結果を受け入れる、それはつまり、それが成功だろうが失敗だろうが受け入れる、ということだと思います。しかし多分今の世の中でそれは難しいことなんじゃないかと思います。「失敗してはいけない」というような、失敗することは悪であるという風潮が今の世の中には多いんじゃないかと思うのですよね。
進路、就職、仕事、キャリアプランなど…まるでレールの上を慎重に歩かされていて、その通りに生きないとダメなんだという風潮で、失敗は許されず、ほかの生き方はない、逃げ道なんてない、休むことは悪。どこかでしくじったら終わり。それにおびえながらも安定した人生、保証された人生に執着するあまりに、却っていつもどこかピリピリしながらストレスをためて日々を生きている人というのはそれなりにいらっしゃるような気がします。「ストレス社会」なんて言いますしね。最近は大人だけではなく、子供にも当てはまる言葉だとか。
そんな中で「どんな結果も受け入れる」ということは、そもそも発想すること自体がしづらいことなのではないかと思います。なにせなんとしてでも結果に執着してなんとしても安定した人生をキープすることが是とされている風潮であるわけですから、それを否定するかのようなこの在り方が良いと思う事など難しいのではないかとも思います。
しかし世の中の風潮や自分がどう思っているかに関係なく、現実というのはそれに対して無慈悲にもほとんど関係なく流れているものです。現実を自分の思い通りにすることはできません。うまくいくくこともありますし、時には裏切られることもあり、それをコントロールすることはできません。
目次
現実を「思い通りにできる」という思い込み
なんでもかんでも現実を思い通りにしようと執着したり完璧を求めれば、そのハードルが高ければ高いものほど、それを実現することが困難であるというのは、それほど想像に難くないことだと思います。どんなに苦労したって自分の力ではどうにもならないことはありますよね。夢をかなえたいと思っていても、その夢のハードルがあまりにも高かったらそれはとても難しくなります。成功したい、お金持ちになりたい、有名になりたい。そういったことは相当な労力をもってしてもかなうかどうかはわからないようなものです。
そのハードルの高さをバネに転換できればいいのですが、ただお金持ちになることや有名になることといった結果に対する執着や完全性を求めている限りにおいては、ただ自分の肩の荷が重くなって手が動かず、何もできなくなってしまうんじゃないかとも思います。ひょっとしたら過去の勘違いしていた私のようにいつかその重りにつぶされてしまうかもしれません。。
それに、そんな大きな夢はなくてもなんなら些細なことだと自分が思っていること、「できて当然だと思い込んでいるもの」の中にすら、実際には相当にハードルの高いことがあったりもします。
例えば他人を自分の思い通りにどうにかしようとしたりすることですね。それも「他人に好かれること」とか「他人から嫌われないこと」といった、今の日本の人々ならごく日常的な話題として、悩むような話です。でも現実、これを思い通りにするのって結構難しいというか、ほとんど思い通りにならないのですね。どんなに好かれたくても好かれないときは好かれませんし、嫌われるときは嫌われる。どうでもいい人に好かれたりと自分の想定とは違う動きをするものです。
それでも思い通りになるはず、こうすれば好かれる、こうすれば嫌われないのだとあきらめずに執着し続けてしまうと、結果どこかでその期待を裏切られてノイローゼになったり神経症を患ってしまったり、息苦しさや生きづらさの要因になってしまうこともあります。(実際私はそれで鬱病になりました
結果に対する執着から発生する生きづらさ。それを抱えている場合、自分をそれから解放するためにも自分にはそれをどうにかできない、支配なんてできないんだ、と結果を受け入れるというのはとても大事なことです。
でも手放せない
しかし、実際そうしてみようとしてもなかなかできない、なんてこともあるんじゃないかと思います。執着をやめようにも、どうやったらやめられるのかわからない。やめたいと思っているのにやめられない。「他人は思い通りにならないんだからもうコントロールしようとしたり、自分の思い通りになることを期待することをやめるんだ」と自分に言い聞かせてみても、次の瞬間には「自分を好きな人を探してさまよってしまう」など、執着することをやめられない自分が居たりする場合もあるのだと思います。まぁ、過去の私のことなんですけどね。
つまり、自分の意思や気持ちだけではどうにもならないんですよね。執着というのは”ある感情”がその根本にあるから求めているのだと私は考えています。その感情が強烈で抗えるものではないから難しい。それについてはご興味あれば以下の記事をご参照ください。
