かつて私はメンヘラであった。それも10年という期間の文字通り10年選手である。
しかし今はそれも過去の話。そしてそんな今となって、メンヘラであったがゆえに、部屋の片付けが全くできていなかったのだと確信している。
なぜなら私のメンヘラとは、現実よりも妄想の世界で生きることを求める生き方だったからだ。
目次
メンヘラだった頃の私の「生きる目的」
メンヘラだった頃の私ははっきりいって他人のために生きていた。
より正確には、他人の目のために生きていた。
「こんなこと言ったら変に思われないだろうか。バカにされないだろうか。」
「これをしたら褒められるかも。こんなことをしたら叱られるかもしれない。」
何をするにも、自分の頭の中には他人がいた。
その他人の機嫌を伺って生きるのが普通だったのだ。
全ては褒められるため。全ては好かれるため。
私はずっと承認欲求を糧にして生きていたわけだ。
承認欲求で生きるという、現実逃避の生き方
当時の私は承認欲求おばけであった。
まさにその塊といってもさしつかえないもので、それは上記でも書いている「常に他人のことしか頭にない」状態だ。
他人という妄想ばかり見ていたのである。
承認欲求を満たすために生きていたために、私は現実を直視して生きるということが全くできていなかったのである。
他人の頭の中という妄想が糧
承認欲求で生きるというのは、他人の都合で生きるということだ。
他人に褒められるために。他人に嫌われないために。
そのために自分を使って、他人の頭の中を探ってまで生きようとする。そんな生き方だ。
しかし他人の頭の中なんていうのは現実には存在していない。
現実とは単なる物質世界なのであり、他人の頭の中や精神世界などという自分の目にも見えず、一切感じることのできないなにかではないからだ。
しかし私はそれがあるとずっと感じて生きていたわけである。
そしてそれに従わないと行けないと思っていた。
それがずっと正しい生き方だと思っていたのだ。
だからそれをずっと”見続けて”て生きてきた。
当時の私にとってはその妄想が現実だったのだ。
「現実という身の回り」に全然関心がいかなかった
すべての関心が「他人にどう思われるか」という妄想であるため、それを起点にしないと一切の行動ができない。
そんなことだったから、自分の身の周り、自分からすぐ“物理的に身近な”手が届く何か。
自分の部屋や着るものや、様々な「物」たち。
そういった現実世界のものたちに全く関心をもとうとしていなかったのである
それはなぜか。そんなものに関心をもっても、誰も褒めない、けなされもしないからである。
他人に構われないなにかに興味をもつということは、自分にとって意味を感じられないものだった。
思えば、何かを面白いと思ったり、何かをいいと思ったりするとき、他人が良いと言えば良いと、悪いといえば悪いと無意識的にかんじようとして、
常に他人というフィルターを通して感情を使う癖のようなものがあった。
だからそのフィルターを通す機会のない身近な現実、
「身の回りのことである自分の部屋の片付け」ができなかったのだ。
他人というフィルターを通さなければ、自分の感情も行動を決めることもできなかったのである。
自分の意志でやろうと思えなかった
他人にやれと言われたことをやる。
これが当時の私の行動動機であった。
なので他人が存在しない一人暮らしの自身の部屋に対しても当然に無頓着だった。
当時のわたしの部屋は、まさに「汚部屋」だった。
至るところにゴミが散乱し、新聞だかチリゴミだかティッシュだかなんだかよくわからないもので床一面が埋め尽くされ、食べ残しや調味料の残骸があちこちにちらばり、汚水のようなネチネチとした液体が床にへばりついている凄まじい部屋だった。
そんな不衛生極まるゴミ部屋で、なぜ自分はそのままにすることができたのか。
その答えは非常に単純である。
だって誰も自分にやれと言わないから。
これである。どんなに汚くても関係ない。
他人の意思が介在しない限り、関心など持てない。
それ以外のことは食事や睡眠など、生理的欲求以外で動くことはなかった
