私の鬱は完全に「甘え」だった!




注意書き追記 この記事はタイトルにも明記している通り、「私自身のうつ病」に関する記事です。

私自身のうつ病の捉え方と、それに対して立ち向かうことについて書いております。

他の方のうつ病に対する記事ではありません。現在いろんな方からこちらの記事にコメントを頂いておりそれぞれ返信させていただいていますので、もし何かの参考にしていただけるのであればそちらも見て頂ければと思います。

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まず結論から言うと私のうつ病は、脳の病気だとか過労からくるものではなく、自分の認知の歪みが原因のものでした。それは薬でも治ることもなければ症状も軽くなることもなく、自身の認知の歪みの治療によって治ったからです。

その原因は承認欲求。

他人に支配されることを選び、他人におびえて生きることを肯定してきた人生。他人に甘え、許してもらわないと自分を認めることができない、そんな他者に対する怖気からきているものでした。

うつ病になったその自分に至るまでの生い立ちについてはこちらの記事で書いておりますので、もしご興味があればこちらを一読いただければと思います(^^)/。

新卒で入社した会社でのいじめで発症

当時私は会社の中の人間関係の問題でうつ病を発症し、仕事が全くできない状態になっていました。先輩に陰湿ないじめをされ、それが引き金となって常に頭と肩と背中が何かに吊り上げられているかのような神経痛と、頭は重く冷や汗が噴出しづつけるいうような、今まで感じたことのない壮絶な恐怖と激痛の中で仕事をしていたため、それに心が耐えられなくなり、発症しました。

とても働いてられず休職することに決め、ある日休職の申請を総務部長にしている最中でした。自分はうつ病であると事前に宣言していたので、回りに「自分を大事に扱ってもらえる、思いやってくれる」「こんなにつらい思いをしているんだから気を使ってくれるはずだ」と思っていました。

特に総務部長は私が入社当初から優しい方で「最近どうだ?」「仕事は順調?」と声をかけてくれるような気さくな人だったので、そう期待していたんですよね。

ところが休職の面談の中で行われたそのやり取りではその期待を大きく裏切るような冷たいものでした

「いつ復帰できそうですか?」

「休職は2ヶ月まで。それ以上伸びるなら退職してもらうから」

「君は優秀だったと聞いていたけど残念だね。将来有望だと思っていたんだけど」

と、終始淡々としていて、私のそんな苦痛の気持ちをに対するねぎらいの言葉とか「大丈夫?」みたいな温かみのある言葉は一切ありませんでした。

目の間にいたのは、いつものやさしそうな表情をした人ではなく、まるでゴミを見るかのような座った目をした冷たい表情の冷徹な人だったんです。

すごくショックでした。同時にとても恐ろしくひどい裏切りを受けたような強烈な感覚でしたね。

むしろ「2カ月以上休職するなら自主退職してもらうから」と、半ば脅しのようなことばかり言われ、「あの人がまさかこんな風な人だったなんて…」ととにかくひたすらにショックで信じられませんでした。

今思えばその会社は離職率も高くて、社員が体調を崩すと辞めていくことが多かったのですが、そうやって人を使い捨てにしてきたのかなぁと思いました。後から聞いた話では総務部長は自分の退職金にしか興味がなく、がめつい人だったことがわかりました。

また回りの私に対する腫れ物を障るかのような、よそよそしい態度にも耐えられず、その日は会社を早退して家でずっと泣き崩れていました。

その後2ヶ月休職したものの、結局体調も万全に戻らず、復職後はそれから自分なりに必死に働くも結局治らず、やむを得ず退職の意を伝えたときには

「退職後の1年間は同業種での就業は禁止です。」

「ではここにサインと印鑑をお願い。」

「はいこれで終わりです。お疲れ様でした。」

と相変わらず淡々とした調子で進むだけでした、私の事なんかよりも他の総務のメンバーとくだらないおしゃべりすることの方が大事そうでした。

誰も私のことなんか気にしていない。どうでもいい。人ってこんなに冷たいんだなぁと思いましたね。

親にも相談したけど…

休職をしようと思ったときは、親にも休職のことを相談しました。

うつ病になってしまったことも伝えて、ちゃんと話せば自分のつらさを分かってもらえて、同情してくれるだろうと、わかってくれるだろうと。ところが…

「うつ病なんて情けない。ただの仮病でしょう?」

「会社やめたら家を追い出す」

「ニートなんて絶対許さない」

といわれ、私がうつ病で苦しんでいることなんて眼中にもなさそうでした。親でさえも、私のことはどうでもよさそうでした。自分の世間体とかの方が大事そうでしたね。それを私に習わせることしか頭になかったのだと思います。

その日を境に一気に人間不信が爆発し、親とも誰とも一切口を聞かなくなり休職期間中にも関わらず衝動的に部屋探しを始め、約1ヶ月で家を飛び出して一人暮らしを始めていました。

一生一人で生きてやる。誰にも頼らず。」とそういきまきながら。収入ゼロなのにね。今にして思えば相当に無謀なことをしたと思っています。働くことすらできないような精神状態だったのに。バカだったなぁと思います。

でもそれくらいバカにならないと、私はあの家でずっと母からねちねち小言を言われ続けていただろうし、ずっと親に支配され続けて苦しみ続けて生きるしかできなかったと思います。

休職中とはいえ会社には在籍中の状態でしたから部屋はすぐにみつかりました。しかし体はろく動かず、休職期間中はずっと一日中ぐったり寝ている日々が続いてました。復職してからも隊長は全く戻らず度々欠勤し、出勤すれば会社からボロボロの状態になって帰ってきてはぐったりとしていて、ずっとひどい前述の神経痛に悩まされる日々が続いていました。限界がきて結局は会社を退職し、それから1年くらいニートをして、ようやく体が動くようになったころには貯金も大分減っていました。それからはアルバイトをして生計を立てていましたね。

いろいろ自分なりに大変な思いをしましたが、それでも親を頼ったり実家にいるよりは精神的に相当良かったとは思います。あそこにいたら多分再起不能になっていたでしょう。社会復帰なんて夢のまた夢、ずっと親に飼殺されていただけだったと思います。

母親から離れて

今現在の話をしますと、父親も含め親とは連絡を取っていない状態で、関わる理由がないから関わっていないという感じです。恨みなどではなく、単に興味がないから関わっていないというか。

不思議でした。当時は母親に認められたいという一心もあって、母親を見返してやりたいとかこんな風に育てた母親に復讐してやるとか、母親に「あんたの教育が間違ってたから自分はこんなに苦しんでるんだ」っていうことを証明しようとしてました。

無言の家出もその一環です。そうすれば「なぜそんなことをしたのか」と母親が考えなおしてくれるかもしれない。「自分が悪かったって反省してくれると思ったんですよね。

これまでの私に対する様々な態度を謝罪してほしかった。私がこんなにつらい思いをしていることに気づいてほしかった。親なら当然子供の気持ちはわかるはず。そう信じて期待していたわけですね。

でも母親は全くそんなことを気にしてない様子でした。突然電話をよこしたかと思うとあっけらかんとしていて、「たまには連絡してよ」「なんで電話無視するの」と自分のことばかりでこちらの気持ちなんか少しも気遣ってはくれませんでした

ただ母親は母親の都合で私とかかわっていただけ。私のためなんかじゃなかったんです。

以来母親には完全に愛想も尽きただ憎しみばかりが募り以来ずっと着信拒否するようになりました。それでも認めさせたいという強烈な気持ちだけはずっと残っていました。

「母親を分からせたい。母親が悪いってことを証明したい」

結果毎日毒親関連の本を読み込んだり、同じ境遇の方の動画を見て共感しようとしたり、掲示板を除いて他の人達の毒親経験談を読みあさりながら、母親の非を探すことに必死でした。

うつ病を治す中で起きた”変化”と”気づき”

しかし、ある日アドラー心理学に出会ってから自己を分析していく中で、自身のうつ病の原因が自分の強烈な承認欲求から来ているということがわかってきました。

部長や他の会社の人達への自分に対する思いやりの要求も母親への復讐心も反省への期待も全て「自分を認めて欲しい、自分は何も悪くないということを誰かに認めてほしい」という欲求が根本にありました。それが一向に満たされずひたすらに裏切られ続け、それが絶望感となり自身をうつ病に追いやったということに気づきました。

それ以来そんな自身の認知の仕方、くせ、価値観を変える日々を送るようになっていきました。毎日がいろんな気づきの連続でそのたびにメモに書き取りかれこれ5年以上続く日課になっているので多分1000万文字は超えているじゃないかと思います。

それだけたくさんの歪んだ思い込みをしていたんですね。

人は元から他者と心を共有できず孤独であり、それが変わることは一生ない

徹底的に突き詰めた上で出した答えを基底に、自分の心に癒着した他人の存在を切り離しながら少しずつそれを受け入れていきました。(それをこのブログに記事としていろいろと残しております。)

母親に対する気持ちの気づき

気づきと認知修正をしていく中で少しずつ承認欲求が薄れていきました。するとそれと同時になんと母親に対するあらゆる興味がどんどんなくなっていったんです。「母親に彼女自身の否を認めさせたい」という欲求が無くなっていったんですね。

その時気づきました。私だって母親自身の気持ち、母親の心に無関心なんだってことに。母親にされたいことしかなくて、したいことは何一つもっていなかったということに。

母にしたいこと、母としたいことが何もなかったから、承認欲求を捨てていくと関わる理由が何も残らなかったのです。

母親を自分の思い通りにして承認欲求を満たすことにしか関心がなかった自分の理想の親像を求め押し付けたい欲求以外なかった。

それってつまり、今まで母親が自分を母親の思い通りに従わせようとしてきたそれとほとんど同じなんじゃないか、ということに気づきました

さらに私はそれを母親だけではなく他人に対しても求めていたのです。誰かに「好かれたい」「評価されたい」。それを得るための「こうしたら好かれる」「嫌われないはず」と、本来他人が決めることを全部自分で勝手に決めたあげく、実際にそうでなかったときには「裏切られた」「誰にも好かれなくてつらい、悲しい」と絶望したりと勝手に勝手を重ねた、身勝手すぎるルールと要求を無意識に他人にも自分にも強いて、それが果たされないことを勝手に絶望していたのでした。

私は誰かにひたすらに自分の世界観を押し付け、コントロールしようとしていただけの人間だったのです。知らず知らずのうちに嫌いな母親と同じ人間になっていた。毒親の素質を受け継いでいたのですね。

友人なんていなかったこと

今までの人生で自分を好きになった人ばかりを好きになったのも今思えば、他人をコントロールするために自分に強いてきた”犠牲”を、まるでその人がすべて認めてくれたような、それで報われたかのように感じたから、という理由だったように思います。

母親に対するものと同じでその理由でしか他人と関わる理由がありませんでした。他人をただ自分の承認欲求を満たすための道具として使っていただけだったんですよね。だから自分だけで好きだといえる友達はずっといなかった。自分から遊びたいと思った人や何かをしてあげたいと思った人、好きだと心から思っている人なんていなかったんです。みな自分に嘘をついて得た仮初のようなものでした。

どんなに友人と思える人といても心は常に孤立していた。常に取り付く島もない感じで周りに合わせて嘘をついて付き合っていて心から楽しんでいた自分はほとんどいなかったと思います。

そんな自分に気づいてからしばらくして、かつて私に冷たくあしらった総務部長や腫れ物扱いした先輩や同僚に対しても恨みや期待はなくなりました。単に彼らはそれぞれの都合で行動していただけで、私はその人たちに自分の都合を無理やり押し付けようとしていただけ、依存しようとしていただけだったんですよね。

苦労=報われる という勝手な決めつけをしていたということ

当時私は趣味で絵を描いていましたが(幸い今も続いている趣味であります)、自分がとてつもない労力をかけて描き上げた絵であっても期待通りには評価されることはありませんでした。

「こんなにがんばったのになんで評価されないんだ、どうして褒めてくれないんだ」と一々悲しくなったりイライラしたりして絵を描くのが楽しくなくなったりしていましたね。やがては思ったようにうまくなれない自分にもイライラして、絵を描くこと自体がつらくなってしまいました。

でも私がどれだけ努力しようが苦労しようが、他人がそれをどう感じるかは関係ないんですよね。

思えば自分の思い通りに他人が動いてくれなかったりこちらを思ってくれないことなんてなんていくらでもあったんですよ。自分がどれだけ苦労をしても他人は全然知らぬ顔なんてことはたくさんあった。イライラすることなんて何度もあったはずなのにそれを受け入れたくなくて見ないふり、気づかないふりを無意識にしていたんです。

私は他人を一切コントロールできてなかった。そんな能力は最初からなかった。当たり前の話なんですけど当時の私は他人を自分の努力で本気で思い通りにできると思っていたんですね。それを前提に考えて生きていたからこそ、何をするにも他人の評価を自分のやることに結びつけないといけなくてでも満たされないばかりか否定すらされて、自分の無力さに耐えられず生きづらかったわけです。

他人は皆自分と違うということ

他人と自分の課題の分離をしていく中、他人と自分は全然違う考え方や価値観、感覚、感性を持っているんじゃないかという風にも思うようになっていきました。またここを勘違いしていたからこそ、他人を理解することで他人を支配できるという思い込みにつながっていたことも分かりました。