さて、ではどうしたら結果を受け入れられるようになるのでしょう。
上記記事では別の観点で書いていますが、こちらでの記事では、結果を受け入れられるようになるためには、結果というものがどんなものなのか、その正体、自身の認知を変えることでできるようになるということについて書いていこうと思います。
結果という「現実」≠自分の「想定」
どんなに何かに手を尽くしても、自分の想定、理想とするある何かが、現実の結果と等価になるとは限りません。
より正確には、決して望んだとおりの結果に100%一致することはなく、常に等価になることはない、といった方がいいでしょうか。
結果というのはそれに対して、どんなに自分にとって確信のある想定を自分がもっていたとしても、実際に起きる現実自体には何も関係がない、ということです。
いくら仕事で手を尽くしてもその期待に反するかのように失敗するときは失敗するし、逆にそれほど力を入れていなかったことが成功したりすることもあります。
思った通りに行ったように見えるものも、実際細かいところを見ていけば、自分の思い通りになっていないことがわかります。例えば、ある結果が何時何分何秒にどうなったか、というようなことまでを想定はしているケースというのはほとんどないでしょう。実際に初めてその想定する結果のようになったかのように見えたときにそれに気づくことで、自分の思い通りになったと思えるだけです。
それに、そのえられた結果自体だって細かく見ていけば、自分が想定した通りにうまくいっていないこと「も」起きていたりすることが判明することもあります。
車の運転がわかりやすいかと思います。車はそのハンドルとアクセル、ブレーキで如何にも車をコントロールできているかのように感じるかもしれませんが、車を運転していく中で常にこれから先に起きることを完全にシミュレート、予測し、何時何分何秒のタイミングでハンドルをいつどっちにどれだけきって、どれだけアクセルを踏んで、それはいつで、というようなことをすべて完全にシミュレートして…なんてことを人はやってはいませんよね。
実際にやっているのは実際に運転したときに、「曲がり角に差し掛かりそうだからそろそろハンドルをきろう」とか、「信号が見えてきたからそろそろ速度を落とすか」とか「前の車が停止したから停止する」「曲がるからウィンカーを出すか」といった、ある目の前にある現実が判明したときに反応して何かをすることしかやってません。何処に向かうのかなどの予定、目標を立てることはできますが、実際に行くことになった時に発生するすべての何かがシミュレートされているわけではなく、始まってみなければ、結果が起きてみないことには何もわからないのです。目的地にはついたけど、道に迷って散々だった、なんてこともあります。
自身の想定に対し、そのほとんどがその時になってみなきゃわからないことだらけです。旅行に行く計画を立てて、車で何時間かけてどこの高速に乗っていくという計画を立てることはできても、実際に車を運転する時の自身の動作、つまり車のハンドルや、アクセル、ブレーキをいつ、どれだけ、どの程度、何回ふむのか、きるのか、パーキングエリアには寄るのか、どこの駐車場に止めるか、そんないつどこで実際に何をするのかというようなことについては、実際にその時になってはじめてわかることです。
自分の想定したこと意外のこと、想定外のものというものは自身の想定なんかよりもずっとたくさん、数えきれないほどあります。車を運転して向かうその道中で、どういう景色を実際に目にするのか。どんな天気か。どんな音が聞こえてくるか、気温はどれくらいだ、そんな些細なことさえほとんど想定した通りにはならないというか、ほとんど想定しないでしょう。渋滞も起きるかもしれませんし、信号待ちばかりかもしれない。途中でトイレに行きたくなってパーキングエリアによったり、下手をしたらあおり運転にあったり、事故に合ったりするかもしれない。
そんなあらゆることっていうのは実際に起きてみないとわからないものです。
このブログに書かれている文章があらかじめどんなことが書かれているのかについて、読者の方はしらないですよね。知らないからもし興味をもって知りたいと思ったら読む必要があるわけで。で、実を言うと、このブログを書いている私も、記事を書こうとしたときにその内容が最終的にどのような形になるのかを想定できてはいないのです。確かに書きたいテーマ、伝えたい内容は何かを決めて、それが伝わるようなタイトル、段落を書いて詳細を書いていく、という形で書いてはいきますが、実際に書き始めてみるといいたいことがまだぼんやりしていることに気づいたり、後でいろいろと付け足したくなったり、不要な文章だなと思ったら削ったりしながら構成も変わっていくこともあるので、最終的にどこがゴールになるか、どんな風に実際書いていくことになるのか、どんな形で完成するのかはその時になってみないとわからないのです。