好かれるか嫌われるか、という動機でしか動くことのできない人間であったがために、自分の意志だけで何かをしようとは思えなかった。
しかし他人が自分の部屋にたずねてくる、なんてことがあると、それはもう死ぬ思いで部屋を片付けた。
そうする理由は当然、そんな部屋を人がみたら間違いなく嫌われると思ったからである。
承認欲求を捨ててから、部屋の掃除をするように
しかしそんな私も色々あって承認欲求を捨てざるをえない状況に追い込まれ、数年をかけて”それ”を捨てることになった。(部屋のゴミのことではない
そうして捨てたあとは、自分の身の周りのことに対して自ら気にかけることが自然になった。
誰かにやってもらえるとか、誰かがやれというからやるという他人ありきの動機と思い込みがなくなり、他人のフィルターを通す必要がなくなった。
人生における目的が、他人の都合を満たすことから、自分が決めたことで生きるというものに変わったことで、
他人の意思を介在することがなくなり、単純に自分の意志で生きることが当たり前になったからである。
自分で決めて自分でやる生き方
自分が部屋を掃除しようと決めたらただ部屋を掃除する。
たったこれだけの変化だが、これはのちの私に大きな変化をもたらした。
何かを勉強しようと思ったらただ勉強をする。
なにか新しいことを始めようと思ったら初めて見る。
他人というフィルターを介在させないだけで、自分が思ったら即行動することができるようになった
それからの自分はこれまでとは考えられないくらいに自分の身の周りのことについて、いろんなことを自ら知ろうとするようになった。
不燃ごみの出し方とか、ゴミの分別、回収日はいつだとか、これまでは全く気にかけなかったことを進んで知るようになった。
その時は今までなんつーいい加減なことをしていたのかと思い知ったものだよ
それはゴミの捨て方とかそういうものに対してというよりも、
自分が何かをするという、自分の意志に対してである。
自分の意志をキレイにするだけで、こんなに自分の身の周りにはすることにあふれていたのかにきづけるなんて、思いもしなかった。感動すら覚えるほどに。
メンヘラからの卒業=汚部屋からの卒業
私はメンヘラを卒業し、自分で自分を生きるという生き方に方向転換をすることで、汚部屋人生から脱出できた。
「部屋の汚さは心の汚さ」とはよくいったもので、
私は自分の心を他人で散らかすことをやめて、自分自身だけで清潔になることで、自然と身の回りのこともきれいにするようになっていったわけだ。
自分で自分のことをするのは楽しいし、気持ちがいい
他人にされたい、そんな欲求を捨てることでわかったこと。
それは、人はただ何かをすることで十分に自分を満たすことができるということだった。
部屋の掃除をするのも、掃除をするのが楽しくて、気持ちがいいからする。
掃除すること”自体”が面白くて、やってみると色んな発見があるのである。
今どきの洗剤ってこんなにきれいにおちるのか‥と文明の利器の発達にたいして、目の前のなにかがきれいになっていくことに感動を覚えたりする
そう生きる様になってから毎日が発見の連続だった。そして人生をどんどん面白いものに感じられるようになった。
人にって人生の最高のスパイスは自らの経験である
だから他人に褒められなくても、そんな単純なことで人は幸せを感じられるんだ、ということを知ることができた。
何かを自分がしているということ。それを自分が肯定し、取り組みたいようにして取り組んでいくこと。
掃除したいときに掃除したいように掃除すること。
自分のしたいようにすることをすること。
それが「自分の人生」の純粋で淀みのない形であるということを知った。
それは本当によかった。今やかけがえのない人生経験の一つだ。
だからもし部屋の片付けができないコンプレックスで悩んでいるのであれば
まず掃除すべきは自分の心の中かもしれないということだ。
感動しました!
わたしも他人が良いとするものを好み、悪とするものを排除するという生き方でした。なので、どう生きたらいいか全く分からなかったです。