皆生まれた環境や場所、価値観や文化もその全てに至るまで違うので、そこで経験することも全然違います。というのは同じ日本人であっても家族という環境が違う、住んでいる場所が違う、付き合う人が違う、周りの動植物や空気の味、そういうものに至るまですべてが違うわけです。そんな自分と何もかもそれぞれ違う他人達という存在がどうして自分と同じ考え方や価値観をもつことができるというのか。ほとんど不可能な話だという風に気づきました。

人と暮らすことって私にとっては、母親の言う正しさの通りに生きること、つまり母親と同じ人間になることだと思っていたんです。母親が正しくて父親は間違い、家族はみな同じ母親の言う価値観を共有して生きていくべきなんだと。

でもそれは間違っていて、誰かと同じ価値観で生きるのではなく、違う価値観をもつ者同士が共同生活するのが家族だったんですよね。無理に押し付けてでもしないと暮らせないというのならそれは別れた方がいいという話で他人の価値観を踏みにじってまで共同生活を送る必要なんかなかったわけです。

「普通に生きなさい」「これくらいできて当たり前のことでしょ」「常識でしょ」「人前では行儀よくしなさい」「それじゃ恥ずかしいでしょ、ちゃんとしなさい」「お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい」[あの人(父)のような男には絶対なるな」

色々なことを母親から教えられましたが、ほとんどが他人軸の発想のものでしたし、すべて母親の世界観や都合の話でしかなかったんです。誰もが考える常識なんかではない。そんなものがあるかどうかなんて証明のしようがないのですから。

「私はあなたのことなんて全部わかっているんだから」なんてよく言っていました。でもそれもみんな母親のただの思い込みだったように思います。私はその母親の言い分を怒られないために無意識に服従して、そう思い込んでその通りに演じていただけで、本当はいいたいことがたくさんあった。でもそれが言える立場でなかったから母親の言う通りにならなきゃいけないと自分を追い込んで、必死にそのふりをしていただけだったと思います。

私は誰のことも知らなかったということ

自分は他人をどれだけ知っているのか。─考えてみれば見るほど、全く知らないことがわかってきました。そしてこんなにわかっていないのなら、おそらくほかの人も他人のことなどすこしも分かっていないのではないか、わかっていないのなら、誰も自分と同じかどうかなんて知らないのだから合わせることすらもできず、人と人は違っている方がむしろ自然だ、という風に思うようもなりました。他人のことを理解できているというのは「この人はこう考えているに違いない」なんていう自分の勝手な思い込みで、私はその思い込みを基底にして暴走していただけでした。

そしてそれに気づいた時思いました。

なんだ、人って案外めちゃくちゃ適当で自分のことしか考えてないんじゃないか、ってことに。

健康的でいつも快活な元気な人ってなんであんなふうにふるまえるんだろうってずっと思ってました。それはその“適当”さがあるからなんじゃないかって。少なくとも私みたいに他人を本気で理解しようとして執着したりはしてないんじゃないかって。誰かの面倒を見たりヒーローか何かになろうともしてない。ただなんとなく適当に思ったことを適当に背負うこともなく事投げに言っているだけなんじゃないかって。

「いいんじゃん、適当で」

そう悟った瞬間、肩の力がすっと抜けていったことを覚えています。

他人に対する執着心。恨み。妬み。そんな他人を責めたい感情、自分の都合を他人に求め執着する感情が、自分を苦しめていたのです。

他人に救われたかっただけだった

こんな面倒で苦しい思い込みをしてきた理由はとても単純なものでした。他人の世話をし他人の犠牲になり、他人の都合を満たすことで自分の人生を導いてもらい、守ってもらうことが目的だった

他人は私にとって救世主であり、神も同然でした。

それゆえいつも他人荷好かれているか不安で、他人が自分に無理難題を吹っかけてくることも怖くて、自分できめられなくて自信がもてなかった。救世主である他人から救われるにふさわしい自分でなければ安心することはできないと思い込んでいたからそれを得るために承認欲求を求めていたんです。

つまり自分で勝手に他人を神のように見立てそれによって作り出した不安によって自らを追い込み、それを救世主の他人によって許されることで解放するという一人マッチポンプだったんです。

都合よく支配されたかっただけなんですよね。そんな他人に対する歪んだ思い込みの「甘え」が、かえって自分を苦しめていたんだ、と気づいたんですね。

しかしまぁ、こうして書きだしてみるとかなり複雑な思い込みをしていたようです。道理で気づきにくいわけです。手放しづらいはずです。恐怖と絡めて他人と自分の境界性を曖昧にしながらがんじがらめに思い込んでいたわけですからね。

私も他人もただの人間、皆自分のためだけに生きてるだけ

「人って自分の都合でしか生きていないんだ」

「でもそれで十分なんだ。私も他人も最初からそれしかやってないんだもの」

ということを他人からも自分自身からも、ほとほとに実感させられました。

他者には他者の都合がある。そして何より、自分には自分の都合がある。

他人は自分を救ってくれる神様じゃない。自分と同じただの人間だった。親だろうが何だろうが先のことも正しいことも知らない。何も知らない。無知な存在である人間であり、それはみな同じです。

だから自分を救いたいなら自分で自分を変え、自分で決めて生きることを選ぶほかないと気づいたんですね。

私が苦しんでいようがいまいが、「かわいそうな自分」「苦労している自分」であろうが、そんなの他人に関係ないし、それをどう思うのもどう接してくるのもすべて他人の自由です。

他人は自分の人生を決めてくれなんかしないし、保証もしてくれないし、都合よく与えてくれもしない。私を都合よく管理もしてくれないし、正解を与えてくれない。他人だってそんなのわからないから。他人はそう私に餌をちらつかせて、私を都合よくつかうことしかやってなかった。

価値観や信条は個人でバラバラで、たとえ特定の誰かの価値観や信条に従って同じになったとしても別の人のそれとすぐにコンフリクトを起こしてしまうだけ。

ある人の価値観はある誰かの価値観とは合わなかったり、その中に絶対的な正しいものがあるわけでもなかった。普通や常識はあるようで実はなく、そこには何の救いもなかった。

考え方、価値観、信条、生き方、あり方といった自分が決めることを全部他人や外の何かに決めてもらおうとしてきたがために振り回され続けて、最終的にはその他人に対する膨れ上がった思い込みに裏切られ絶望した。

甘えを持っていたがゆえに被ってきた損害。自分の人生を他人を使って損なってきた。甘えによって作り出された生きづらさ、不自由さ、窮屈さ、うつ病だったんです。

甘えを捨て、孤独を受け入れ、自由を楽しめるようになった

仕事を辞めたければ、素直に辞めればよかった。苦しいって感じているのなら充分すぎる辞める理由だった。絵を楽しみたいならただ描くことを楽しめばよかっただけ。誰かにどう思われるか、評価されるかどうかなんてどうでもいいんです。

誰かの許可も賛同も基準も何もかもいらなかったんですよ。自分が感じること、考えること、やること。そんな目の前の自分の世界には自分という感覚だけしかいなかったんですよね。

自分の決断を下せるのは自分。自分のやることを考えるも自分。それを楽しむのも味わうのも、自分だけ。

この5年間以必死にもがきました。そうして変わった私の世界は当時の自分の世界観からは見違えるくらいに静かで孤独になりました。

でもとてつもなく自由で生きてて楽しいな、って気持ちよく思えるようになったんです

最初はそんな孤独をどこか空虚でどこか寂しい、こんな人生に意味なんてあるのかとも思いました。でも自分で何かを決めて夢中で取り組んで気が付いたら目の前に何かが出来上がっている。その時のすがすがしさ、達成感、解放感。それを感じてからはそんなものはどうでもいいものになっていまいた。

それは小学生のころ、夢中で一人で校庭に出て延々とボールを壁あてしてた頃の感覚でした。

約20年ぶりの誰のしがらみもない誰の制限もない、自分だけがそこにいて、自分だけで何かをやっている時に感じたあの感覚。別に何か意味があるわけでも将来につながることでもなんでもなかったことなのに、生涯の中で最も充実していたと感じていたあの時の純粋な感覚をもう一度味わうことが出来たんです。

まさにホーリーグラウンドでした。そういえばそんなかんじのタイトルの漫画があったなぁ。とても面白かったです。

それからは仕事も何もかもその感覚でやるようになり、何事においても背負わなくなりました。「仕事ってこんなに気軽にできるものなんだ」「絵を描くってこんなに楽しいものだったんだ」っていうことにも気づきました。何も背負わずに仕事ができるなんて、ただ絵を描いていること自体がこんなに楽しいものだったなんて、今まで感じたこともありませんでした。

自分の世界のとらえ方ひとつでここまで見え方が変わるんだ。と、そう実感した瞬間でした。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

78件のコメント

自由と自己責任のもとに生きることがいかに解放的か、とても的確に表現された体験談だと思いました。ありがとうございました。

比較的感情的なコメントが多くて驚きました。自分の苦悩が誰かのせいだと強く思っている状況にあれば、その不満(依存心)が実は自分の問題であると示唆されるのは、受け入れ難い場合があるのかもしれませんね。

また一方で、このページに辿り着いたたということは、自分自身への疑いが薄々あるのかもしれませんね。妙に感情的なダメ出しが多いと、現実に向き合うのを必死に避けているような印象です。それもまた本人の自由だとは思います。

確かに、当時の私だったら多分、「うつは甘えなのか」とネットで検索してたと思います。外にその正解があると信じて、それを探し回っていたでしょう。

多分その時の自分に都合のいい答えが見つかるまで…

とは言えこれもおっしゃるとおり、人の生き方に正解はないとは私も思うので、そうったことも全部ひっくるめて本人の自由である、というのはそのとおりだと私も思います。

結局人は自分の見たいように世界を見ているだけですしね。

コメント、ありがとうございます^^

お返事ありがとうございます。
貴重な体験談を共有してくださって、改めてありがとうございました。
どうぞよい夕べをお過ごしください。

はじめまして。
私も鬱とパニック障害等を患い、苦しみの中から同じような考えに至った者です。
他人は他人、自分は自分。
その線引きみたいなものはとても大切ですよね。
この考え方に至ってからは驚くほど楽になったのを覚えています。
私の場合はホ・オポノポノの本が足がかりになりましたね。
他人にも自分にも執着しない、という言葉が妙にしっくりとはまったのを覚えています。

それまでは他人に冷たくされることに傷つき、拒絶されることを恐れ、受け入れてもらえなければ絶望して、ひたすらに他人の中に自分の存在意義を求めていました。
私を受け入れようが拒絶しようがその人の自由なんですけどね。
鬱のど真ん中にいる私には理解できなかった。
もともと思い込みが強い頑固な性格でもあったので「人が苦しんでいるのだから助けるのは当たり前」
「○○だから○○するべき」という考え方も強く、他人にもそれを求めて生きていたのでしょう。
生きづらさの塊でした。本当に。
自分で一生懸命自分の首を締めてるようなものだから当然ですが。

自分と他人を分けられるようになってからは本当に楽になりました。
私を拒絶しようが嫌おうが、逆に受け入れることだってその人の自由なのだから。
この世界で自分の力の及ぶ物のなんと少ないことか。
気づいてからは以前のように傷つくことはなくなりました。

色々なコメントが寄せられていますがそれもまた自由、考え方は人それぞれですよね。
私にはとても共感できる記事でした。
共感できる人も出来ない人も、少しでも生きやすくなる自分を見つけられたらいいですね。

ホ・オポノポノの本ですか…初めて知りました。おもしろそうですね!ありがとうございます。

うつ病真っ盛りの時はプライドも高かったですね。

社会は間違ってる。なんで他人は自分のことを気にしてくれないんだ、気にかけてくれないんだ、自分はうつ病なんだぞ!みたいな。

そういう相手に対する必死なプライドと、満たされない相手の承認の飢餓が自分を苦しめているそのものでしたね。

変わってほしいと必死に願ってもわめいても、悩んでも、苦しんでも、
やっぱり他人は他人の目的を生きてる。他人は他人の都合で他人のありたい何かにしかなろうとしない。

そしてそれは自分も同じ。私は他人にすがることで、自分を安全だと思い込みたかっただけ。他人の都合も知らずに。

他人も自分も、同じ主人公なんですよね。

ドラクエのビアンカみたいなのを私は求めていたような気がします。

でも現実の他人、というか人は、魔王を倒すという自分の使命という個人的目的のために人の家に土足で上がり込んで、タンスやらツボやら割って物資をかっさらうこともある主人公なんですよw

とまぁちょっとしたジョークですが…まんざらはずれってこともないかと思います。

奉仕者の他人なんてどこにもいない。自分のためだけに奉仕して、尽くしてくれるような人は、自分勝手な妄想の世界だけでした。

結局自分の生き方は自分で選ぶしかないですね。世の中にはいろんなその形がありますが、それをどうするのもやっぱりその人次第。

コメント、ありがとうございます。私もそう思います。

私自身は父の母に対するDVやモラハラがきっかけで病んでいき最終的にには身内の不幸で止めを刺され鬱になり不登校になり通っていた高校を辞めました。
現在は完全復帰はしていませんが大学に通っています。

今から支離滅裂な無茶苦茶な文を書きます。考えの殴り書きですご了承下さい。

私も貴方と似たような意見を持ったことがありますが現在の自分はこれを否定しています。何故ならこの考えは確かに間違っていないけれど正解でもなくこれからの未来の発展を否定している考えだと思ったからです。またこの結論を出すには早すぎるとも思います。確かに現状はその結論で納得出来ているかもしれませんが貴方が死ぬ間際でも同じことを思っていられる自身はありますか?私には少なくともありませんでした。

人は今まで理解できないものを必死に理解しようとしてきた事実があり例えば科学も自然の現象を理解するために生まれ人々の生活に応用出来ないかと発達してきました。昨今耳にするLGBT問題だって、障害者問題だって理解なんて出来なくとも理解をしようとすることで世界はより良い方向へ変わります。
この世の中をより良くしていくことから逃げる行為こそ甘えだと”今現在の私”は思います。しかし期待する事は必ずいつか自分も傷つくし、必ず相手もいつか傷つける事になります。

また承認欲求が現在問題視されているのは裏を返せば生理的欲求、安全欲求、親和欲求がある程度満たされるほど日本が裕福になった証拠であります。そして次の欲求満たそうとする段階に入っています。それが承認欲求なのです。その承認欲求を否定することは今後の発展を否定する事と同じではないでしょうか?逆に考えてみて下さい。食べて行くことすら出来なくなりつつあったら承認欲求なんて完全に何処かへ消えて生理的欲求を満たすことを第一にしようとするはずです。

相手を理解すること、されることから逃げる行為こそ甘えであると思います。人々の承認欲求満たす事の一つがLGBT問題や障害への理解へつながるのではないでしょうか?