自身の脳内の想定≠現実 なんですね。自身の想定と現実は自身が想定しうること自体があまりにも現実に対して小さすぎるし、何よりも不正確すぎるために、常に大きく違うんですよ。それもとんでもなく。自身の想定だけでなく、想定外ものも常に存在しうる。この世の完全コピー、ミラーのようなものを人は脳内に描いているわけじゃない。人にはこれから先におこること、未来がわかるように全くできていないのです。
人のいう完璧は全然完璧ではない
先ほども挙げましたが、人は次の瞬間に何が起こるのかを完璧に想像、想定、再現するなんてことはできません。
いつどのタイミングで、どんな状況である結果が得られるのか。これから先におこることを完全にシミュレートし、すべてその通りになる、なんて想定し完全にその通りに再現するようなことを人はできない。その想定する結果だけにとどまらず、その結果を成り立たせるまでに起きた様々な取り巻く環境因子たちまでもシミュレートしているわけじゃない。周りで起きている事象のすべて巻き込んで想定しておくことは人には無理です。
完璧にこだわろうとしても実際に人が想定できること自体がすでに完璧ではないのだから、人の言う”完璧”、人の想像できる完璧なんていうのは実はとてつもなく「雑」なのです。一つ一つの因子を計算、観測し、なんなら分子レベルの動きまで想定しながら次の結果を正確に読み続けてある結果にピンポイントで達するというようなたどり着くまでのシミュレートなんてことを人はできるわけがありませんよね。
例えば潔癖症でいくら綺麗に手を洗ったところで、その手に完全に雑菌がついていないかどうかなんてわかりませんよね。顕微鏡で毎回毎時確認して微生物が手に一つもついていないことを確認なんてしないでしょう。外を歩けばウィルスだのなんだのは漂っているわけですし、完全に無菌状態で過ごすなんてことは特別な医療を受けない限りほとんどの人は無理です。
結局ただ自分の目でみて、自分の中で「これで完璧に綺麗にできてる」と思い込めるルールを作って納得しているだけです。自分の中で綺麗だと納得できればいい。それだけの話しですよね。
ようは、そう見えればいい。というだけです。そんなめちゃくちゃアバウトで適当な基準の何かを、完璧だと思い込んでいるだけにすぎない。
つまり、完璧なんて言うのはただの思い込みにすぎないのですよ。どんなに自分が完璧だと思おうが全然完璧じゃない、
人の行うこと、作り出す何かは、常に不完全の産物でしかありません
人の想定に完璧はない。現実を支配する力もない。
自身の脳で想定していることと、実際に起きたある現実の結果は寸法たがわず常に一致することはないという事実ばかりか、その想定が現実を思い通りに操作するようなこともありません。いくら「この通りになるはずだ」と強く念じても、どれだけ考えを練って行動をしても、そうならないときは単純にそうなりません。
これは自分の考えや行動が甘かったというよりも、元々そういうものであるといった方が近いです。
現実に対して自分という存在は、実は”想定よりもずっと無力”だったりするのです。
調整が限界
失敗と思考錯誤の果てにある結果というのは自ら能力や労力によって達せさせることが出来た、思い通りにコントロールができたからできた、というわけではなく、自らの能力や労力で可能な限り手を尽くして可能な限り望む結果に近づこうと調整をし続けて”寄せた”という結果でしかなく、実際のところは何一つ思い通りには“なっていない”のです。
例えば絵を描こうとしたとしましょう。絵というのはなにも最初から一筆で失敗なく描けるものではありません。実際に線を引いてみて、目で確認し、ちょっとずれていたら消して引き直したりします。その繰り返しの果てに絵は完成するわけです。ひょっとしたらそのような技術を持っている方がいらっしゃるのかもしれませんが、特に油絵や写真のようにリアルな絵を描こうとすれば、そこには何度も修正を繰り返す調整作業の連続が大量に存在するのです。
先ほど「完成」といいましたが、絵には実は「完成」という概念自体がないのです。というのは、絵自体に何をすれば完成なのかという明確な定義がないからです。何処まで何を描くのか、何は描かないのか、その制限がありません。しいて言うなら模写などの現物の対象物に対する絵くらいでしょうが、それでさえもどこまで自分が満足するまで似せようとするか、というあいまいな基準であり、どこまで描けば模写が出来た、というような基準もありません。しいて言うなら、その絵を描いた人が完成といえば完成なのです。しかしそれは完全に納得ができた完成というものではなく「まぁこんなものか、今の私にはここまでが限界か」といったような一種の切り上げ、妥協的な完成なのです。
