどこまで行っても、何をしてもただの人間にすぎません。だからどんなことがあっても、自分より上の人も下の人も最初からいないのです。
親「よそはよそ、うちはうちでしょ?」
外の家庭と自分の家庭を比べても仕方がないでしょ、と、自分を正当化するためにあなたにこういう親もきっといるでしょう。でもこれも聞かなくていいです。
「そうかもしれない…」と自分を無理やり納得させようとして我慢を強いる必要はありませんし、自分の気持ちや想いを否定する必要も全然ない。
確かに比較すること自体に意味はない、というのはその通りでしょう。自分の人生は自分だけの人生であるように、他人と自分の人生を比較しても意味はありません。みな生きている人生はバラバラで、比較のしようがないからです
重要なのは誰かと自分を比較することじゃないんです。あなた自身がその親を毒親だと思っているかどうか。それがすべてなわけです。
自分が親を毒親だと思えばもう毒親なんです。そこに明確な基準なんてありません。
〇〇だから毒親だとか、あの家庭に比べたらまだましだから毒親じゃない、なんてことは実はない。
人は何かに対して共通の解釈や認識を持つことができるようにはなっていないから。人の世界はひたすらに主観であって、皆が思う共通の何か、というものはこの世のどこにも存在していません。
自分が親のことを嫌いで、親と離れたい。そういう自分の気持ちがあるなら、それは間違いないことです。
その思いを聞かず、ただ頭ごなしに否定し「だからだまってろ」というだけの親なのであれば、その親はあなたの話を聞こうともしない、つまりコミュニケーションが取れず、それ以上の進展は望めない存在である、ということになります。
自分の思い通りに子供が動いてくれればそれでいい、という支配型の親でしょう。ですから、そんな親の言うことに屈する必要は全くありません。
親「そんなの普通でしょ」「常識でしょ」「当たり前でしょ」
これらも”本当に全部”親の勝手な思い込みに基づいたルールにすぎません。人間は誰しもが主観の世界で生きているのですから、本当はそういったこの世の全員が信じる共通の何かというものを知りません。ただ思い込んでいるだけです。
悪魔で親の目にはそう見えたものを言っているだけにすぎず、それに従わなきゃいけないというとらえ方すらも思い込みです。さらに言えばそれらは親がこれまでに生きてきた経験に基づくものでしかなく、すでに過去のものであり今を生きている自分の世界とはすでに関係がないものなのです。
おそらくなのですが、毒親の呪縛の中でこれらは最も自分を強く強烈に縛っているものではないかともいます。
普通や常識といった概念を盾に振りかざせされる理屈は、その背景に多くの人が賛同するという「数の暴力」をイメージさせることが多いからです。
特に支配的でヒステリックな親の元で育った人には、普通や常識といった概念には屈服し常に従わないといけないかのようなとても恐ろしくものだとしてとらえてしまいがちで、そのような捉え方、感覚を持っている自分のことを無意識的に普通のことだとしてすらいるかもしれません。
でもそれは悪魔で思い込みです。別に普通や常識に従う必要なんかないのです。それを自分にしなくてもいい。選ぶことが自分にはできるんです。とらえ方を変えることだってできる。違うとらえ方だってできる。
単に一般的な慣習はそうだ、統計的にはそうだ、「でも自分には関係ない話」と無関係にしてしまうこともできるわけです。
自分と他人の価値観は同じになることはありません。同じにならなければいけないというルールもない。だから大多数の人がそれを信じているからといって、それを自分にする必要なんかないのです。
それを一方的に普通だから常識だからと、ただ従うしかないという風に選択肢を用意されずに押さえつけられてしまってそれを苦痛に感じながらも普通だと思っているのだとしたら、それはとても大きな歪みだといえるでしょう。それに対する畏怖、そしてそれを破ることや、無視しようとしたときに感じる恐怖は相当なものになっていることもあるのだと思います。
それは手放していいものです。それを怖いものだ、従わなければならないものだと思い込んで自分を苦しめる必要はない。普通や常識というものが自分を押さえつけてくることはありません。自分を囲い込んで押さえつけてくるようなものなんかではない。ただ存在しているだけです。自分が思う普通や常識といった思い込みが、自分の主観にただ存在しているだけで、それ自体に自分を支配する力も従わせる力も意思もありません。
だからそれに屈服する穂必要も抑圧される必要も恐怖を感じる必要もないのです。ただのノイズ、環境音のようなものと同じです。