女性の社会進出問題だって女性が社会に進出することが可能なほど豊かになったからこの問題が出てきたと私は考えます。当然昔は医療は発達していない訳ですから産後の肥立ちも良くなく、赤子だって7歳を迎えるまでとても難しい時代で7歳まで育ったとしても子供を預ける学校といった施設は無く誰かが子供の面倒を見る必要性がありました。しかし現在はどうでしょうか?わざわざ書く必要すら無いですね。
現代の日本は女性が社会に進出出来る環境が整っているけれどまだ人々の考えや社会のシステムに組み込まれていないから問題になっているのではないですか?これと同じように承認欲求を満たせるまでの環境は整えつつあります。

しかし承認欲求を満たそうとするのにはまだ課題が多く残っています。なので私は”そうかもしれないし、そうでないかもしれない”という考えを前提に持つようにしています。それは言い換えると”理解されるかもしれないけど理解されないかもしれない”になり色々と応用が効きます。例えば、サプリメントの効果や天気予報にだってあらゆる物に応用出来ます。なにかに期待するわけでも無く孤独になる必要も無いこの考えを持ちながら自身以外すべてのモノや現象を理解しようとする心構えを持つことでより良い世界へ繋がっていくと私は信じたいです。

貴方の考えを否定するわけではありません。貴方の考えは鬱のつらい状況から脱却するためのたった一つの方法であることには間違いないと自分も思っているからです。ただしその考えに染まり切るのは良くないことではないかと私は思いました。

人の考えなんてものは変わって当然なものです。変わるから良い方向にも悪方向にも進むのです。この私の考えも三日後には変わっているかもしれませんがこれを書いた現段階での考えをここに残します。

アドラー心理学は、私の解釈ではこの世の発展を放棄しましょうという考え方ではない、と思っています。

あまり詳しくありませんが、おそらくそれは「ヒッピー思想」というものではないでしょうか。

アドラー心理学は個人心理学ともいわれています。いえ、むしろこちらの方が正しい日本語訳ですね。

自分自身の心のあり方をどうするか、という問題です。

「誰とも関わるな」などとは言ってませんし、「何もするな、目標をもつな」とも言っていません。
私自身、何かを学んだり生産する行為は、人生の中でも最もやりがいのある最高の”暇つぶし”だととらえています。

わたしの言っている孤独も、物理的な人同士のシャットダウンなどではなく、自身の心や認知領域に対する心理的な孤独のことを言っています。

社会に暮らしていれば人と関わることを避けることはできません。しかし関わり方、関わるときの自身の認知や感覚の使い方を変えることはできます。

大事なのは相手の理解ではなく、「話すこと、交渉」です。相手の頭の中にある理解というものを、やはり人は理解することはできません。

できるのは自分が何をするのかということだけ。自分が何をどうとらえるのか、ということだけです。

ではその交渉とは一体何のためにするのかというと、「自分の目的のため」に行います。

自分のしたいことをするために、進むために交渉する、話をする。

それで「協力」「締結」できるならする。できないならしない。

それだけの問題です。

ここには、相手の理解、と言うものはないです。

話し合って、互いがしてほしいことは何か、して欲しくないことは何かを「話して決める」、というものだけ。

談笑とかはまた違ってきますが、基本的にはここです。

だから私は私の要求を通すために、私の目標のために、相手が本当に自分と協力できるかどうかを確かめるために「相手から話を聞いて、聞き出し、話をします」

自分の意見を言うだけではうまくいかないこともありますので、聞くことも重要だと思っています。ただ聞くだけでもっまだ足りないので、如何に聞き出すかの術を身に着けることが重要だとも。

ただ、やはりここには「相手の理解」はない。いくら話をしても、相手の理解にはたどり着かない。

相手の理解、つまり相手が考えること、感じることは全て相手の都合、相手の課題の問題です。

それでも理解してほしいと思うのなら、話せばいい。理解されるために話せばいいと思います。

できないというのなら、その課題を他人にはどうすることもできないでしょう。

LGBTの問題も、問題視している本人が自分はこう思っていて、だからこれはしないでほしい、こういう風には私は考えていない、ということを本人が話さなければ不可能です。

本人が自分から話したいと思わない限りは、他人にはどうすることもできません。

そして他人のそれは私の課題ではありません。そのような仕事をしているわけでもないですから。

そこまで受け持ったら、私の時間が無くなってしまいますので。

私は承認欲求だけが、世の中を発展させるとも思っていません。むしろ承認欲求によって発生している問題もあります
かつての私のように鬱病に苦しむ人、自分の意見がいえずブラック企業でサービス残業させられている人。

暴広告会社で新入社員が過剰な労働時間、ストレスを苦に自殺してしまった痛ましい事件もありました。
労働環境の問題もありますが、当人の承認欲求が要因にもあったように思います。

もし自分軸でいられたら、死んでしまう前に自ら辞めることを選択することもできたかもしれません。

こういったことからも経済的退廃にも一役買っていると思います。

もし自分に素直になることができたら、自分の素直な夢を追う人生を送ることができたかもしれない人もいるもしれません。

スティーブ・ジョブズ氏など、他人に嫌われようが関係なく自分の夢を追い続けて世の中に貢献しようとした人もいます。
彼は生前強情で頑固だったらしいですし、特に一緒に働く仲間からはかなり嫌われいたようです。

でも実際多大な貢献をしていますしね。

むしろ彼らのような人たちが文明を大きく発展させてきたのではないでしょうか。

もちろんその貢献した結果自体が素晴らしいから、ということじゃないんです。

本当に素晴らしいのは、本当に自分が大事だと思ったことに対してつき進むことができたこと。

周りにどうこう言われても自分を見失わず、孤独を受け入れている心、不屈の精神。

ただ目の前の自分の立てた目標に向かっていくことができる「在り方」

その「生き方」なんです。

私も承認欲求自体を現在は「悪」とはしていません。正しいことでも間違っていることでもない、というのも私も同じ意見です。

自分を変える過程でそういった二元論的思考で世界を見なくなりました。

でも人間は生きている以上は「選ぶ」必要があるとも思っています。特にこの「生き方の問題」は、まさにどちらを選ぶか、という問題だとも。

他人軸か、自分軸か、というのは簡単に切り替えられるようなものではありません。
私自身自分を変えるのに5年以上もかかっています。その経験からしてもそんなスイッチのように簡単に切り替えられるようなものではない、というように体感しています。
つまり「変わること自体」が生半可な取り組みではできることですらなかった、というわけです。

だからわたしは「これからは自分で選びたい」と。自分軸で生きたいと、そう思いました。

「誰かに選んでもらうこと」からは卒業しようと思ったのです。

誰かに選んでもらってもいつも不満ばかりでしたが、今は自分の人生に納得しています。

いえ、納得しているというよりは楽しんでいるといったほうがいいでしょう。

将来的にその生き方で大丈夫か、という話ですが、それについては「わかりません」です。

先のことはわからないですからね。

でもそれは、今何をしていようがおなじことです。

今どれだけ心配する何かに備えても、ひょっとしたら明日には交通事故で死んでいるかもしれない。

最近ですと、新型コロナウィルスの件もありますしね。そのようなことを常に予見して行動できますか?

これからどんなことが起こるか、常にそれに備えられますか。

その備えることに時間を使って他のことに使える自身の時間がなくなることは納得していますか。

備えることは自分が心からしたいと思ったことですか。

備えることで自分は幸福でしょうか。楽しいでしょうか。満足できているでしょうか。

それに納得していますか。

結局のところ、人間にできるのは今の自分を生きることだけです。今自分がどう生きるのか、生きたいのか。

他人のものではありません。他人の脳をあやつることも、他人に成り代わることも人にはできない。
全ては自分の都合しかないのです。

備えることに時間を使おうが、遊ぶこと時間を使おうが、仕事に時間を使おうが、勉学に時間を使おうが、結局最後は自分が選択するほかない。

そしてその責任は全て自分が持つしかない。他人でも社会でもない、他でもない自分です。

人の人生はそんな「選択の連続」です。その選択を他人軸にするのか自分軸にするのか。

それを選択するのも、自分次第。

どちらも間違っているとも、正しいとも言えない

でも選ぶんです。そこは皆同じことだと思います。

ここに書かれていることをどうとらえるかどうかも同じことです。
おっしゃる「染まり切る」というのも。

全ての選択はそれぞれの読み手の方次第です。

私のことは関係がありません。ほかの読み手の解釈も関係ない。

私の課題はそれぞれの読み手の課題じゃないのです。

だから何を自分が選択するのか、私のことよりもご自身のことについて考えることをおすすめします。

こんにちは。
このブログを読んでなんども助けられ、気づきをいただき感謝しています。ありがとうございます。

ただひとつ、コメントの返信について、わたしは上記の匿名さんやしんさんに対するトーンが、煽るような言い方という印象を受け、それが残念です。
特にこのブログがアドラー心理や他人についてのこと、また内容は素晴らしいものであるためです。

もちろんこれはわたしが思ったことに過ぎない。ただ、あなたは不必要に人を煽るような言い方をする必要もないと思います。

そちらのコメントについては私も反省しております。

もう少し言い方があったというか、単純に「お力になれないと思いますのでおかえりください」の一文でもよかったなと。

アドラー心理学も、考え方の一つにすぎないですしね。

このころはまだ相手に変わってほしいという思いがあったと思います。未熟でした。

人生というのは本当に孤独で、自分の人生の課題だけを考えるだけなんだ、と気づいてからは

自分以外の人達すべてがどうあってもどうでもよくなりました、

そんな他の人を気にしないい感覚の私ではありますが、私にとっていいと思ったことをこれからも配信していきます。

ご指摘ありがとうございます。

「私は人を承認欲を満たすための道具として使っていただけだった。それが自分の人生の全てだった。」

この一文にハッとしましたね。
うつ病だった当時の私なら、この記事は読むに耐えなかっと思います。
あまりにも指摘が鋭いので!
今では書いてあることの全てがよく分かります。

人間はエゴという名の行動原理で各々が動いてるだけの機械!
心の演算処理において自意識はバグを生み出す!

みたいな事を言うと反感ありそうですね!
ですが、人間は案外、シンプルなものとして紐解ける程度の物かと思ってます。

単純であればあるほど、人生はシンプルになっていきますね。

複雑に、それも自分ではわからない、解決の難しいものを自分の人生としてしまうと、それが生きづらさになって言ったりもする。

人は思考という機械の使い方で複雑にもシンプルにもなりえますね。

お疲れ様です。
全文読ませて頂きました。
Elepanさんの考え方は、僕としてはとても正しいものだと感じました。
辛さの原因は他人にあるのではなく他人から送られてきた記号を基に自分が作り出した考え方の癖だというところで、凄く納得しました。
自分語りになってしまい恐縮なのですが、自分は現在成人を控えた大学生です。アルコール中毒の父親の元で育った影響か元々持ち合わせた性格か、以前のElepanさんのように過剰に他者に対する承認欲求が高いです。
でも家庭の問題を理由にして他人に迷惑をかけるのも情けないと思ったので、自分の中で解決したいと思っています。
現在は両親が離婚し母親と妹、僕の3人の家族構成です。大学に行かせてもらって母親にはとても苦労を掛けてしまっているし、妹も辛い幼少期を送っているので絶対に幸せにしたいです。
その為に安定したお給料が期待できる消防士を目指しています。
そんな中で最近大学で過ごす中で特に承認欲求が高いなと感じることが何度もありました。
Elepanさんのように自分の中の甘えが原因だからと割り切って、現実を直視することが出来ればいいのに、誰かに救われたい欲求を諦めきれなくて関係のない人に迷惑をかけてしまった事があります。
Elepanさんが仰っていた他人は自分を見ている訳ではなく、単にそれぞれ個人が持つ欲望を見ているだけという真実に納得しました。その通りだと思います。
でも、それでも心のどこかで誰かに救われたいという欲が消えてくれません。
僕が甘ったれの弱虫なのは前提として、少しでも強くなる為に何か出来る事はないかと思い、調べて自己肯定やインナーチャイルドなど試してはみたもののあまり感じるものはありませんでした。
Elepanさんにこのような質問をするのは御門違いなのではとも思いましたが、Elepanさんが体験した事などから自分と共通する事が多いなと感じたのでコメントさせて頂きます。
Elepanさんが何か具体的に、これをやったら少しは変わったよということを返答頂けたら幸いです。