部屋を綺麗するものそうです。何処まで綺麗にすれば『綺麗』なのか。それを言い出したらきりがありません。きちんと整理整頓をし、チリ一つ残らず部屋をピカピカにするとして、本当にチリ一つ残らずできているのかをどこまで検証するのかというのも、挙げだせばきりがない。それこそ”徹底的にやるなら”すべての家具を引っ張りだし、完全除菌と清掃を行うような、大規模クリーニングをするような話になります。さらにそこに「永続的な無菌状態」までつければ、はてさて一体どのようなことをすればそれを一般の人が達成できるのか…そしてそれが仮に達成できたとしても、本当にそれで無菌状態といえるのかどうか。そもそも、自分の顔にダニが大量に生息しているという事実はどうするのでしょうか。仮にそれも解消できたとしても、ほかに本当に「汚い」何かはないといえるのか。もしかしたら現状の科学ではとらえることもできない未発見のものすごく微小な微生物や病原体が存在しないとも限りません。
人は完璧に理想通りに何かを実現できはしません。調整することしかできず、その調整も限界があり、その限界値は事によって様々です。
そして真に完成された何か、完璧な姿が何かを知りもしない以上、どんなに手を尽くしてもそれが本当に完璧なのかどうかを保証はできないし、検証することすらできない。
人はどれだけそこに労力と知識を注いでも、真の完成、真の完全性を持った何かを作り出すことは、人が主観の生物、真実をしることができないという不完全性の壁によって不可能なわけです
想定する結果はただ目指すことしかできないもの
では人には現実に対して一体何が本当にできるのでしょうか。結果に執着しても完全にそれを満たすことはない。完全性にすがろうとしても完全なものなどどこにもないからすがれない。完璧にこなそうとしてもそもそも完璧とは何かという真実の定義がない。個人で思い込んでいる完璧だと思える何かがそれぞれあるだけです。
となれば一体人はなぜ、なんのために目標をたてて努力し、労力を使えるのか。何も完璧にできないのに、その姿すら知らないのに、世の中には自分の目標に向かって毎日努力を惜しまず、何かを勉強したり作ったりしなんがら精力的に生きている人もいますよね。
それができる人とできない人の違いとはなんなのか。
おそらくそれは、結果に対する認知の違い。現実に対して自分ができることという認知の違い。そしてそれは、いよいよこの記事の本筋でもあります。
それは、あくまで結果を自分がすることのただの目印に過ぎないとしてとらえているかどうか、という点にあるのだと私は思っています。
そう明確に意識しているかどうかというよりは、そのような在り方であるかどうか、ということです。
結果とは自分が完全に想定できるものでもコントロールできることでも、完璧にできるものでもない、実態はただの目標、目印にすぎず、自分が手を動かし続けるための指標、理由に過ぎない、ということですね。
悪魔で次に自分が何をするかを考えるための材料。暇つぶしのきっかけ。それが何らかの結果です。
つまり結果を受け入れるというのは、「結果は単なる目印に過ぎないのだ」ということを受け入れるということです。
あらゆる結果、それが小さいものから大きいものまで、皆等しくただの印、いわばチェックポイントにすぎません。そのチェックポイントを見たときに次にすることを考えて実行する。行き先を決めて目的地に向かう、車の運転と同じなのですよ。
失敗も成功もすべて同じ
あらゆる結果はすべて単なるチェックポイントです。つまり失敗も成功もすべて同じものです。
どちらも等しく、次にすることを考え、決めるための指標。失敗すれば改善案を考えてまた手を動かし、成功すれば次にすることをまた新しく考えて実行に移して手を動かすだけ。
結局のところ、成功しようが失敗しようが、それをきっかけにしてやり方を変えたり、ちがうことをしたりするだけ。結局は手を動かしつづけるだけです。成功したらそれで終わりじゃない。成功しても失敗してもそれで死ぬというわけじゃないんですからね。
結果にこだわらないこと。結果に対して選び好みをしないこと。
期待する結果、想定する結果に執着しなければそのフットワークは相当に軽いものになってきます。目標を立てたら後はただ動くだけですから、別に難しいことでもなくなります。
結果に執着するから難しくなる。人生と同じですね。人生も自分のコントロールできないものを自分の人生の価値にしてしまったら、生きづらくなります。
失敗でも成功でもただ受け入れ、今ある結果をただ受け入れる。
こだわらない。結果に意味を見出さないことです。結果のことなんて忘れて、今のことをやっていいと自分に許可しましょう。
結果なんて言うのは気づいたときにいつの間にかある、というだけのものだとして忘れてしまえばいいんですよ。
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