親「人前では恥ずかしくないようになさい!」
これも完全に親の都合です。親は自分の子供が自分からみて恥ずかしい存在になることが不快でしょうがないから、親の思う恥をかかない人間像を子供に求め、無理やり子供に守らせようとしているだけです。
自分の面子、自分の不安感。そういった感情にかられ、ヒステリックにそれを押し付けているだけ。幼稚な精神性の親の気持ちに屈する必要も従う必要もありません。
他人から見た自分なんて別になんでもよかったのです。他人が好む誰かになんかなろうとしなくてよかった。
自分が好きな自分になってよかったのですよ。それがどんな形でもなんでもよかったのです。
親「立派な大人になれ!」
そんな“超人”になんかならなくていいです
そんな超人の振りをした「見せかけの自分」を演じようとしなくていい。
どんなに人間でもただの人間ですよ。どれだけ背伸びをしようと立派なフリをしようと、人間であることは変わらず、それ以上でも以下でもありません。
優秀だのすごいだの、劣等だのバカだの。そんなラベルたちは、何らその人の絶対的な何かを保証するものなんかじゃありません。
立派かどうかなんて言うのは自分をそう呼ぶ可能性のある他人の都合でしかない。他人の勝手な都合でかつぐ神輿たちが決めることでしかなく、それは自分自身ではないからです。
だからそれになるなんてこと自体、最初から無理な話。ただの「祭り上げられる」だけのもので、そこには何の真実もないのです。
だから例えばかっこ悪くてもかっこよくてもどちらでもいいのです。正しくできなくてもうまくできなくてもどちらでもいい。どちらもそんな「評価」は他人が勝手に決めることですから、すべてあり得ることです。
だからどうでもいいんですよ。すべては平等に他人の都合にすぎないものですから。自分自身を何ら否定も肯定も決めつけることもできるものではないので、何を言われても気にしなくていいのです。
常識知らずだとか恥を知れとかいろいろなことを言う人もいますが、別にいいんですよ。どういわれてもどう思われても、今の自分自身のままでいいわけです。
今の自分じゃ誰にも好かれない。だからいけない、ダメなんだ、と思わなくていい。
本当に、今の自分でいいのですよ。
自分に素直に生きていれば、既にもう十分大人です。
どんなラベルを張られようが、自分には何も関係ありません。誰かが望むラベルの付いた誰かになる必要もなければ、誰かが付けたラベルに本気になる必要もないのです
親に強制されたいろんな思い込みは全部捨てていいものです
もういい年なんだから、と年齢を理由に結婚を迫ったり、こちらの都合を一切きかず「そういうものだから」の一点張りで親の都合を押し付けてばかりの親の言うことも無視していいです。
葬式やお祝いなど、親戚付き合いなど、「そうするものでしょ」といって義務ばかり背負わせてくる親が言ってくるいろんなもの。
そういうものはすべて親の勝手なルールたちでしかありません。
それに同調する親戚の人もいるでしょう。でもそれはそれほど不思議な話ではない。同じ家系で育ったのなら、そのような毒親の思い込みが単に受け継がれているだけ。
親族とは関係のない真っ赤な他人でも言ってくる人たちもいますが、その人たちも同類でしょう。何かと理由をつけて他人を自分の思い通りにしたいだけです。そうしないと落ち着かないからそうしている、そんな人たちの戯言にすぎません。
他人のルールは自分のルールとは違います。他人のルールに対して反発する自分の心があるなら、それは間違っていることなんかではありません。
他人の言い分ではなく、自分の心、自分の気持ちをきいてみてください。感じてみてください。
自分は本当はどうしたいと思っているのかを。
それがすべての答えです。親の答えは親の答え。他人の答えは他人の答え。
自分の答えは自分の答えです。
親もただの他人、人間でしかありません。親は神ではなく、正解を知る存在でもない。
自分の人生を親は切り開いていくことはできません。
だからそういった親の強制的な教えなんて、全部いらないのですよ。
親から植え付けられたすべての「気を張って生きろ」というようなその感覚。周りにアンテナを張って常に察知して生きていかなきゃいけないというその感覚。失敗は許されないと常に神経質になって挑んでしまうその感覚。
しなきゃいけない、こうじゃなきゃいけない、普通じゃなきゃいけない、常識的でなきゃいけない、成功しなきゃいけない、勝たなきゃいけない。
そのすべてを、すべて捨てていんです。
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