そうですね…ふーむ。

なかなか難しいですね!いやはや、なんせいろいろ試していたもので何から説明しようかと…

どれも効果はありましたし、必要なことでしたが、救われたいという気持ちに対して私でできるアドバイスがあるとすれば、

それは「誰も自分以外のだれのことも救っていないことに気づいたこと」でしょうか。

人が一般的に「救われたい」と思うのは何か苦痛を感じているからであると思います。
その多くは精神的苦痛でしょう。

この国でのその主な問題はおそらく「友達がいない」「だれも自分を理解してくれない」「孤独でさみしい」

誰か自分を見てほしい。自分を愛してほしい。自分を助けてほしい。

そんな、他人の承認を必要とする前提の満たされない欲求不満全般であると思います。

そんな精神的苦痛という感覚はどこから来るのかというと、やはり自分なわけです。
他人から直接感じさせられているわけではなければ、他人が感じていることを自分が受信しているわけでもなく、

いつだって自分の感覚は、自分がそう感じようとして感じているものというだけにすぎない。

例えば人に悪口をいわれた、いじめられた、ということがあったとします。
外傷によってもたらされる痛みはともかく、悪口やいやみなどでいじめられたという事実に対して不安感や精神的不快感を感じようとしているのはやっぱり自分なんです。
その不快感からのがれたくて、解放されたくて、例えば救われたいと願ったりする、と。今自分が感じている苦痛から解放して自身を安静させたいという願いなわけです。

「救われたい」というその願望が一体何なのか、何を指しているのか。いったい何からどう救われたいのか。

つきつめていくいとそれは全部、自分の感じている感覚に対する問題解決なわけですね。自分が不快だと感じているからからそれから逃れたい、解放されたい。
それを感じる”理由たち”、例えば前述のいじめられている事実云々というのはおまけみたいなものです。
いじめられいても自分が苦痛を感じようとしなければ、例えば全く意に介さず軽く見ていれば、たいして問題には感じないわけです。

自分がある事象や事実をどのよう形でとらえているか。どのような感覚でとらえているかということでしかないわけです。

それが人間という感覚の生き物。いい加減なもんなんです。人間というのは。自身の感覚の使い方やその匙加減一つで簡単に変わってしまう、それこそ世界の見え方すら違ってしまう、そんな生き物です。

そしてそんな自身の感覚はすべて自分の管轄にあります。自分が常にその感覚を使っている。自分が自身の感覚をどう使おうとしているのか、ということでしかない。

他人は自分の感覚について少しも制御などできていないし、一切の干渉などできてない。先ほども書いたように、すべて単なる記号です。

となると、すべての感覚を自分が感じようとして感じているだけに過ぎず、他人は最初から自分のそれに対してなにもできていないというのなら

「自身を救うことができるのは、最初から自分しかいない」ということになるわけです。

そしてさらに突き詰めていくと、「救われる必要すらない」わけです。

だってすべて他人や外の何かがそうさせているのではなく、自分で作り上げているわけですから。。何かが救われたいかが、外にある何かではなくてすべて自分の内側にあったことがわかると、最初から救われたいと思わなくたって、自分自身ですでに完結しているわけなのですから救われる必要すらもない。

救われたいという願望すら、単なる思い込みなわけです。

単純に考えていいのです。単純に楽しんでいい。孤独を恐れなくていい

全部自分で決めていい。人生はただの遊び場ですよ。死ぬまでの暇つぶし場所です。

…とまぁこんな感じでしょうか。何かのご参考になれば幸いです♪

とても納得できる文だと感じました。
よく自分でも期待しすぎてしまうところが課題です。答えてくれないと勝手に裏切られた、、などと落ち込みます。

ただ、このようなことって誰しも心に抱えてることだと思います。
様々なきっかけはあると思いますが、うつ病に結びつけてしまうと、いろいろと反感を買ってしまうようで勿体無いと感じました。

「誰しも」かどうかはわからないと思います。他人のことは当人を除いてだれにもわからないと思うので
ご自身がそう思うことについては、それは間違いなくそうなのだろうと思いますが、他人のそれはわからないですし、仮にそうだとしても自分とは関係はないと思います。

自分と他人を一緒に考えなくてもいいと思うのです。

「自分がそう思った、そう感じた」。それで充分ではないですか。それが大事なことだと思います。

それに、その方がきっと楽なんじゃないかと思います。他人をしょい込むのは、しんどくはないですか?

私にとってはうつ病の根源原因だったことは間違いなかったので、こう書いております。

誰かの反感も特に問題はないです。私ではなく読み手の解釈ですし、それに正しいも間違いもないので。
それに反感を買わないことが目的ではなく、自分のうつ病の原因を書くこと、そして公開して誰かに読んでもらうことが目的なので、私としては特に問題ないんです。

ただ「うつ病と結びつけてしまうと」とおっしゃるように、うつ病以外にもこの甘えが原因でうまくいかなくなっているケースはあるんじゃないかなとは思いました。
これも実体験ですが、甘えを捨てて少しづつ自分の人生の生き方がわかってくると、いろいろと身の回りのことが好転していったのです。
仕事に真剣に取り組んだり、いろんなことを学ぶようになったり、昇進したり、給料が倍近く上がったり…
うつ病だったころの自分の価値観では到底できなかったことを今自分はできるようになりました。

そういう意味ではもっと他の切り口で甘えについて書くこともできるかなとは思いました。

色んな意見がありますが、すべて気にしなくて良いですよ。
このサイトは、あなた自身の物です。
貴方が揺さぶられる必要も、全くありません。
意見のある人と、あなたの個性は違います。
あなたは、今自分の内面に向き合っているのです。
ですから、正直な文になります。
それが一番良いのですよ。
時が経って、自分を振り返れば、その時また考えも変わるかもしれませんが、其れも大切な大切な自分です。
あなたは、自分を信じて進めば良いだけです。
あなたの人生は、貴方の物です。

おっしゃる通りです。ありがとうございます。
自分の向かいたいところにこれからも突き進みます。

あなたは、内面を見て深く自分を見つめる事で必ず自信を得ていきます。
貴方には、大切な個性がある事もきっと自覚すると思いますよ。
そして、やがては自分に関わった人も自然と無理なく、許せるようになりますからね。
心配せずに、自分を信じて歩いて下さい。
あなたの相棒は、自分の心にいますよ。

昔の方が正しく現実を認識していますよ。アドラーは科学的な心理学ではないので。
あなたはアドラーの教えにハマった状態で現実を正しく認識するスキルを失っています。けれどそれが幸せならいいのかもね

なるほど。「ハマっている」とは、私の頭の中がわかるのですか?ここの文章を読んだだけでそれが「わかる」ので?

私にはわからないです。でももし相手の頭の中を直接のぞくことができたらわかるかもしれない…そうおもって「私の頭の中がわかるのか」という表現をしました。

もしそうなら、そりゃ本当にすごい。人間超えてますよ。そんなことができる人間の話は聞いたことがないし、私自身そんなことはできない。

相手の、それも顔も見たことのない人間の頭の中をみれるなんてのはね。

それがしんさんにできたというのなら、「科学的根拠ではない」という表現も納得です。私の頭の中をのぞいて、「はまっている」という私の思考そのものを直接感じることができた、ということを科学的根拠をもって「ハマっている」と言えたんですよね。「見失っている」とも。印象論ではないんですよね?

…よかったらやり方おしえてもらえますか?

さてそんな無知な私からなのですが、いくつか質問があります。

・「昔の方が」という理屈は科学的根拠なのでしょうか。
私はしんさんの頭の中をのぞけないので、もう少し詳しく説明してくれると助かります。

・科学的解釈であれば、その人が見ている世界ははたして「正しい」のでしょうか。
正しいとして、それが本当に正しいと「証明」することはできますか。しんさんのおっしゃるように「科学的」に。

また、正しいことは幸福である、ということをおっしゃっているようにもみえましたが、そうなんですか?
例えば他人の言っていた正しさ、他人が作り上げた正しさ。そのうえに生きれば、皆幸福ですか。
科学手根拠を正しさであるとして、その上に生きれば皆幸福なんですか。

科学的根拠というものも、結局は人間が世界をもっともらしく真実っぽくみようとした見方の一つにすぎないのではないですか?
なぜなら科学的根拠という理屈や概念は人間が存在しなければ存在しえませんし、そもそも科学的根拠が本当に正しいのかを証明する手立てというのは、あるのでしょうか。

猫や犬がそれを知っているとは思えないので…しんさんはわかるんですよね。

“真実”の上に生きているしんさんのその世界のありようについて、是非詳しくご説明ください。大発見ですよ。

> けれどそれが幸せならいいのかもね

しんさんもそうであることを祈ってますよ

こちらへお邪魔したきっかけは、図書館でふと目に留まり、きれいで誰も読んでいなさそうだったからと軽い気持ちで借りたアドラーの「生きる意味」でした。生物に生きる意味なんてないよね、と思っていたので逆に興味をもったのかもしれません。占いも好きで、「インナーチャイルドを癒せ」という結果が何度も出るので気になり、どうしたら「癒せる」のだろうとも思っていましたし、人生のあらゆることに絶望していました。しかし、よくなりたいという希望は少しあり、精神科の受診も検討していました。

いくつかのワードでお察しいただけるかもしれませんが、自分の正体を突き付けられ、読了後は怒りの後、とても恥ずかしくなりました。そして「アドラー 甘やかされ 治し方」でヒットしたこちらへお邪魔しました。

人それぞれ事情があり、受け止め方も様々かと思います。Elepanさんご自身のこととしてお書きですが、私には自分のこととして沁みることが多く、具体的でわかりやすく、結果多くの気づきを得られました。心から変わっていきたい、自分でやろうと思えました。何かを読んでコメントするような人間ではなかったのですが、書き込みたくなりました。ほかの記事も読みます。ありがとうございました。

初めまして。
突然コメントすみません。

著者様の仰ってる事が、とても本質的だと思いました。よくここまで自分の事を理解されていて、とても凄いなと思いました。

私は24歳の社会人ですが、
青い鳥症候群ぽいというか、相手のことをよく知りもしないまま理想像に押し込めてしまうきらいがあるかな、と自分で思っています。

著者様が本当に偉くて凄いと思うのは、ご自身の認知を変えるために徹底的に分析された所だと思います。自分はその行動さえ面倒だ、という思いに流されかけていましたが、変えるためにまず気づくプロセスを本当に大切にしたいなと胸に刻ませて頂きました。

鋭くためになる記事をありがとうございます。

うつについて色々調べていた所、こちらの記事を見つけました。

冒頭から最後まで、読んでいくにつれて、私もこれなんじゃないかと思いました。

私は元々苦手だったことを中心とした職業に限界を感じ欠勤を続け退職し、数ヶ月は、検索するとうつの可能性がある、とばかり出てくるような生活をしています。

私は社会に出てまだ5年も経っていない若輩者なのですが、こちらのうつへの入り方は考え方が原因かとお見受けしました。

「まだ社会人として壁を越えられていないのだろう」、「その年齢で働くのが難しいなんて甘えだ、もっと頑張れるだろ」「ろくに治療経験もないのに楽するな」。私には、世間からこのような言葉が聞こえてくるような気がします。
元々人の顔色を伺う性格なのですが、無理に猫かぶって仕事出来る人を演じて疲れてしまいました。仕事が出来る人の真似をしていました。
こんなに頑張ってるのに誰も褒めてくれないだとか、自分はあの人と比べて…とか、なんで、どうして…という感じで。そうしているうちに、働くことに対しての恐怖や他の人に口で伝える難しさや理解してくれないという先入観等で自分を責めていました。

追記にもあるようにたくさんのコメントがあるようですが、長文を読むことに力が要ってしまうので本文以外全て読んでおらず、対処方法や考え方の改善等、既にありましたら大変申し訳ないのですが、社会復帰出来るように行ってきたことや何か心が楽になれる考え方等ありましたら、どうか教えていただきたいです。

物凄く長々となってしまいましたが、どうかご一読いただけたらと思います。

いえいえ、ご自身のペースで読んでいただければいいんです。ちゃんと読まなくても、自分のペースに合わせて読みたいときに読んでもらえればいいんです。全く読まなくてもぜんぶ読んでも、途中まででもなんでもいいんですよ。重要なのは奈々氏さんがどうしたいと感じているのかだと思いますので。

> 社会復帰出来るように行ってきたことや何か心が楽になれる考え方等ありましたら、どうか教えていただきたいです。
わかりました。では一つ…

私は「される」っていう世界観を捨てたことが大きかったです。

評価されたいとか、褒められたいとか、理解されたいとか、好かれたいとか、そういう欲求を生み出す「受け身的な世界のとらえ方」のことです。

受け身的な思考、受け身的な感覚の使い方。受け身的な解釈、受け身的な行動動機

そのすべてを捨てることでした。

かわりに「する」という世界観に変えました。自分がしたいこと、目標、感じたいこと。

すべて自分の感覚を軸に、自分の行動や思考をするように変わっていきました。
自分のそれらを否定しなくてもいいことに気づいて、ただ素直になることだったですね

要約すると、他人軸の世界観から自分軸の世界観に、自身の思考フレームを根本から変えた」といった感じですね

誰かに「されること」を期待するというのは、一見楽そうに見えて実はかなりしんどい生き方です。
なにせ自分の「する」ことのすべてが「誰かにされることのための投資のための手段」になってしまうからなんですね。
加えて他人は他人の都合で生きているので、自分がどんなにがんばってもつくしても、自分の想定通りに動いてくれないなんてことはよくあります。

そうなった時、「裏切られた」と絶望して、自分を不幸だとせめてしまったりする。

だからされることを期待する人生はつらく、不安定なのです。自分の幸福を他人に決めてもらうというのはとてつもなく危うい。
暴力的な人に支配されてしまう人がいるのも、このような思考形態に自ら支配されてしまっているからなのでしょう。それが当人にとって普通のことだと思い込んでいて、たとえ自身の命が危うくなろうとも抜け出せないのです

だからこんな危ないリスクだらけの世界の見方を捨てました。自分のしたいことや感じたいことを何よりも優先する生き方に変えていきました。
そうすると驚くことに、今までかつてないほどの能動的で気持ちのいい感覚が体から湧いてきて、いろんなことをしたいと自然に体がそう感じるように案っていきました。

本当に自然といろんなことをやる気力がわいてきて、うつ病になる前よりもずっと精力的な自分が、今はいます。

こんにちは。
突然のコメント失礼いたします。

Elepanさんの記事、読ませていただき、自分の現状と近いものがあるなと感じました。

私は24歳会社員です。
今まで生きてきた24年間、他者に認められること、周りからはみ出さないことだけを考えて生きてきました。他の人より優れるにはどうすればいいか、他者と比較して優れている自分だけが認められる、自分の価値観を全て承認欲求に傾けてきたような人間でした。
恥ずかしながら、私も周囲の人間やモノを全て道具を満たす道具、としか捉えていなかったように感じます。
なので、自己を満たせられないものは不要、と無意識に判断してしまい、いつしか自分で自分を判断することや、他人の言っていること理解することすらできなくなってしまいました。
自分は、価値観は他人軸でありながら自分の承認欲求という「欲望」にしか目を向けなかったとんでもない人間だったのです。

今まで24年間生きてきて初めてこのことに気がつき、しかし自身の力では無意識の状態をどうにもすることができず絶望の日々。しかもそれを頭が本質的に理解出来ていないこともわかり、本当にどうしようもない状態です。
あらゆる書籍を手に取り、どれを見てもしっくりこない(無意識的に排除しているだけなのかもしれませんが)といった状況でしたが、先日「嫌われる勇気」を初めて読み、かすかに道が拓けた感覚が致しました。

Elepanさんに、少しお伺いしたいことがあります。
①自分の認知をメモ書きに残すライフワークは、いつから続けられていますか?
ご自身で「改善されてるかもしれない」と感じられるまでになったのは、はじめてからどれくらいになりますか。
②認知を記録するライフワーク、を、Elepanさんは具体的にどのように行っておられますか。意識していること等ございましたら、ご教授下さい。
私もこれから始めようと思っているのですが、主観が入ってしまいそうでなかなか難しく…。

最後に、率直にElepanさんのご意見をお聞かせ願えればと思います。
私は、今の「自分の価値観や感情を持たず、全て承認欲求に傾倒させ他の事象を受け入れないとする他人軸+承認欲求人間」から
「自身の感情を感じ取れるようになり、承認欲求を手放す」人間になりたいと思っています。
アドラー心理学の力を借り、私は変われると思いますか。

長文になってしまいましたが、何卒宜しくお願い致します。


多分5年くらいだと思います。改善できてきていると思い始めたのは1年後くらいからだったと思います。

ただ、始めたころから無我夢中で必死であったので、その時々で確信的に改善があったと自覚していったというよりは、
ある時点で気が付いたらいろいろ楽なってきた、という体感のほうが近いかもしれません。

これしかないと思いつつも、最初の1年は半信半疑の中で模索し続けていたような気がします。アドラーの考え方は当時の私にとっては救いの光ではありましたが、同時にとても遠いものでもありました。

当時の私自身、自分が他者に甘えているという自覚すらありませんでした。甘えだったことに気づいてから確信をもてたのは2年くらい前だったと思います。

最初の1,2年は自分を変えると思いながらも、その時に「気づいた」と思った多くの気づきたちは「他者に対する当てつけ」のようなものだったように思います。
どういう感じかというと、「他人は自分のことをきにかけてくれないんだから、だったら気にする価値もない、だから私も気にしない!」みたいな感じです。

要は不貞腐れだったんですね。自分が気にしないって態度をすることで、その態度を誰かがわかってくれる、理解してくれると思っていた、

誰かに気にしてほしかったとい甘えがありました。自分の理論を理解して欲しい、そうすれば自分は「正しい」、そう思いたいという思いもありました。

つまり「頭ではわかっているけど、感覚が他人の承認、つまり他人への甘えを求めてしまう状態だった」のですね。

ただその思いも度重なる自身への気づきの中で解消されていきました。

日々の生活の中でも「本当に他人は他人自身のことしか考えていないんだな」という気づきを見つけていく度に、
やはりそれが現実なんだなと腑に落ちて行って、感覚的に受け入れられようになりました。
そして「他人はそうだけど、じゃぁ自分は?」と考えてみると、
それも突き詰めていくと自分だって自分のことしか考えていなかったんだなってことに気づいていきました。

「他人のための行動」であったとしても、なんで自分はその他人のためになることをしたいと思ったんだろうと考えると、

理由がどうあれ、最終的には「自分がしたいと思ったからした」という自分の決定があるだけだったという事実に行きつきました。

誰かにさせられているなんて事実はなく単なる思い込みで、すべては自分が最終的にそれをすることを決定しているという事実に気づいていきました。

他人の御託も都合も本当はどうだっていいことで、今まではそんなどうだっていいことを理由に自分の行動を決定していた自分がいた、ということに気づきました

結局肝心なのは「自分が自分のすることを選ぶこと」でしかない、
「何を選べばいいのか」ではなくて「自分がいま何を選びたいのか」がカギなんじゃないかって思えるようになりました。

それがここ最近の2年での気づきですね。このころには日常生活での支障はなくなりました。

そこからさらに発展して、重要なのは思考や理論じゃなくて自分の感覚。
考えるのではなく自分の感覚を最優先に感じること、それをもとに行動していくこと、自分に素直になることがカギだ、というのが最近出した答えです。


ライフワークの認知のゆがみのメモの取り方は
「自分がなんらかの不快感を感じた時」とか「あの時自分があのように感じたのは、こういうことなのかもしれない」と頭をよぎった瞬間とかですね。

まずはその瞬間にパッと気づいたことを忘れないようにメモしていきます。
後でメモした内容についてさらに考え、さらにその原因を突き詰めていきます。

その繰り返しですね。私のブログの記事はたいていそんな感じで書いていますので、何かの参考になれば幸いです。

ちなみに、主観が入ってしまうことを心配されていると思いますが、人はどこまでいっても主観の生物ですよ。
他人の目なんて、誰も知らないのです。では客観的視点とは一体なんなのかというと、「一歩後ろから自分を見る視点」のことです。
メタ認知といいますが、こちらはネットで調べていただいたほうがわかりやすいかと思います。

変われるかどうかですが、私は変われると思いますよ。ただ変わるのに必要なのは、私の思いは関係なくて、mさん自身の思い、「どうありたいか」だと思います。
変わるためには、今までに信じてきたものを捨てなきゃいけないこともあるかもしれませんし、それは怖いと思いますが、

それでも前に進むための「勇気」をもつことが大事なのではないかと思います。

追記:一つ忘れてました。「人間はあらゆる価値観、思想を捨てることができる」も重要な気づきでした。
大事なものとかそういうもの、「思考の中にあるもの」というのはすべて絶対ではないものである、ということに気づいたことも重要でした。

何かを捨てるのは一見デメリットしかないように聞こえるかもしれませんが、
何かを捨てるということは同時に自分に変わりのものを代替えすることができるというメリットも同時にもたらしています。

デメリットではなくメリットのほうに目をむける癖をつけるのも重要です。
実際他者の期待を捨てると、自分のすることにより集中できる、というメリットが得られます。
さらに、自分のすることに集中できれば、他者に期待していたころにあった不安感も消し飛んでしまうので、こちらのほうがずっとメリットがあると感じられます

人はそうやって「なんらかの道具」を使って生きている存在です。
物的な道具だけでなく、考え方や価値観なども、「人が何等かの目的に使うもの」であれば、皆そうです。
それが人であっても、人からみた他者というのは”誤解を恐れずに”いえば、みな道具の領域でしかないわけです。

他人と一緒にいたり、遊んだり、付き合ったりするのも、
突き詰めればすべて自分のためなわけですから、それはつまり自分のために他人を使っている、ということにまりますしね。

ではなぜ人は道具を使って生きるのか、自分のためにとは、いったい何の自分のために使っているのかというと、それは自分の感覚を満足させるためでしかないわけです。
人がご飯を食べたり、睡眠をとったり、住み心地のいい環境を作るために家を作るのも、料理に味付けにこだわるのも、芸術や仕事にいそしむのも、何か目標を立てて突っ走るのも、みな自身の感覚のためです。

ご飯を食べるとき、生きるために食べようとするのではなく、単に「おなかが減った」からご飯を食べようとするでしょう?

それを「生きるため」だとかいろんな理由を人は思いついて定義しようとしていますが、

人が本当に得ているのはそういった定義ではなく、単なる感覚です。

満腹感とか、味覚とか、心地よさとか、達成感とか、そういった感覚だけなんです。

それを満たして今日までたまたま生きながられているだけです。

感覚を満たすために様々な道具を使う生物。それが人間。

人が生きているのは思考の上じゃなく、「今生きていることを感じている感覚」しかないということです。

それを自覚すると、「細かいことにこだわる必要なんてないじゃん」なんて、私は思えるようになりました。
「道具なんて別になんでもいいんじゃないか」と。自分の感覚を満たすための道具は、いくらでもころがっているし、なければ作ればいいのです。

人生はシンプルにとらえられればとらえられるほど、その輝きを増し、可能性も広がっていくものだと思います。

なので気楽に、自分の感覚に従って生きることが、最も自分らしく、最も自分が心地よく、自由でいられる生き方なんじゃないかと私は考えています。

Elepanさん、ありがとうございます。
「変わりたい」とは思いつつも、根底では周りの目を気にして踏み出せてない理由を作っている自分がいます。
が、Elepanさんの返信を見て少し勇気が湧きました。ありがとうございました。

主の言わんとすること、ぴんと来る気がする。
このエントリー読んでいると、自分の考えや感じたことを客観的になぞってるみたいで、
とても私は助かった。他のエントリーも読んでいて面白いです。

コメントまでつい読んでしまったけど、
言葉の表現変えろって、筋違いなコメントだよな、と思ってしまった。

「私が受け入れられるように、あなたの文章直してください」
って要望は、例えば、論文の審査ならわかる。
だって、リジェクトされたら論文は学会誌に掲載されないから。
そして、論文通したかったら、表現を変える必要がある。

だけど、これは主のブログだから、
主が思ったことを書く場所だし、それについてより知るために、質問することはあっても
「変だ!」ってわざわざいうこと無いよな、と思う。
その表現を受け入れられるかどうかって、その人によると思う。

これからも記事楽しみに読みます。

何かのお力になれたのならうれしいです。お気遣いありがとうございます。

論文については私はあまり詳しくないのですが、何らかの機関内で行うものに対しては決められたルールがあるでしょうから、きっとそうなのだろうなと思います。

人の言葉の受け取りかたは、本当に多岐にわたるのでしょうね。最近はそれを強く自覚する毎日です。

新しい記事の作成は時期は未定ですが、まだいくつかストックがありますので、思い出したときにでもいらっしゃってくれればと思います。

来ないと言っておいて失礼します。
「私はうつ」と言いたがる人たち という本があるので良ければ検索してください。
内容の一部抜粋
――ある日の診察室
「私うつ病みたいです。休職したいので、診断書ください!」
この思い込みにまわりは迷惑、ほんとうに苦しんでいる人が泣いている。
__________________

↑上記の抜粋で私が言いたいことが分かりますでしょうか?
最近はうつに似た症状のうつモドキが注目を浴びています。
①「擬態うつ」=「甘え」
②「新型うつ」=「適応障害」
このうつモドキは従来の脳の機能障害から発症する鬱病とは違う病気です。
本来の鬱とモドキを混同して一まとめに鬱と称する方が多く迷惑しています。

鬱とは似て異なるうつモドキの大きな特徴は
自分から「わたしはうつ病です。だから優しくしてね」と明言したり、あからさまな態度でアピールするところだそうです。

特に①偽装鬱は病気であることで利得を得るので周囲が甘やかすほど症状が悪化します。周囲に偽装がばれて冷たくされと利益を得られなくなり自然に治る。
これブログ主さんの体験に似てますね。

私もそうですが本来の鬱病患者は体調を崩した自分が悪いと自分を責める傾向が強いのでブログ主のように優しくして貰えると期待なんて在り得ず非常に違和感を覚えます。

そもそもブログ主さんは専門医で診察を受けて本当に鬱と診断されたのでしょうか?
私は自責の念が強く自殺未遂を繰り返していましたが心療内科に通いパキシルを処方されてから随分と良くなりました。今も薬は欠かせませんが医療費の負担を減らすための自立支援の更新に必要な診断書も毎年出してもらっています。

まさかと思いますがブログ主さんは医師に診断をされていないのに
素人判断で勝手に鬱とアピールし自分の鬱はあまえだと書いているという事では無いでしょうね?
もし医師の診断もなく鬱とアピールされているだけだとしたら本当のうつ病患者に迷惑ですので
私の鬱は完全に甘えでしたと言うタイトルを
私の自称鬱は完全に甘えでしたへ変更お願いしたいです。

もちろん、精神科に診療を受けましたよ。

当時は救われたい一心でしたからね。

診断結果としてはうつ病であることと、自律神経失調症、さらにパニック障害であると診断を受けました。

うつ病のメカニズムについて医者から説明を受け、薬は匿名さんと同じでパキシルを処方され、それで改善されるだろうと言うことを言われました。

薬の効果は三ヶ月後くらいから出ますと言われて飲み続けましたが、症状は悪化し、
医者にそれを訴えると、では薬を増やしましょう、別の薬を試してみましょう、ということで一日の飲む量を増やす、薬を変える、他の薬と併用するなど勧められ、しましたが、さらに症状はひどくなるだけでした。

1年半ほど薬を飲み続けたものの症状は改善されず、何の解決にもなりませんでした。

私も自己嫌悪はとても強かったですよ。何毎においても自分が悪い、反省しなければ、という教育を鵜呑みにしてきましたので、それが普通のことだと思っていましたね。どんどん自分を追い詰めていきました。

それが社会に出て会社ではいじめなどにも合い、現実に打ちのめされ、
常に周りに全てを監視されているのではないかという極限の緊張感、不安感を感じながら生きているうちに、その状態から抜け出せなくなってしまい、抑うつをはじめとする症状が生まれました。

家にいようがどこにいようが、ずっとその極度の不安、緊張状態が解けなかったのですよ。

唯一解放されたのはわずかな睡眠の時だけです。

最もひどい時期は呼吸すら常時ろくにできなかったです。常に息苦しい状態が続いていて、あまりに呼吸が浅すぎて寝ているとき心臓が止まりそうな感覚で目が覚めて飛び起き、すさまじい動機と冷や汗を大量にかいた日もありました。

仕事をやめようかと思いましたが、一人暮らしであったため親にも勘当されると思い帰れず、頼ることもできませんでした。

お金がなければ生活すらできない状況だったのであの地獄のような会社にも行き続けました。

仕事なんてまったくが手がつきませんでしたよ。一日中デスクに座ったまま何も出来ず1日が経つ、なんて普通で仕事も当然進んでいかないので上司からは叱られる毎日。周りの目もどんどん白くなって症状もさらに悪化して、

常に感覚が過敏になり風が吹くだけで痛みを感じるほどでしたよ。

服を着ることすら辛かった。体を洗うときも特に頭を洗うときすさまじい痛みが走ったものです

頭痛にくわえ、顔はまるで上から吊り上げられているかのように突っ張った感覚が常にあり、それには呼応するかのように背中の左側が、まるでつねり上げられ、血液が底に充血でもしているのではないか痛みを、これまた常時伴うというような酷い状態でした。

髪もたくさん抜けて、円形脱毛症にもなってしまい、ますます人目が怖くなって悪化しました。

その症状にくわえて重い倦怠感。インフルエンザにかかったことはありますか?あれが毎日続いているような状態だと想像してもらえればそれが近いと思います。

今思えば、本当によく生きてたな、と思いますよ。誰にも、医者さえも自分を助けられない。

あれだけ絶望的な状況はもうないと思います。

10年間ですよ。ずっとこの状態で生きていました。後半の2年は自身の治療でよくなっていきましたが。

何度も賃貸のベランダから飛び降りようとしましたし、休日は寝たきりで体がまったく動かせませんでした。

そんな生活も長く続けられることはなく、最終的には退職せざる得なくなり、収入は0。

貯金を切り崩しながらのニート生活です。といっても蓄えもそれほどなく1年の期限付きでしたが。

正直ここには少しの期待もありました。仕事をやめ、環境を変えればよくなるんじゃないか、と。

ところがそんなことはなかった。確かに仕事に対する責任感という肩の荷はおりましたが、体の状態は少しも変わらなかった。
思い切って遠出して見たり、無理やり体を動かして無理やり立ち直らせようとももがきましたが、一時は多少の改善が見られてもすぐに元に戻ってしまいました。

絶望でしたよ。もう自分にできることは何もないんじゃないか、と。

このままずっと治らないままなのか…

このまま誰一人頼れず、絶望の中自分は死んでいくしかないのか…

その矢先に出会ったのが「嫌われる勇気」でした。

そこにかかれていたことは今でも思い返せるくらい自分にはまさに”衝撃”だった。

まるで自分の無意識について書かれた説明書のようでした。なぜ自分がこんなに悩んでいるのか、何について悩んでいるのか。それが書いてあったように感じました。

そして同時に「もうこれしかない」と思ったのです。極限まで追い詰められ、誰にも頼ることのできない状況の中「自分を変えること」以外、この状況を打破することはできないと。

それからはずっと自身の弱み、他者に対する甘え、期待感、認知の歪みとの対話、戦いでした。

毎日ずっとそれについて思考し続け、気がついたことをメモし続ける日々が続きました。

今や気づきのメモは日課となりもう何年も続いているライフワークと化していますが、数えていないですが多分1000万字近くあります。
広辞苑の3分の2くらいですね。

このブログに書いている内容はそのほんの一部でしかありません。

かつてないくらいに考え事に耽っていたため、1日の時間がとてつもなく長く感じ、1年が10年くらいに感じられるほどでした。

そうしていく中で一つ一つ思い込みが解消されていくと同時に、自分の症状が少しづつ軽くなっていったのです。

その時の解放感といったら無かったですよ。今まで生きてきて、あんな解放感と達成感を感じたことはない。

同時に自分がいかに他者に期待していたということ、それによって自分自身を自分自身の手で不幸に陥れたということがわかったのです。
私の様々な思い込みが自分を追い込む感覚を作りだしていたにすぎないと。

このブログはそんな私の経験と気づきがベースとしてあります。

何度もいいますが、これは私のうつ病です。あなたのでも、ほかのだれかのものでもない。

そして何より私のブログです。

もう私は他人の都合で自分を曲げるのはやめたのです。

他人に甘えられても、それに答えることはやめました。

私がどう考えるか、どう役に立ちたいか。それがわたしにとって重要なことです。

私は匿名さんの役に立ちたいとはもう思っていません。より正確には役に立てないことがわかったからというだけですが。

そして同じ理屈で、匿名さんのようにタイトルを一部だけ切り取って読んで傷つく人の面倒も私はみません。

私が手助けしたいのは、どうしても今の自分の「ある窮地」を脱したい。もう他に頼れる人もいない、でもどうにかしたい、幸福になりたい、

その手段を知りたいという人を助けたい。

なので、どうぞお引き取りください。匿名さんには不要なものでしょうから。

もしそれでもまたここにいらっしゃるというのなら「嫌われる勇気」を読んでからまた来てください。

そうでなければ、私は匿名さんと対話するつもりはありませんので。

(divinity enhanced editionを始めて、どうせなら英語でやろうと思って色々調べていたらこのブログを見つけました)
中学時代に鬱っぽくなって不登校を経験した現在高校生の者です。中学一年の秋から卒業まで二年半ほとんど寝たきり生活でした。今は学校には行けているものの、完全に治りきってはおらず辛い学校生活を送っています。僕は未成年で、周りに理解のある人がいたので、主さんの経験談を見て、そのような状況でよく耐えたなと尊敬します。
そんな主さんとの境遇や考え方の違いがあることは重々承知していますが、人に期待する事は良い事だと言わせて欲しいです。
僕も鬱になって、今まで仲良くしていた友達が冷たくなって悲しんだり、親に責められたりと傷つく事がありました。それで病んだり捻くれたりしたのですが、聖書を読んで救われて、今までいろんなところで神様が助けてくれていた事や、これから助けてくれる事を知りつつ、人ではなく神のみに期待する事で回復していきました。しかし、本当にそれだけでいいのだろうか?と思ったのです。
この前、親に自分の弱さを責められて、傷つく事がありました。「俺には神がいるから親が理解してくれなくてもいい」と思ってやり過ごそうと思ったのですが、心のモヤモヤは残ったままで、何か違うなと思ったので、玉砕覚悟で試しに「お前達は僕が苦しんでいるのに、責め立てるだけで何の役にも立たない。助けようとは思わないのか」と我儘に、しかし正直な思いで非難してみました。すると心がスカッとして、意外なことに親も話を聞いてくれました。僕の場合、神のみに期待するとか思っていながら、やっぱり人に期待したいと思っていたんです。そこで正直になれなかったのが僕の弱さでした。どうやって俺自身を彼らが助けるのか俺もわからないし、それで彼らが助けてくれたって事はないんですけど、それは確かに真実なんですよ。どうしようもない事だから、事実を認識しないってなると、正義を見失う気がします。
人は人が期待できるような存在になるべきだし、人に期待していくべきだと思います。(無理のない範囲でですが)

あとdivinity英語版はなんとなくはわかるのですが僕には難しすぎました。

なるほど、期待するのもいいのではないか、というご指摘ですね。

少なくともゲーム好きの弱者さんが納得されているのであれば、何も問題はないと思います。
いえ、より正確には、そんな私の評価というか承認というか、そういったものそのものが必要ないのだと思います。
結局のところは自分がどう生きようとしているのか、という自身の人生のことだと思いますので。

多分「期待」という言葉に対する解釈は人によって違うのではないかなと思いますので、そちらも交えながら私自身の話を少しさせてください。

期待というのは、「自分の都合通りに他人が動くことを期待すること」という事だと思います。
ある期待に対する感覚の強さが強烈だったりすると、それが満たされた時はよいのですが、満たされなかったときはまるで裏切られたかのように、かなりつらいものになるかと思います

それが一時のことや、まだ次があると思えればそれを受け入れてまたそれに挑むということもできるので、それでもいいのかなとは思います。

ただ私の場合はそれが到底かなうことはない、他者が自分のことを自分の都合のとおりに見てくれることはないなど、様々な他者への期待に対する思い込みの解消をしていくうち、そもそも他者が私のために何かをしてくれるという考えそのものがありえない、という結論に至りました。

その答えをえてから、約10年の間感じつづけた永遠に続くかのような激しい倦怠感、抑うつ気分、頭痛、背中の痛みと絶望感というこの苦しみを乗り越えるには自身の甘えの思い込みを徹底的に解消し、他者に対する期待を打ち消し、他人の目を無価値化するしかないだろうと思ったのです。

私の大変勝手な言い分で恐縮ですが、おそらくゲーム好きの弱者さんは「人に何かを与えることが出来る人」なんだと思います。

ご自身の気持ちに正直になってご自身の思ったことに素直になることができ、それでいてご自身のことも客観的に見る視点をお持ちに見えますし、親御さんともその点において割りきられている観点もおもちのように見ます。

相手の事を決めつけずに、相手を思いやることができるかたなのではないかと。

其れも交えながら「自身の素直なその意思を伝えるということ」それができているというだけでも、きっとよくご自身のことをご存知なのかなとも思います。

私は「期待」の代わりに、「信用」という感覚をもって日々を過ごすようになりました。

信用というのは「ただ理屈抜きに何かを信じる」ということです。その“何か”というのが、私の場合は「自分と言う存在、自分の行動、自分の思考、自分の意志、自分の感覚」というものになりました。
では他者に対してはというと、それについては「他者が存在している」という事実に対してのみ信用を置くということをしています。それによって、それ以外の他者の行動や解釈、思考、都合などそれらについて期待を抱くことはなくなりました。

他者からの見返りのために行動をすることはなくなり自分を信じ、自分のしていることを信じ、そこに目標、達成感を置いて生きる。

「自身を信じて行動し続ける」というのが今の私の人生です。

—–

あのゲームの英語は難しいですからね…もしPC版なら日本語と英語を同時に出力することもできるMODを制作されたかたの話を聞いたので、そちらを導入して勉強しながら楽しむのもアリかもしれません。
ゲーム内のテキストの文章表現は美しさすら感じましたから、おすすめです。

追記:すいません、日本語と英語の同時出力は2のほうでした。前作はちょっとあるかわかりません

Elepan様

11/13の「信用」とおっしゃっている内容は「信頼」ではないですか?
「信用」は客観的な過去の実績です。

また、自分を信じる事で力にされていることは賛同致しますが、結果に対しては不確定性原理やカオス理論が当てはまりが良いと考えます。

未来の事はフタを開けて観測してみないと確定しない。観測する迄は白黒それ以外全ての可能性があり、あくまで確率論。結果は白か黒か想定外か、、想定外が最も面白い と私は考えています。
いかがでしょうか?

私の言っていた信用は単に信じる「感覚」のことです。ただ信用という言葉の共有された定義(辞書などで記載されている内容など)では、おっしゃるような内容の定義であるのはそうですので、「信用”感覚”」と新しく言葉を定義して説明したほうがいいかもしれませんね。

この意味は、「信用」という言葉がさす解釈が「信用する基準という解釈と、それに対して自身がいだくその感覚」であるとするなら、信用感覚は「その感覚」だけを使う、という感じです。

信頼と信用について切り分けの説明したのは、これを意図しようとしたものでした。

さて、上記の切り分けた信頼の定義についてのお話になりますが、
ここでいうところの「信頼」自体が悪ということではなく、信頼するという言葉を依存するという解釈でとらえることが危険である、ということを書こうとしていました。

それは例えば、誰かの存在や自分の仕事などに対して、それを「自身の生きる意味」ととらえるような「自身の外にあるものを自分の生きる価値」とする行為です。
これは逆説的にこれがなければ自身の生きる意味がないと定義しているようなものであり、依存的思考です。
その対象が誰か、つまり他者であると、そのコントロールはより一層難しさを増すでしょう。
その他者が自分の思いがけない形で自分を裏切ったとき、深い絶望に陥ってしまうかもしれませんし、大きくはなくともところどころで小さく裏切られ続け、不満をため込み続け、いくら欲しがってももらえない満たされない人生を、無意識のうちに歩んでしまうことになるかもしれない。

だから、「外にある存在の上」に生きようとするのではなく、生きている自分の場所はあくまで自分の感覚である、というように「自身の内」にとどめ、それを起点として生きていくことが生産的な生き方なのではないか、ということです。

信頼はあくまで判断基準、または創作の範疇を超えない。結局のところ未来はどうなるかどうかはその時にしかわからない。
いえ、その時になってみても、本当にわかるのかどうかもわからない。人が何かを真に理解するという瞬間は、果たしてあるのでしょうかね。
「正しい」なんてあるのか。それを担保する、証明することはできるのか。

また真に何かを理解できたとして、それが本当に「幸せ」なのか「不幸」なのか。

そもそも幸せでなければいけないのか。不幸でなければいけないのか。

自分がほしかったのものなのか。

それを「楽しもう」というのは私も同意です。人は何もしってなくとも、信頼とかそういった道具を使って自身の行動を決定したり、「使うこと」はできる。

先のことは先のことで思いを巡らせ楽しみつつ、今何をするかを決める判断材料にもする。

しかしそれが「自身の生きる意味」にはなりえない。そもそも生きる意味なんてなくとも、人は生きていればその時点で生きていて、それ自体に過不足はない。

自分の脳にある思考が直接自分を殺すことができる能力はもってないですし、何かを持っていなければ死ぬのかといえば、何も持たずに生まれてくる赤ん坊は生まれた瞬間から死んでなければならない。

だからそんなものは、最初から必要ない。生きる意味はあろうがなかろうが、生きている事実が変わることはない。

だから人生は単なる暇つぶしで、自身の選択があるだけ。

短くまとめると「人生に意味なんてない。でも自由はある」

とまぁこんな感じですね。

「人に何かを与えることができる人」なんて大層なお言葉を頂き恐縮です。
もし私がそう見えるのだとしたら、それはキリストのおかげです。
コメントに少し書いたとおり、私も主さんが自分を信じているように、理屈抜きに信じているものがあります。それはキリストです。私はキリスト教徒です。神は真理で、キリストは神の子で、この世界は神の被造物で、自分の命やもってるものすべて神に与えられたものだと思ってる狂信者です。(普通の人からみたら)そういえば、これを書いているpcは不思議な与えられ方でした。
大半の人は自分のためにしか行動しませんが、キリストは違います。しかも罪を犯さない人間なんてありえないので、キリストは何でも許してくれます。
自分の力で期待してるみたいな書き方でしたが、結局キリストっていう超強力な後ろ盾のおかげで僕は人に期待できるんですよね。宗教勧誘のつもりじゃありませんが、(もちろん聖書の言っている事に救われた身としてはめっちゃおすすめしたいですが)
主さんは自己啓発や、真実を探求する事に興味をお持ちだとお見受けしますので、興味があれば、聖書を手にとって見ることをおすすめします。持っていなければ、youversionというスマホのアプリで読めます。
新約聖書から読むのがおすすめです。

これは旧約ですが神と人間の関係をよく表していると思います。
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。(申命記30:19)

では、主さんの幸を祈りつつサラバだ。

ーー
Modは残念でした。しかし代わりにCapture2Textっていう有能フリーソフトを見つけました。(やったぜ)

いえいえ、正直に思ったことを申し上げたのみですよ。

ゲーム好きの弱者さんはご自身を一歩引いたところから観察する、メタ的な視点をお持ちのようですね。自身を客観的な視点で見ることが出来る人は、「人に与えること」が出来る人なんじゃないかなと思っています。

ゲーム好きの弱者さんはキリストを信じていて、私はアドラーの教えや自身の哲学、自分自身を信じている。

信じている何かは違っても「何かを信じる」ということによって日々生産的な、幸福な毎日を送ろうとしている点については私達は同じ方向をみているのかもしれませんね。

実は聖書は以前から興味があって、いくつか書籍を購入したのですがどうも宗派などによって微妙に解釈がことなるみたいとかで書籍も他にいくつかあることを知り、何から読めばよいか迷っているところでした。

教えていただきありがとうございます。参考にさせていただきます。

—–

そういえば私もそれを使って勉強していました。わからない文章は翻訳ツールで訳して表現について勉強しながら遊んでいましたね。
そのおかげでゲームのほうは最初は中々進まなかったですが…w
でも後半になってくると、読めるようになってきてそのスピードも上がっていきましたね。モチベーションもどんどんあがって、とても楽しく遊ぶことが出来ました。

私からもゲーム好きの弱者さんの幸福を強く願っております。

お互い自分の信じる道を行きましょう。

いくつか書籍を持っているのですね。
余計かもしれませんが書いておきます。
聖書の訳については、読み始めは現代訳がオススメです。現代訳は当時のユダヤ人の独特の表現などを意訳して訳されてあるので、大意が掴みやすいです。これと逆なのが新改訳で、独特の表現を直訳してあります。これは聖書の原語の意味から調べたい時とかに役立ちます。僕のイメージですが。
他にも口語訳、新共同訳など沢山の訳があります。それぞれに訳の癖はありますが、書いてある事の意味は同じです。(しかしエホバの証人の新世界訳は改変されてるのでおすすめしません。キリスト教の聖書とは違うものです)

解釈についてですが、確かに聖書はキリスト教の考え方などを知らなければわからない事も多いかもしれません。普通は教会で牧師さんのメッセージを聞いたりして理解しますが、それ以外だと、私はよくロゴス・ミニストリーさんと言う牧師がやっているサイトの聖書解説を参考にします。個人的に的確で良い解説だと思います。僕自身キリストや聖書について説明したい事が沢山あるのですが、このコメント欄で言うのも迷惑だろうし、ここは専門家が解説しているので、より正確です。ですので気になったらここの解説を見てみてください。

それとは別に(ここからは信仰の話になってくるので興味がなければ無視してください)、聖書を読んでいるときは神様から自分への個人的なメッセージとして、自分の状況に当てはめて読むと、神様が自分に語っておられる事が分かったり、気づきがあったりします。クリスチャンは普通このような読み方をします。こうすると毎日の励みになったり、自身の問題点が浮き彫りになってよく分かったりします。

では今度こそ切り上げます
聖書に興味がおありのようなのでつい嬉しくなってしまいました。
長々とすみませんでした。

ありがとうございます。英語の勉強がてらにいくつか買ったんですが、そのアタリのモチベーションもあって中々読めずにおりました。

現代訳面白そうですね。読みやすそうですし、私自身ユダヤ教にも興味があって、彼らはなぜあれだけ勤勉なのかについて調べたいと常々思っていましたのでちょうどよさそうですね。
エホバの証人は訪問で勧誘受けたくらいでしか知らないんですが、似ている(?)別の宗派のモルモン教は一回勧誘されて協会までついていったことがあります。
ただ会費があり、年収の1割と高額だったんで、入会はやめておきました。

解釈は牧師さんから聞く、または調べるのがいいのですね。

なるほど…神が語りかけてきていることをイメージしながら読む、という感じでしょうか?おもしろいです…

こちらこそ貴重なお話をありがとうございました!

最初に私のと付け加えていても、鬱は甘えと言うワード自体が現在鬱と戦っている人に対してハラスメント以外の何物でも無いです。
オウム返しみたいにハラスメントと言う貴方がハラスメントーという感じの
浅い返信を見て正直ガッカリ会話するだけ無駄な方と言うのが分かりました。
これ以上は書き込むのも無駄そうなので失礼いたします。

なるほど。匿名さんのおっしゃることを素直に解釈すれば、

私の経験かどうはどうでもよく、さらにタイトルにそれを明記しているかもどうかも関係なく

文脈も全てにおいて無意味であり、「うつは甘え」という言葉が付いてさえいれば全てのうつ病患者を傷つけることになる、ということかと思いますが、この解釈は合っていますか。

…面白い解釈ですね。…ひょっとしてタイトルしか読んでらっしゃらないということは…ないですよね?

しかし他の可能性も考えられるのではないでしょうか。
例えば、「この人以外の鬱は甘えが原因じゃない」という解釈をする人だっているかもしれませんよね。
匿名さんと似たようなケースである別の読者が、この記事の意図や目的とは全く関係ない、「あくまでこれはこの人の場合の話だから、この人以外の全てのうつ病は甘えが原因じゃないんだ」、という感じの解釈をする可能性ですよ。

「私のは甘えじゃないんだから私の鬱はしょうがないんだ、だから大丈夫だ!」と思ったらそれは“匿名さんの頭の中にあるうつ病患者に対しての救い”になる可能性だってありますよね

仮に匿名さんの要求を呑んで削除をしたとして、その場合は今後訪れたであろうその読者たちに対しその可能性をつぶすことになりますが、それはいいのでしょうか?

この可能性は0なんでしょうか?これもオウム返しになるんですかね…。

なぜ”そう読もう”とするのでしょうか?なぜそれだけ一方的に?他人の経験としては読まず、まるで自分事のようにとらえられているとか?

本とか一体どうやって読まれておりますか?…特に小説などのストーリー物など…。

話が脱線しました。意図としては、私と匿名さんを一緒くたにとらえて考えたり感じようとしたりする必要ないですよ、ということだったんですが…恐らく「課題の分離」をされていないのでしょうね。

しかし人というのは、ある言葉や事象にたいして、本当に色んな解釈をするようですね。

実に興味深いです。嫌味とかではなく、純粋に。

正直な感覚をもう上げますと、感銘すら受けています。

やはり他人には一切の期待をしないことが、恒久的な幸福の道であることのようです。

全員にいい顔をしようとしたら、それこそ自分を殺すことになってしまうでしょう。

話を戻して、とにかくそのように受けとられたのならおっしゃる通りこの記事は匿名さんにとって“害”で、“無駄“なのでしょう。

ご返信内容から何となく察するに、何を言っても「オウム返し」と受け取られると思いますので、これ以上の対話は必要なさそうですね。

多分他の記事もそうなんじゃないかと思いますので、ブラウザのブロックリストに入れてもらった方がいいと思います。

匿名さんの今後の幸福を願っております。

鬱イコール甘えと言うパワーワードに惹かれて来ました。
折角に貴重な実体験を書いて居られ言いたいことも分かりますが
鬱甘えというハラスメントまがいのタイトルのせいで全て台無しになってる気がします。

ギョッとするタイトルは検索で見に来る人が多いので利用したいのかもですが
鬱と言っても色んな種類があり貴方のように考え方を変えるごときで治る軽度の方も居れば
外傷や脳溢血の後遺症などで物理的な脳の損傷が原因で発症する人も居て
鬱を一括りにして甘えというタイトルは非常に乱暴に感じました。

ちなみに私は自己愛性人格障害の親からDVや暴言はもとより日常的に殺すと脅され見せしめに目の前でペットを殺さた事もあり、最終的に鬱になりましたが
物心ついた時から親に一度も甘えた記憶は無く期待なんかした事もない。
期待どころか何時殺されるんだろうと常時ビクビクしていました。

給料や貯金も使い込まれて無一文で引っ越し資金が無かったのでサラ金で借金をし強引に引っ越しを決行、夜逃げ同然で絶縁に成功したところ短期間で劇的に鬱やパニック、強迫性障害など諸々の精神的な病が回復しました。

私の場合は毒にしかならない人脈と縁を切る事が薬になりましたが
本当に鬱になる原因はケースバイケース人それぞれです。
医師でもない人が何種類もある鬱を一括りにして語るのはちょっと無理があるのではないでしょうか。

タイトルをもう一度、よく読んでください。「私の鬱」ですので。

これですべての鬱をひとくくり、と言うのなら匿名さんのおっしゃる意見もその点において全く同じということになりますが…そういう見解でよろしいのでしょうか?

> ギョッとするタイトルは検索で見に来る人が多いので利用したいのかもですが
それは匿名さんがそう見ようとしているだけだと思いますよ。正直なところ、その指摘は目から鱗でした。

私としては、単に自分の思考を分析した結果、自分の鬱の本質的原因はコレだ、と思ったものを書いているだけなのですが。

勘違いされているかもしれませんが、別にこちらに「他者の甘えを責める」意図はございません。あったとしても、それは他者でなくて「私自身に対する甘えに対する責め、戒め」でしかなく、

仮にそちらに甘えがあるにせよないにせよ、その事実は私にとってはどうでもいいことなのです。

「他者の甘えを責めることそのもの」が私の最終的な目的ではないので。

目的は自身を苦しめている要因はどこにあるのかの発見です。私の場合のケースは甘えだった。
「他人が私に○○するから私は欝になった」なんてことは事実ではない。「他人が私に○○することを理由に、私が自分自身を責めることでうつ病という症状を作り出した」にすぎないと。

「他人にお膳たてしてもらわなければ何も出来ない」「常に受身思考」「他人のせいにして自身の本質的問題に向き合おうとせず、先送りにする」という自らの甘ったれた思考を、甘えであると表現しているわけです。

そして、そういった自分の経験とそれに対する”気づき”が誰かの役に立つかもしれない。過去の私のような要因で悩んでいる人であれば。

「自分のことを自分でどうにかしたいが、どうすればいいのかわからない」という人の何かの参考にと、自分の経験をベースとしてこの記事を書いているしだいです。

そのつもりがある方ならただ参考にするかどうかを判断して使うだけですし、
そのつもりがないのならその人にとっては何の価値もない文章というだけのこと。

ただそれが人によっては、まるで自分が攻撃されているかのように感じたり、匿名さんのように暴力的だととられることもある。

そしてそのバリエーションこそまさに「ケースバイケース」です。そこに各読み手ではない私は、介入することはできません。

ゆえに、読み手それぞれの個々のケースに合わせた書き方など到底不可能でしょう。

結局のところ何をどう書いたところで全ては読み手である方達がどう解釈しようとしているかだけでしかありません。

更に突き詰めれば、各読み手が今自分がどういうつもりでこの記事を読もうとしているのか、これに尽きるというわけです。

匿名さんはどのような目的でこの記事を読まれたのでしょうか?

——–

また、コメントで指摘いただいている「考え”ごとき”」とか、そういった発言は「私に対するハラスメントまがい」じゃないかと思うのですが、どうなんでしょうか。

ケースバイケースとおっしゃいますが、例えばこちらをそちらの理屈で屈服したい意図で書かれているとしたら、それは暴力的ではないんですかね。

他人の言ったことに対する指摘をするよりも、ご自身の認知の見直してみてはいかがでしょうか…。

このコメントを書かれている時、一体どのような気分でしたか。

私自身のことは気にしなくてかまいません。私は私の面倒を見ているので匿名さんが何かを考える必要はありません。匿名さんご自身のことです。

決して煽りとかではないのです。他者は自分の鏡ですから、その鏡にしたことはそのまま全て自分に返ってきます。今回のケースでは私がその鏡ですね。

仮にその鏡を殴ろうとしたのなら、それはそこに映した自分を殴っているようなものです。

相手を屈服したようでも、実際にはそこに映った自分を屈服させてしまう事になってしまう。

そういったことは今後もどこかで自分に返ってくると思います。例えば今後の匿名さんの人生において今回のケースのようなことが今回とは立場が逆の状態で起こった時、匿名さんは自身を屈服させてしまうことのではないかと思います。

その時に精神的苦痛を味わうことを望みますか。そうであればそれでよいのでしょうが、そうでないのなら、やはりご自身のことについて考えてみる価値はあるのかもしれません。

—–

おっしゃるとおり、脳機能に関連する遺伝的要因や、もしくは外傷などにより欠落した欠陥などによってある脳内物質の放出が妨げられることによる症状自体は確かに緩和することは不可能なのでしょう。

今後の医学の発展次第では直せるのかもしれませんが…。

しかしそれで自身の認知の歪みまでが修復不可能なものになる、というわけではないと思います。

ある部分が致命的に直せなかったとしても、それでその他の直せるところまで全て直せなくなる、ということは意味しないとは思います。

認知の歪みは単なる思考、解釈にすぎません。

「致命的な脳の機能疾患」が「ハードウェアのエラー」とするなら、「認知の歪み」は「ソフトウェアのエラー」ですから。

後者は変えられるものです。

あっと、補足です。
まだわたしはブログの全記事を読んだ訳じゃありません。

いくつか読んだうえでのコメントでした。

横からすみません。

わたしには著者の他の記事は助けになっており、たいへんありがたく思っております。

今日、この記事を読んで、モヤモヤ、ぐるぐるしてました。

本人が精一杯頑張っていても理想と現実にギャップがあれば鬱になりますよね。その場合、鬱は甘えとは言い難い(←変更前のタイトルについて。)。
著者さんは職場からの気遣いが期待したが、無い。これは鬱の原因でもないですし。
すでに鬱になっているのに、職場の応対で鬱が甘えって時事系列がおかしくないですか?この記事ならタイトルは「わたしの鬱は過度な期待で悪化」かと。

わたしの仮の結論としては「鬱が甘え」も「鬱は甘え」も間違っているかと。イコールで結びつけられないような?
ぐるぐる考えた結果、鬱は「(不安を手軽に満たそうとする甘えや)認識や期待と現実とのギャップから生じ」「ギャップがうめられたり甘えが満たされることで解消しうる」というものかと。
「甘え」は不安解消の過程や手軽な手段でしかなく、鬱そのものではない。直接原因とも言い難い。
休職中に対する配慮を当然と考えていたのなら、(相手によるという意味で)勘違いか見込み違いというものでこれまた甘えとも言いづらい。結果的に甘い考えではあった。
しかし余裕があればツラい状態の人に配慮するのは普通ですしね。お互い様ですし。
甘えるのが手軽な手段であり、相手かまわず手軽な手段だけに頼るのが甘えかと言われれば甘えかも?(でもわかっててやってるわけじゃないからなあ……)なんかこの辺で自分の考えがごちゃごちゃしてます。

「不安の解消をするために満たされない相手に対し承認欲求を満たそうとすることや配慮を求めることは不毛になりかねないアホな考え」という話なら納得しますけど。甘えさしてくれる相手が居て鬱が解消できるなら甘えさせてもらってもいいんじゃないでしょうか。それも駄目なんでしょうか。
いまのわたしの甘えに絡んだ認識は、「鬱を軽減しようと手軽な方法に頼ろうとする甘えという感情?手段?」云々です。「他人に頼ること・期待すること」そのものは甘えではないですよね。

なんにせよ、「鬱が甘え」という表現は誤謬をまねくのではないでしょうかね。(言葉が足りないだけかも?)

きちんとした結論も無く、とりとめなくてすみません。

理想を現実のギャップをどこにおいているのかがポイントになってくると思います。
私の場合は、職場、とうか他人に何かを期待するというところですかね。理想の中に自分に対して他人にして欲しいことがあるかないか、という感じです。
今の私は自分の理想の中にそれがほとんどない状態なんです。

当時の私は自分が精神的にまいっているのだから、相手はそんな自分に気を遣って当然だ、という考え方をしていました。
でもこれはアドラー心理学的な話なんですけど、他者の課題に踏み込んじゃってるんですよ。
相手は相手の都合で生きているのに、その相手の都合を自分の都合のいいように動くことを前提にして考えてしまっている。自分の行動のベースが相手の行動になってしまっている。
確かに休職に追い込まれた人間は健康ではないのだから、もう少し丁寧に扱ってくれてもいいのでは、というのはわかります。実際私もそういう人を見たらそうすると思います。
しかしまぁ世の中にはいろんな人がいるもので、部長みたいな人もいますし、冷たい対応をする人もいる。
でもそれはそれでまた人間の“普通”の一部だと思うんですよ。だって現実に起きた事ですからね。あるべき姿とかではなく、実際に起きた姿なんですから。
みんな自分の欲求に従って行動しているにすぎない。
うつ病の人にやさしくしたいと思うのも、そうしたいという自分の欲求がそうしているだけにすぎず、
「人間は自分のために生きている」という点においては何も変らない。
だから自分の中に他者に対する「甘え」がある限り、私は死ぬまでずっと人に振り回され続けなければならない。
このままでは根本的に問題を解決できないと考えたわけです。だから、人に認められなくても、人に与えられることを期待しなくても生きていけるようにと。
実際、それは私にとっては大当たりでした。

後、この議論の本質は言葉の定義の問題なんじゃないかとも思います。
「甘え」とは何か。その定義に私とコメント主さんでズレがある。私は他人の承認に頼るとか、他人がこちらに尽くしてくれることとか、
「誰かかラ与えられることを期待して行動すること、考えること」が甘えだと思っています。それが私の欝を作り出す原動力だった。
恐らくコメント主さんの思う甘えと、私の定義は違うのではないでしょうか?
しかし、コメント主さんの甘えの定義が間違っている、などというつもりもございません。
私の考えなんですが、人間って言葉の定義を共有しているようで一切していないんですよ。共有しているのは言葉という目に見える、耳に聞こえる「記号」たちだけ。
その意味、解釈そのものっていうのは自分の頭の中にしかない。ある言葉についてどうとらえているかという解釈そのもののことです。
他人のそれは自分の目にも耳にも感じ取れるものではない。誰も人の頭を直接除くようなことも聞くこともできませんから。
故に私達は誰かと同じ解釈をしているとか、違う解釈しているとかを確かめる術をもたない。
唯一言葉だけはそれを可能にしてくれそうですが、言葉は単なる記号ですので、解釈者の都合によっていくらでもかわりますし、加えて発信者もその定義全てを言葉にするのはほぼ不可能でしょう、
仮に同じ解釈を偶然にもしていたとしても、やはり確かめられない以上永遠にそれはわからない。

となると、先ほどわたしがいった「間違い」というのも本質的には存在しないということになります。
相手の思う「間違いの定義」が何なのか。自分はわからない。相手も自分の思う「間違い」の定義がわからない。
わからないのだからそれを絶対的な間違いだとか正解だとか言うことをいえない。

となると人の解釈に本質的な間違いも正解もだすことはできない。言葉って言うのは単に人にある解釈をうながしたり導いたりするだけの道具に過ぎないと思うのです。

まとめると、私の「欝は甘え」とコメント主さんの「欝は甘え」に対する意味や考えはお互いに間違っているとも正しいともいえない。ということになります。
哲学者として有名なニーチェも「真実は存在せず、解釈だけしか存在しない」といっていますしね。

記事タイトルを変えたのは、他人のうつ病の原因までを全て「甘え」だと断定するのはあまりに身勝手で不確かなものだったと反省したためです。
私は私のことしかわからない。だから私のことしか書けない。それに気づいたからでした。

他にもご質問等あればどんどんしていただければと思います^-^

これは仰る通りだと思いました。

ところで…主さんありがとう!
自分が長年囚われていたものがこうやって言語化されていたことに感激です!他人との比較でしか自分を定義できない自分を少しずつ変えれたらと思っています。

主さんが読んだ本全て読んでみようと思います。本当にありがとう。

素早い返信ありがとうございます

うーん。やっぱりモヤモヤしますね。
まあ、色々と考えてみます。主に期待をやめる心構えとか理想の中の自分云々について。

定義の問題ってのはわたしも考えていてあえて書かなかったのですが、
やはり期待することがイコール甘えという解釈にはぴんときませんでした。これについてはこれでとりあえず自分の中では終わりとします。甘えという解釈で納得できるのかもしれない、というところに(考えと希望をw)とどめておきます。

ありがとうございました

いえいえ。私の説明があまりよくないのでしょう。私は根本的要因や結論を説明して包括的な問題を解決しようとするので、そこに至るまでの細かい過程の説明は省いて書いてしまうことが多い野田と思います。他の記事にここに至るまでの過程が色々散らばってしまっているというのもあります。

ただ結局のところこういう問題は「自分がどうしたいのか」って問題に行き着くんだと思うんですよね。
他人に甘えたいとして(期待との違いはここでおいておくとして)それ満たされるから十分なんだ、というのならそれも一つの道なんだと思いますし。

ただ私の場合はそれだとずっと不幸でい続けるしかなかったし、同時に「自由」にもなりたかった。他人の目、承認という縛りから自由になるためにはその他人に対する甘えの思考を徹底的にたたきなおし、既存の価値観を捨てる必要があった。

で、実際に変ってみて、私のうつ病の原因は甘えだったと強く自覚できた。
この記事はそんな私の単なる実体験でしかないんです。

なので、私の記事にモヤモヤを感じられているのであれば無理にあわせようとする必要はないのではないかと思います。コメント主さんにはコメント主さんのお考えがあると思いますし、私にはそれをどうこうできませんしね。

ご質問などありましたらまたいつでもお気軽にどうぞ!

鬱は甘えとの記事を読みました。

あなたが断定的に言い切る主張の根拠は何ですか?
経験談ですか?
主観を押し付けられる嫌な気持ちです。

ただ長いだけの何処かで聞いたような話だし、文章ももう少し練った方がいい。

アンカー勘違いでした。前のコメントは削除しました。お気を煩わせてしまっていましたらすいません。

実体験がベースですが、たしかに自分以外の人を責めるような書き方だととられても仕方がない書き方でした。それについては大変申し訳ありませんでした。

意図としてはうつ病の人の根本的な原因について自分で分析した結果を書いたつもりでした。しかし所詮私は一人の人間なので、自分のことしかわかっていないのでした。

結局は全部自分の話です。人間は自分のことしかわかっていないですもんね。

なので”完全実体験ベース”で改めて書き直そうと思います。「鬱は甘えは真実である」、は、「私の鬱は完全に甘えだった」に変更します。私にとっては間違いないことので甘えなのは変わりません。

他の記事の修正のポイントにもなりそうです。

あと、大変差し出がましいお願いかもしれず恐縮ですが、もし他にも何か意見をお持ちでしたら…遠慮なくコメントして頂ければと思います。
もしここでは何でしたらTwitterのDMでもメールでもかまいませんので…よりよい情報を発信していくためにお力を添え出来きないかと…

大変貴重なご意見ありがとうございました!

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